九 天光絵巻
「あのな早瀬、斎丸は怒らせたらだめだ。なんというのかね、めんどくさい」
緋高はそう言うが、斎丸の怒りはもっともだった。早瀬は緋高に頭を下げた。すると緋高は首をかしげ、のぞき込んでくる。
「でも、なんで来たんだ? おれたちが働き詰めだと思って心配してくれたのか? それならだいじょうぶだから安心してくれていいけど、でも、なんかすごい格好だぞ」
言われて、早瀬はおのれの格好をたしかめた。飛び出してきたので、いつもより身体を守るものが少ない。顔を覆う布も頭巾もなく、手甲も脚絆もしておらず裸足だ。それから袴ではなかった。沙那と小兎が用意してくれた、紺の小袖の着流しだ。窓から出たり垣を越えたりしたために、盛大に着崩れている。
「いろいろわからないことはあるけど……。とりあえずそれは着るのか脱ぐのかはっきりしたほうがいい、みっともないぞ」
緋高はからかうのでもなく、おおまじめな様子で早瀬に忠告した。
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小袖をまともに着つけ直したあと、早瀬は緋高に引きずられて村の物見櫓に上った。木組みの簡素なものだが屋根がついており、三人で上にいても窮屈でない広さがあった。三人でも。緋高だけではなく、斎丸も一緒だったのだ。斎丸は早瀬に一切近づこうとせず、なにも言おうとしなかったし言わせるつもりもなさそうだった。
櫓の上からは、村の様子がよく見えた。田畑のあいだに細い道がうねり、藁屋根の小さな家々が集まり、村の中心のほうには、ほかより立派な建物があった。村の寄り合いをするところらしい。傀廻しが入ることはないところだ。飛び出してきた吊頭所は、村の外れに見えた。それから櫓の上からは、墓場もよく見えた。
この豊手村の墓場は、物守村のあった国境の山脈の裾と、村の西にある小さな山のふもとの二か所に設けられているらしい。傀が下りてくるのはそのどちらかからだという。
早瀬が上った櫓は、村の西側にある墓場のそばに立っていた。傀が下りてこないか、目を光らせるための場所なのだ。すっかりやる気の傀は墓など気にしないことも多いので、そのような様子でやってこないか見ておかなければならない。
櫓は村に三つあるらしかった。墓場のそばにひとつずつ、それからもうひとつは南東の隅、墓場のないところにあるようだ。俯瞰するための場所らしい。豊手村の傀廻し四人がそれぞれの場所につくことになっており、どこかはふたりになるのだと緋高は言った。だれがどこへ行くのかは、毎日くじ引きで決定するとのことだった。
緋高が親切にいろいろと教えてくれているあいだ、ふたたび傀が出ることはなかった。そしてあたりが、うっすらと明るくなってきた。うしろから日が昇ってきたのだ。
仕事が終わりということで、早瀬はいま緋高に引きずられ、吊頭所へ戻っている。朝の空気はしんと、張り詰めている。
なにやら、足もとがふわふわとおぼつかない。心もとなく歩いていると、急に緋高がああーと声を上げた。
「言い忘れてたけど早瀬、さっき出たあいつな、一太っていうんだよ」
そう言った緋高が勢いよく身体の向きを変えれば、腰に下げた太刀が左の斎丸にぶつかりかける。斎丸は避けることなくその鞘を掴み、無造作に緋高の向きを戻す。
「一太……」
緋高の右にいる早瀬は、ぼんやりその名前を繰り返した。
その地の傀廻しと傀は、よく顔突き合わせる。あいつはしばらく来ないので死んだらしいとか、こいつは新顔だとか、すぐにわかる。べつに望んでいなくてもそうなるし呼べたほうが便利なので、傀の名前を決めていることが多い。早瀬がいたところも、いままで行ったところもそうだった。
「このあたりの傀は、西の山に二体と、北の山に七体いて合わせて九体なんだ。一太から六太と、七太郎と、八太九太って呼んでた」
「そうか……」
「なんで七太郎だけ七太郎かというと、しちたじゃいちたと紛らわしいし、ななた、は斎丸がなかなか言えなかったから変えたんだ」
「うん……」
「でも早瀬さ、三太から九太、ほとんどえぐり出しちゃったんだろ?」
「ああ……」
「すごいよな。さすが離れびとだ。な、斎丸」
斎丸は返事をしない。緋高はしかたのない弟を相手しているみたいに笑っている。
「でも、お屋形さまのところに行くんだったらやっぱり、お叱り受けるかもしれないよな、六体はちょっとやりすぎだ」
緋高が言い、斎丸が石を蹴飛ばした。早瀬は足もとを見ながらうなずいた。爪のあいだにも土が入り込んだ足は、草鞋を履いている。早瀬は裸足だったので緋高が、おれは足袋があるからと言って貸してくれたのだ。履きならされた草鞋はやわらかく、裸足でも痛くはなかった。断り切る力がなかった。
「まあ、どうなるかわからないのが傀だから、いいか」
緋高はのんきな声を出し、早瀬を引っ張る。そのときそばの家の戸が開き、早起きの村びとが顔をのぞかせた。早瀬は咄嗟に目をそらし、下を見た。
その後も、なにくれと話しかけてくれる緋高にこたえつつ歩き、やがて吊頭所が見えてきた。
「おっ、男前が三人お揃いじゃねぇか?」
