二 伏して
跳ね起きる。両手で口を塞ぐ。飲め。
飲み込め、そうしなければ、確実に終わる、ここで、終わるわけにはいかない、あれを、あれを仕留めるまでは、だから飲め、飲み込んでしまえ、そうすれば、もしかしたら─────
ふ、と口もとを掴んだ力がゆるむ。ちがったのだ。さきほどまでと、空気がまったく、ちがった。早瀬は口から手を離した。喉が鳴り、生唾だけが流れ込んでくる。
てのひらが、目に入る。裏返してみる。何度もたしかめる。なにが起きたのか、わからなかった。少しもよごれていないのだ。黒い血にまみれていたはずなのに。恐る恐る、顔を上げる。
部屋の中だった。四、五人はゆったり横になれそうな広さの部屋だ。横木の入った板戸と、藁の混じった土壁とで区切られている。壁には窓がついており、木戸が上げられつっかい棒で支えられている。そこから冴えた光と風が入り込み、板敷きの床を滑っている。
早瀬は、窓から少し離して敷かれた筵の上に座っていた。洗いざらしの小袖が数枚、身体にまとわりついている。それを剥ぐと、着ているものは泥と血で硬くなった筒袖と袴のままだった。
すぐそばに、打刀と脇差が並べてあるのが目に入る。下に布が敷かれており、血で濁っているはずの鞘は静かに黒光りしていた。
ここは、どこだろう。見覚えは少しもない。早瀬は刀を引き寄せ抱き込んだ。ふるえる喉で、大きく息を吸って吐く。心臓が暴れている。なにか、夢を見ていた気がする。夢は、なにからどこまでだ。いまも、夢の中なのか。
「ごめんなさい─────」
こん、とうしろで、間の抜けた音がした。早瀬は顔を上げ、振り向いた。
「うわ……っ」
思わず声が出てしまう。そこに、ひとが座っていたのだ。
十五かそこらかという少女だった。さきほどの音は、この少女が板戸に頭を預けたときのものらしい。戸にもたれかかり、少女は早瀬をじっと見ている。白いおもてを彩る瞳で。
早瀬はしばし茫然と、少女を見つめ返していた。そしてだしぬけに我に返り、あっと叫んで刀を放り出した。
夢などではなかった。いま目の前にいるこの少女は、昨夜山の中で見つけたひとだ。昨夜なのか定かでないが、さすがにあれから何日も経っているということはないだろう。
「あのっ、だいじょうぶでしたか?」
つい逸ってしまう。あのときこの少女は、窪地で傀に囲まれていたのだ。なぜか寄り集まり転げ回っていた傀たちに。だから早瀬はその傀たちを切り、えぐり出し、そして。
そのあとのことは、よく、思い出せなかった。でもとにかく、この少女はあのひとだ。一緒に、どうにかして場所を移ってきたのだ。どうやって、よりも先にしっかりとたしかめたくて、早瀬はかさねて少女に問うた。
「無事ですか、怪我はありませんか」
少女は、黙っている。うるさかったかもしれないと気づき、早瀬は少し声を低めた。
「どこか痛いところなど、ありませんか」
少女は、口をひらいてこたえようとはしない。静かに澄んだ瞳を、早瀬に向けるばかりだ。早瀬はそっと視線を外した。
「怪我、はないみたいで、きれいだし、よかった……」
ぬかるむ山中の、窪地にいたのだ。傀のせいでなくとも、石や草で怪我をしていたかもしれず、少なからずよごれてもいただろう。けれど見たところ少女の身体に傷はなく、着ているのはこざっぱりした卯の花色の小袖だ。あまりじろじろ見たくはなかったのだが、とりあえず無事をたしかめられて、早瀬は少しほっとした。
しかしそんなことを、いまになって確認するのはおかしいのだ。なぜかわからないが、おそらく傀たちを屠ったのちに気絶し、さっきまで寝ていた。それはこの少女を、安全な場所まで送り届けてからにしなければならなかった。
