公開破棄
帝都グレイファルト、その中心にそびえる王城――
この夜、千の灯火が宮殿を彩り、万の視線がひとつの舞台を見つめていた。
年に一度の大舞踏会。
王太子の婚約者、すなわち未来の皇妃候補が民衆の前にお披露目されるこの夜は、まさに帝国最大の社交行事である。
――だが今年は、違った。
「これより、第一王太子レオナルド・グレイファルドは、セリナ・アルベリヒとの婚約を破棄する」
その瞬間、時間が止まったかのように感じた。
真紅の絨毯を背に立つ王太子レオナルドの声は、澄んだ夜空を切り裂くように響き渡る。
ドレスの裾を揺らし、私――セリナ・アルベリヒは、ゆっくりと頭を下げた。
「……わかりました」
小さな、しかしはっきりとしたその返事に、会場はざわつくどころか――喝采を送った。
「真実の恋に生きるなんて素敵!」
「庶民の少女が王子様を射止めたなんて、まるでおとぎ話みたい!」
「アルベリヒ令嬢? 気の毒だけど、時代は変わったのよ」
騒ぎの渦中、私は微笑むことすらせず、ただ静かに一礼し、背を向けた。
この夜こそが、私にとっての始まりなのだから。
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「……いよいよ、ですね」
王宮を出た馬車の中で、私は独りごちた。
十七年の人生。
私はただの装飾品だった。
アルベリヒ家は代々、帝国の知を支える学者・官僚の名門。
その末裔として生まれ、私は幼い頃から「天才」と称されてきた。政治、経済、歴史、語学、魔法理論――どれも私にとっては、呼吸のようなものだった。
だが、それが「令嬢」である私にとっては足枷だった。
どれほどの才能を持っていようと、王家の「飾り」として選ばれた時点で、私の運命は決まっていたのだ。
「王太子妃として相応しくあれ」
「目立ってはならぬ。控えめに、品格だけを守れ」
学問も交渉も、自由も夢も――全て、奪われた。
けれど今夜、私はそれらすべてを取り戻した。
そう、婚約破棄は自由だった。
レオナルド様の言葉も、会場の嘲笑も、私にとってはただの引き金に過ぎない。
馬車の揺れが止まる。
王都を出て、帝国北端にある辺境領。その地にある、誰も知らぬ私の居城――
扉が開いた瞬間、懐かしい声が響いた。
「おかえりなさい、セリナ様」
その男は、軍服を少し砕けた着こなしでまといながら、深く頭を下げた。
アラン・フェイヴァル。かつて王宮近衛に属していた剣士であり、今は私の忠実な影だ。
「ただいま、アラン。予定より早く戻れたわ」
「帝都の空気が、よほど不快だったのでしょう」
「ええ……思ったより、滑稽だったもの」
私は笑った。心から、自然に。
こんな笑いを浮かべたのは、いったい何年ぶりだろう。
「情報部は?」
「すでに準備は整っています。新たな依頼も三件。報告書は書斎に」
「よろしいわ。あとは、次の舞台の準備を進めましょう」
屋敷に灯るのは、知略と策謀の光。
私が築き上げた影の王国――情報ギルド《セイレーン》の本拠地が、今、再び目を覚ます。
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深夜、書斎の机の上には、帝国中の貴族・商会・教会の動静がびっしりと並んでいた。
私は指先で一つの地図を撫でながら、唇を噛む。
「まずは、商業だわ」
経済は国の血液。その流れを握る者が、最終的に国家を制する。
そして情報は、その神経。私の得意分野だ。
レオナルドは、自由な恋を取ったが、私は国家そのものを奪う。
華やかさも、感情もいらない。必要なのは、知識、理性、そして覚悟。
「二年……二年あれば、帝国の頂点に立てるわ」
口にした瞬間、背後でアランがわずかに息を呑む音が聞こえた。
だが、否定の言葉はなかった。ただ、静かに剣の柄に手を置く音だけが返ってきた。
「……動き始めましょう、セリナ様」
「ええ。まずは影の商会への挨拶からね」
私はペンを置き、立ち上がる。
かつて王の飾りだった令嬢が、今や策謀の主として再誕する。
「私を侮ったこと、きっと後悔させて差し上げますわ」
窓の外、月は冴え冴えと白く――
その光の中で、私はもう一度、静かに微笑んだ。