戴冠の前夜
セリナ・アルベリヒは、静かな夜の王宮に一人立っていた。
新たな摂政府庁舎の落成式も終わり、明日は彼女自身の戴冠式――いや、正確には新設される「民政最高会議議長」への就任式である。
帝国はついに、王による支配から民意による統治へと移行する。
その象徴として、人々が選んだのが、彼女だった。
「本当に……ここまで来たのね」
彼女は夜空を見上げながら、誰にともなくつぶやいた。
王宮のバルコニーから見下ろす帝都は、かつてより遥かに穏やかな灯りを放っていた。
あの夜、宰相ヴァレンを追放した日とは違う――変革の痛みを越えた、温もりのある光。
「……眠れないのか?」
背後から聞こえた低い声に、セリナは振り返る。
そこには、アラン・クローディアがいた。
彼の鎧は脱がれており、かつての護衛というより、今はただ一人の男として彼女の前に立っていた。
「明日は、長い一日になりそうだから。少し、風に当たってたの」
「明日が来れば、お前は帝国史上初の選ばれた指導者になる。……怖くないのか?」
「怖いわよ」
セリナはあっさりと答えた。
「でも、それ以上に、楽しみなの。だってようやく……スタートラインに立てるんだもの」
「これまでのは、準備だったと?」
「ええ。怒りも、涙も、挫折も。全部、ここに至るまでの道だった」
セリナはバルコニーの縁に両手を乗せ、そっと息を吐いた。
「……でも、もう私一人の国じゃない。アラン、これからの私は、間違えることもあると思う。だけど」
彼女は彼を見た。
「あなたが隣にいてくれるなら、私は何度でも立ち上がれる」
その目は、あの日、婚約破棄されたあの舞踏会の夜とはまったく違っていた。
憐れみでも、復讐でもなく、ただ静かな強さと未来を信じる光。
アランは短く息を吐き、彼女のそばに立った。
「……俺は、ずっと君の傍にいる。たとえ君が女帝になろうと、民の母になろうと」
「プロポーズ?」
茶化すように言ったセリナに、アランは真顔で答える。
「ああ。そうだ」
セリナの目が一瞬見開かれた。
「俺にとって、君は最初から主じゃない。想い人だった……今、言わせてくれ」
彼は片膝をつき、右手を差し出す。
「セリナ・アルベリヒ。新しき帝国の象徴にして、ただ一人の君へ……俺の人生を預けたい」
夜風が優しく吹き抜けた。
セリナは、その手をそっと取った。
「ええ。よろしくお願いするわ、アラン」
それはかつて、彼女が王太子に、婚約者として差し出した手とは違う。
対等に、誇り高く、そして心からの選択だった。
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翌朝。帝都フィリシアには、数万の民が集まっていた。
会場となった中央広場には、各地から集った代表者たちが座し、玉座は象徴として後方に引かれている。
セリナは淡い白金の礼装をまとい、ゆっくりと演壇へと歩み出た。
アランがその背を静かに守っている。
「……セリナ・アルベリヒ、これより、議長として宣誓を行います」
その声が響いた瞬間、広場は静まり返った。
「私は、この帝国を愛します。ゆえに、変わることを選びました」
「民を守ることは、支配することではなく、支え合うことだと信じています」
「この手が、誰かの希望となることを願います」
言葉が一つずつ、人々の胸に染み渡っていく。
「この国の未来は、私一人のものではありません。ここにいる皆さんと、まだ生まれていない子どもたちと、すべての命のために――私は、立ち続けます」
その瞬間、無数の拍手と歓声が巻き起こった。
民は立ち上がり、泣き、笑い、そして叫んだ。
「セリナ万歳!」
「新しき時代へ!」
「女帝じゃない、民の導き手だ!」
その中で、セリナはただ、静かに微笑んでいた。
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夜、式典が終わった後。
王宮のバルコニーで、彼女はまた一人空を見上げていた。
そこへ、アランがやって来る。
「明日からは、議長閣下と呼ばねばな」
「やめてちょうだい。ぞわっとするわ」
二人は並んで笑いあう。
「さて……これからが本番ね」
「帝国を変えるんだろう? それなら、俺の剣は君のためにある」
「ふふ……じゃあ、あなたの剣に見合う国を、ちゃんと築いてあげないとね」
彼女の目は、もう未来しか見ていない。
遠く鐘が鳴る――新しい時代の始まりを告げるように。
こうして、かつて婚約破棄された一人の少女は、
二年の時を経て、帝国の頂に立った。
だが、それは「終わり」ではない。
これは――始まりの物語。