きっとだれかに助けられてここにいるのだろうと、早瀬は考えた。あの窪地から、このきちんとした部屋まで、自力でたどり着いたとは思えない。手や刀を拭いた覚えも、少女の身なりを整える手配をした覚えもない。傀退治を依頼してきた、物守村のひとだろうか。離れびとを世話するようなひとたちが、ほかにたくさんいるとは思えない。いまはとくに、傀の血でひどくよごれているのだ。
仕事を頼んだ離れびとがなかなか戻らないので、物守村のひとたちが捜してくれたのかもしれない。それなら大変な手間をかけてしまったことになる。申し訳が立たないが、いくらなんでも、そこまではしないだろうか。
この少女が、物守村のひとだということはありうる。村のひとたちが捜したのは、このひとだったのかもしれない。あの窪地で少女を見つけ、ついでに離れびとも拾ってくれた。けれどそうだとしても、どうしてこのひとは、あんなところであんな目に遭うことになったのか。部屋を出れば、だれかいるだろうか。なにかわかるだろうか。
「あの……」
早瀬は、板戸にもたれた少女をのぞき込んだ。けれども少女はこたえず、表情も変えず。ただひたりと、早瀬を見つめ返してくる。早瀬は座り直しつつ、さりげなく目をそらし、少女の手もとに紙と矢立があるのを見つけた。
「あの、もしかしてそちらを、お使いになりますか」
紙と矢立を手で示し、少女に問うた。このひとは、声が出ないのかもしれないと思い至ったのだ。早瀬は少し膝を進めて、少女に近づいた。少女はふうと、睫毛を伏せる。
「少し、お貸しいただいても……?」
早瀬が控えめに手を差し伸べると、少女は音もなく矢立と紙を取り上げた。やわらかな月白がふわりと舞って、片端が早瀬の手に届く。その上から、ぱしんと木作りの矢立を押しつけられた。思ったより勢いがよく、早瀬はお礼を言いながら、つい笑みをこぼしていた。
紙を床に広げ、檜扇をひらくように矢立の蓋をずらす。中の墨壺は乾いていない。ほっそりした筆を手に取り、墨を含ませ紙の上に走らせる。手もとに視線を感じながら書き終えて、少女に見えるよう紙の向きを変えた。
「早瀬と申します」
紙に書いた名前を示しながら言う。冷えた風が吹き込んできて、紙をひらりと浮き上がらせる。
「傀廻しで、旅をしています。村のかたたちにお会いして、近頃うるさい傀を仕留めることになったので、昨夜は山にお邪魔していました」
少女は、早瀬の書いた字を眺めている。早瀬は少女の近くに矢立を返した。
「もしよろしければ、あなたのお名前もここに」
まずは名前をたずねて、そしていろいろと聞きたい。ここはもしかすると、この少女の家かもしれないのだ。勝手にうろうろするわけにもいかないだろう。
少女はゆっくりと、まばたきをした。戸から背中を離し、ふわりと近づいてくる。そして筆を手に取った。
筆の先が、墨をついばむ。早瀬の名前のとなりへ降りる。かろやかに、紙の上を踊る。書き終えて、少女はことりと、筆を置く。
千世、と。
覚えず声が、こぼれていた。まっすぐなまなざしを向けられ、目を伏せる。
「すみません、あの、教えてくださってうれしかったので」
少女のこたえはなく、どこかで鳥がのんきに鳴くのだけ、聞こえる。視線を上げられず、早瀬は紙をまじまじ見ていた。
早瀬のとなりに、のびやかに記されたその名前。早瀬が書いたのとおなじように、横に読み方まで添えられている。乾いた白に、染み込んでいく。その黒は潤んでいる。
「教えていただいて、ありがとうございます」
気を取り直して言うと、一緒に紙を眺めていた瞳がふたたび、早瀬をとらえた。早瀬はそっと、少女に笑いかけた。おうかがいしたいのですがと前置きして、呼んだ。
「千世さま」
今度は、離れられなかった。ほしかった。ほしくなかった。
「ここは、物守村、でしょうか……」
「ちがうぜ」
突然降ってきた声に、びくりと肩が跳ねる。顔を上げた早瀬は、目をむいて固まった。千世のうしろの戸が開いており、そこにだれかが立っていたのだ。