突然、尽平の声がした。早瀬が顔を上げると、白んだ景色の中に大変ふざけた顔が浮かんでいた。それを剥ぎ取りながら、尽平は大股で近づいてくる。鳶色の水干の、袖が大きく広がって揺れる。片袖だけ脱いでいる。なんかあれってかっこいいかも、などと早瀬は関係のないことを思った。
「おはようお疲れ斎丸緋高。そんで早瀬はなんでいる?」
尽平は斎丸と緋高に挨拶してから、早瀬を見た。ひどくうさんくさいものを前にしたときの顔をしている。早瀬がこたえる前に、緋高が言った。
「気を遣ったんじゃないですか。おれたち昼間からずっと用事をしてるから。宵からの仕事も手伝おうとしてくれたのかなと」
「そうか、ありがたくない迷惑だな」
尽平はむぎゅっと顔をしかめて断じ、ふと、首を伸ばして呼んだ。
「瑞延」
うしろから、かろやかな足音が近づいてきて追い抜かれる。きら、となにかが光をはじく。槍の穂だった。
「おはよう」
槍を手にした瑞延は、凛と通る声で言う。
「お疲れさま。あなたもいたのか」
早瀬はようやく、尽平と瑞延に挨拶した。ふたりはそれぞれ、べつの櫓にいたのだ。尽平がひょいと肩をすくめる。
「早瀬さんよ。これからお約束なんですけど。忘れちまったのか?」
「いいえ、鞘野さまのところへ、お邪魔させていただきます」
「まったく、途中で寝るんじゃねぇぞ。まず着替えろ、なんだその格好クソ寒い」
尽平が言って歩き出し、みんなそれに続いた。
「ほんとうだ、外に出る格好ではないね。どうしたの?」
「なんか、一太の声が聞こえて、急いで出てきたらしいです」
「ああ……たしかに声は出していたよね、一太」
「おとなしく寝てるかと思ったのによ」
「身体はだいじょうぶなの?」
瑞延の問いにこたえようと、早瀬は顔を上げた。そのときだった。ふ、と目の前が揺れて、地面から足が浮き。胸の中が、抜き取られたと。そんなふうに思った。
千世が、正面に立っている。くっきりと冴えた風に、長い黒髪を梳らせて。白の袖をあそばせて。
そのすがたを、ひとめ見ようとしたか。ふいに空から光が差し込む。千世のほそやかな肩に、ふうわりと、かさねられる。それはまるで、すきとおりきらめく羽衣。まとって千世は、早瀬を見ている。澄み切ったまなざしを注いでいる。ひかれる。ひきこまれてしまう。はなしてなどくれないのだ。ほしかった。ほしくなかった。もう、はなれることはできない。
「早瀬?」
緋高の声で、気づく。その場にくずおれていた。
「どうした? だいじょうぶか?」
緋高は、慌てている様子だ。尽平と瑞延も、そばにかがんでいる。それを眺めていた早瀬は、我に返り、何度もうなずいてみせた。
「だいじょうぶ、なにもない、すごくだいじょうぶ」
「え……ほんとかなあこのひと……」
緋高は顔を引きつらせている。そのうしろから突然、早瀬さん、と高い声がした。
「早瀬さんっ、だいじょうぶですかっ?」
小兎だった。小兎は跳ねるように駆け寄ってくるなり早瀬をぐらぐら揺さぶり、かと思えば立ち上がり尽平にすがりつき、悲鳴を上げた。
「ごめんなさい、いま気づいたんです!」
「えぇ? あぁ……? まあ落ち着けだいじょうぶだから」
すがりつかれた尽平は小兎の頭を撫でている。
「なにがあったの?」
瑞延が落ち着いた様子で問うと、はっきりとしたこたえが返った。
「わたしたち、千世ちゃんたちを任されましたけど怠慢でした」
言いながら、沙那が千世の肩に羽織をかけている。
「いつのまにか早瀬さんがいなくなってて、千世ちゃんもいなくなったかと思ったら外にいたんです。いま気がつきました」
はっとして沙那の顔を見ると、沙那も早瀬をとらえていた。心底わけがわからないという顔で睨まれる。沙那はそのままの表情で早瀬を見ながら言った。
「油断してしまいました。戸も使わないで出て行くとか、また千世ちゃんを置いて行くとか、そんなこと考えてませんでしたし」
「おれもです!」
間髪入れずに小兎が叫ぶ。黙って聞いていた瑞延が、くすりと笑った。
「わかった。だれも何事もなかったから、だいじょうぶだよ。ところで、尽平が朝までに握り飯を頼んでいたはずだけれど用意してくれた?」
「はいっもちろんです!」
「ありがとうね」
瑞延に、あなたもねと撫でられながら、沙那がまっすぐ歩み寄ってくる。千世の肩を抱いたままだ。早瀬は地面にへばりついたまま、茫然とふたりを見上げた。
「気づかなかったわたしはわるいです」
沙那は早瀬を見下ろして言った。
「でも千世ちゃん、たぶんずっと外であなたを待ってました。会ったばかりらしいのは知ってます。でも急に置いていくのはおかしいと思います。あなたやさしいんでしょ」
沙那の声は平坦だった。早瀬は、なにも返すことができずうつむいた。そのときいきなり、腕を上へ引っ張られる。尽平だった。
「おい、その情けねぇ面さげとくのは許さん、お屋形さまの御前に参るんだぜ。まず着替えろ」
見上げると、まっさらな空の青が沁みた。早瀬は目を細めながら立ち上がった。
「沙那と小兎がおむすび用意してくれてるからな、うまいんだぞ」
「はい……」
尽平に腕を引かれ吊頭所の中へ入るとき、うしろから千世が見ていると思った。早瀬は、振り返ることができなかった。