王都を去る才媛
王都グレイファルトの朝は、静かだった。
昨日の大舞踏会の熱狂が嘘のように、貴族たちは何食わぬ顔で日常に戻りつつある。
――だが、その日常こそが、私の舞台なのだ。
「アルベリヒ令嬢、本日はご出立とのこと……残念でなりません」
ほうけたような表情で見送るのは、帝国経済局の局長、ロズワルト公爵。
私にとって、ただの交渉相手でしかない。
「お気遣い、感謝いたします。ですが、私は婚約者として王都にいたのであって、それが解消された以上、こちらに留まる理由もありませんわ」
静かに、けれども刺すように。
私の言葉に、公爵の表情が一瞬だけ引きつる。
――この男は私がただの飾りではなかったと、今になって気づいたのだ。
「どうぞ、帝国の財務はレオナルド様と新しい令嬢にお任せくださいませ」
にこりと笑って、私は馬車に乗り込む。
そのまま扉を閉めれば、王都との関係も幕を下ろす。
だが、ただ去るだけではない。
「アラン。出発の合図を」
「はっ。全ルート確認済み。王都の諜報網からは完全に外れました」
アランの報告にうなずきながら、私は窓越しに王都を見やる。
この街には、私の知識と技術が隠されている。数年を費やし、密かに育て上げた目と耳が。
――例えば、王宮料理長の見習い。
――例えば、学術院の書記官。
――例えば、帝国銀行の帳簿係。
誰も気づかぬうちに、私はこの都に根を張った。
それが今、静かに芽吹くのだ。
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王都を発って三日、私たちは帝国北部の山岳地帯にある小さな町へとたどり着いた。
名をエルザルトという。かつて銀鉱で栄えたが、いまやほとんど廃村に近い。
「ここが……本当に、本拠地になるのですか?」
若い女官のメイが、不安げに呟いた。無理もない。
人影もまばら、施設も荒れ放題。だが――私は確信していた。
「ええ。ここは見捨てられた土地。だからこそ、誰も気づかないのよ」
私は足元の石をひとつ蹴る。すると、その石が、カチリと音を立て、地面が震えた。
「……地下へ通じる抜け道……!」
驚くメイを後目に、私はゆっくりと地下階段を降りる。
そこには、既に稼働を始めていた――
「情報ギルド《セイレーン》、再起動完了」
薄暗い空間に無数の書簡、符牒、通信水晶、魔法盤。
各地の諜報員たちとつながるこの場所こそ、私の帝国掌握の要である。
「帝都の《赤の商会》、動きあり。婚約破棄の影響を受け、王家支持を撤回する動き」
「《青鷹騎士団》より密書。新たな雇用主を探しているとのこと」
部下たちの報告が次々に飛び交う。
私はそれらを整理しながら、ひとつひとつ手札を並べるように頭の中で図を描いていく。
「まずは商業を制するわ。次に、軍。最終的に、貴族連合を分断」
アランが横から口を挟んだ。
「……レオナルド様は、あなたがここまで用意していたことを知らないでしょうね」
「いいえ。知ろうともしなかった、が正しいわ」
私はわずかに目を細める。
「レオナルド様は愛を選んだの。ならば、私は結果を選ぶ」
静かに放ったその言葉には、揺るぎない意志が込められていた。
私にとって王太子妃という地位は、単なる通過点だった。
今から目指すのは――皇帝の“上”、帝国の実質的支配者。
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夜。ギルドの一室で、私は一通の手紙を書いていた。
宛先は、『王都外商組合・理事長代理』
内容は、極めて単純。
> 「今こそ、古き約定を果たすとき。アルベリヒの名において、取引を再開する」
かつて私は王宮にいながら、裏で動き続けた。
公にはできない交渉も、秘密裏の貸し借りも。すべて、今この瞬間のためだったのだ。
アランがそっと声をかける。
「本当に……あの夜、破棄されることまで読んでいたのですか?」
私は、手紙に封蝋を押しながら答える。
「可能性の一つとして想定していた、というだけ。けれど――」
私は振り返り、アランの目をまっすぐに見据えた。
「私を捨てるような男の横で生きる気は、最初からなかったのよ」
アランは小さく笑った。
その笑みには、畏怖と尊敬と、そして――微かな忠誠が滲んでいた。
「……女神のようですね、セリナ様は」
「いいえ。私は、女神ではないわ」
私は立ち上がり、黒衣を羽織る。
そのまま、灯火の消えた窓辺へと歩み寄り――静かに言った。
「私は、悪女よ。知恵と策略で帝国を手にする魔女」
遠く、王都の空に光る星を見つめながら、私は静かに誓う。
――待っていなさい、レオナルド様。
――あなたが選んだ愛の結末が、いかに脆いかを教えて差し上げますわ。
そして――
二年後、帝国の頂点に立つのは、かつて婚約を破棄された、ただの令嬢ではない。
知略と影の支配者、セリナ・アルベリヒ――その名が、帝国全土に響くこととなる。