三 代代のことわり
長身の稀男だった。なよやかな水干の袖をしぼり、肘より上げて着こなしている。目鼻立ちはすずやかに整い、髪は結わずにすむほど短い。それが額にこぼれ落ちたのをかき上げ、さらりとうしろへ撫でつける。そんな仕草も、すんなり絵になる。絵になりすぎるせいなのか、気配がまったくなく気がついていなかった。
「え……」
驚きのために一音もらすのでせいいっぱいの早瀬に、かの男前は、にやっと笑いかけた。
「目がさめたか、離れびとさん」
部屋に踏み入ってくると、早瀬のそばに腰を下ろす。ひょいと早瀬の顔をのぞいて、大きくうなずいた。
「まあだいじょうぶそうだな。だいじょうぶそうだし、お嬢さんよかったな、離れびとさん目がさめて。このお嬢さんあんたから離れようとしねぇんだよ、なあ? うん、こっち見てくれねぇけどまあいいや。えっとなんだ、離れびとさんよ、あんたの手甲と脚絆と頭の布は、洗ってるだけで捨ててねぇから心配すんな。わるいけどさすがに、それとそれは脱がさなかったぞ、きりがねぇからな」
流れるようにいろいろと言いながら、早瀬が着ている筒袖と括り袴を指差す。まだ続く。
「でも気持ちわるかっただろ、身体洗っていいぞ。水浴びろって言ってもよかったけど寒いからな、湯を沸かしてくれてる。……ん? あ、やっとそれ使ってくれたのかお嬢さん、千世さんっていうのね、すてきなお名前だ。ああそんで離れびとさんが早瀬ね、おれは尽平」
早瀬を見て気の毒そうな顔をし、腕を組んで紙を見下ろし感心し、かと思えば早瀬に向き直り、いたずらっぽく笑んで名乗った。精悍な顔が、ずいぶん親しみやすくなる。ただ、その早口についていけてはいない。
早瀬はひとまず、尽平というらしいそのひとに会釈した。よごれた持ちものを洗ってくれているとか、湯を沸かしてくれているとか、そんなことを言っていたように思うのだが気のせいだろうか。そして、ここは物守村ではないとも言った。
「あっそれは、なんであんたが離れびとだってわかったのかっていう顔か?」
尽平はにやりと笑って、早瀬に問う。早瀬がこたえる前に言った。
「そりゃ、見かけねぇ顔が真っ黒血まみれで倒れてて、それがあったら離れびとだろ」
あっけらかんと言う尽平は、早瀬の手首を示している。左も、右も、入れ墨が入っている。黒い鎖のような模様だ。
「まあおそろいだけどな」
そうつけ加えた尽平の、剥き出しの両手首にも、早瀬とおなじ入れ墨があった。これは、傀廻しである証。代代を経て、使われている印だ。
「でもおれは離れびとじゃねぇよ、ここの傀廻しだ」
「ここ、の」
「そう、豊手村っていう村」
早瀬は思わず息を飲んだ。ここは、物守村ではなく豊手という村なのだ。
物守村は、特別な場所だった。羽流という国と、その南の良庫という国の、境に横たわる山中にある。どちらの国にも、どこの国にも属していない村だった。早瀬は通りかかるまで、その存在を知らなかった。
しかし豊手という村はちがう。その名前は知っていた。羽流と、良庫の境近くの、良庫側にある村の名前だ。
「ここは良庫国なのですね」
目指してきた国だ。すぐ近くまで来ていた。でももうたどりつくと思うと怖気づき、それできっと、偶然見つけたあの村に寄り道をした。
尽平は目をしばたき、そうだよとうなずいて、さらさら続ける。
「ここは良庫の豊手村の吊頭所だ。あんたがこの近くで倒れててさ、そばにこの千世さんもいたから、ほっとくわけにいかなくて連れてきたんだよ。うちの所長がな。いちおう言っとくと、あんたを見つけたのは今朝で、いまは昼過ぎだ」
そしてふいに、口をつぐむ。ずいぶんと、おだやかな声音で言う。
「早瀬、あんたがんばったな。よく連れてきたよ。千世さんも、よくがんばった」
尽平が傀廻しなのだから、ここが傀廻しの詰所であることに驚きはない。けれど尽平の言いぶりからすると、早瀬が千世をこの近くまで連れてきて、倒れたということになる。そんなことはしていない。覚えていない。
ん、と首をかしげた尽平が、案じるようにのぞき込んでくる。
「すまんな」
さらに声をやわらげた尽平の目を見る。淡然と、光っている。
「でも早瀬、あんたはこの子を助けただろ。じゅうぶんだよ」
ぞわり、と背中を、毛虫の骸が滑った気がした。
「あの村にたまたま、いたんだろ……。あんなわけわかんねぇこと、そうそうあるもんじゃねぇよ……」
尽平は言って、かすかに顔を歪める。意味が、わかりそうでわからず、わかりたくない。頭が考えることを拒み、つめたくなっていく。尽平の静かに鋭い目が、それをとどめる。
「なにか……」
早瀬は、じっと黙っている千世の気配を感じながらつぶやいた。
「なにか、あったのですか、あの、あそこで……」
「え?」
尽平が、かるく眉を寄せた。
「あんた、ちがうのか」
「なに……」
「あの村から千世さん連れて、逃げてきたんじゃ、ねぇのか」
あの村、物守村は、傀に襲われたのだと尽平は言った。
今朝、早瀬が黒い血染めになってこの吊頭所の近くに倒れているのを、所長が見つけた。早瀬のそばには、千世が座っていた。
傀廻し、しかもおそらく離れびとであろう者が、真っ黒になり少女をひとり連れて、気絶している。これはただごとではないと、黒い血の跡をたどり、村に入ってくる早瀬を見たひとびとの話をたどった。山に入り、そして、赤い血染めになった物守村を見つけた。
早瀬が傀とやり合っていたあいだに、それは起こったようだ。あの村は、べつの傀に踏みにじられた。あの村のひとたちは、傀にみな殺しにされた。