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1話『喪失する俺』

 ……何かが俺の中に巣食っている。

 そいつは俺のことも、愛した者たちのことも、何もかもを飲み込み、奪っていく、消していく――


 ――やめろ!


 声にならない悲鳴は誰にも届かない。

 俺という存在が喪失していく最中、暗闇の中から一人の女が姿を現した。

 妖艶な美貌を感じさせる顔立ちを持ち、暗闇よりも更に闇深い長い髪で耳を隠したその女を、俺の直感が人間の範疇を逸脱した化け物だと判断する。


 化け物は薄笑いを浮かべ、酔いを齎すような甘い声音で俺に語りかけた。


『これ以上あの女に入れ込んじゃダメだよ。だって――ダーリンの初めては、ボクが貰うんだから』


 そんな言葉を言い終えると化け物は自らの腹を宝物のように撫でる。

 その姿はまるで、我が子の誕生を願う優しい母親のように思えた――


  ◆


「――シュヴァルツ様っ、シュヴァルツ様っ!」


 目を開けるとそこには女の子がいた。

 長く艶のある金色の髪、透き通るような青い瞳、そして女神を思わせる美しい顔立ちだ。

 着衣の乱れを除けば、これほど清廉という言葉が似合う人間はいないだろう。

 そんな少女は青い瞳を濡らしながら、俺を見ている。


 ……誰だ?


 俺の記憶の中にこの少女の存在はない。

 それどころか、自分のことすらわからないときた。

 状況を考えると、少女が呼ぶシュヴァルツとは、俺の名前なのだろうが……。


 俺はむくりと体を起こし、目の前にいる少女に問う。


「ここは……どこなのでしょうか? 貴女は……誰なのですか?」


 ベッドの上で、着衣を乱した少女と俺は見つめ合う。

 ちゅんちゅんという小鳥の囀りのみが響き、まるで二人の時間だけが止まっているかのように静かになった。


 暫くして、唇を震わせながら少女が叫ぶ。


「冗談はやめてください! 心配したんですよ! それに、私に、あんな、あんな、あんな……ことしておいて……!」


 少女の感情に呼応するかのように、家具がカタカタと揺れ、宙に浮かび始めた。


 ……魔法だ。特定の人間は己が身に宿る魔力を使いこなすことができる。

 そんな少女の魔力の流れを読むと、少女の魔法に対する素養がかなりのものだということがわかった。


 自分のことすら忘れているというのに、こういった知識に関しては、どうやら問題なく覚えているようだ……って、今はそんなことを悠長に考えている場合じゃない!?


 宙に浮かんでいる物の標的は、どうやら俺のようだ。

 理由はわからないが、俺の態度が彼女を怒らせているのは間違いない。

 もしかして、俺が記憶喪失だというのが彼女に伝わっていないのだろうか!?


「ほっ、本当なんです! 信じてください! 自分のことも、貴女のことも、何も思い出せないんです!!!」


 そんな必死な俺の様相を目にして、少女も俺に起こった事態が只事ではないと察してくれたようだ。

 宙に浮いていた家具は、定位置にゆっくりと戻っていく。彼女の感情の昂りが鎮まったと判断して、俺はほっと胸を撫で下ろした。


「本当に……何も覚えおられないのですか?」


「はい……申し訳ありません」


「じゃあ……昨夜のことも……?」


「昨夜? ……何があったのか、色々と詳しく教えて頂けませんか?」


 俺の瞳を暫く見つめた後、少女は徐に口を開いた。


  ◆


 なんとか俺は少女――ナターシャさんから自分が何者なのかを聞き出すことに成功する。


 彼女の話によると、俺はなんと、この国――ロワール王国の王子で、しかも魔族の長である魔王を倒した英雄だという。

 色々と耳を疑いたくなる内容ではあるが、ナターシャさんが嘘をついているようには思えないし、きっと全て真実なのだろう。


 そんなナターシャさんは俺の許嫁であり、幼馴染らしい。

 そして昨日、18歳の誕生日を迎えたナターシャさんは、王国を挙げての祭事で盛大に祝われた後、俺と共に寝室へ移動して二人きりになり……


「つまり、その……きっ、キスの最中に、突然俺が失神して、気づいたらこんなことになっていたと……!」


 とんでもないヘタレじゃん、俺!


 しかも会話の内容から察するに、俺もナターシャさんも唇を重ねたこと自体、昨夜が初めてだったようだ。

 彼女の中でそのことがトラウマになってないと良いのだが……。


 ……にしても、仮にも魔王を倒した救国の英雄のくせに、女性と唇を重ねて失神するとは……今までの俺は一体どんな生き方をしていたんだ?

 てか、ヘタレなだけでこんな大袈裟なことになるのか?


 様々な疑問が胸中に渦巻く中、ナターシャさんは不思議そうな顔をしながら俺に問いかける。


「貴方は……本当にシュヴァルツ様なのですか?」


「……というと?」


「以前とは随分雰囲気が違うように思いまして……それに、貴方の状態に関して、気になることがあります。貴方が覚えていることを出来る限り詳しく教えていただけませんか?」


 確かに冷えた頭で考えると、色々と腑に落ちないところは多い。

 この世界にある魔法の中にも、精神や記憶に影響を与えるものがある。俺が何者かによる攻撃を受けた可能性は高い。


 それに、ナターシャさんは巫女の力を持っているという。

 巫女とは1000万人に一人の特異体質であり、強力な退魔の力をその身に宿す人物のことを指す。

 もしかしたら、俺の状態に関して巫女としての見地からわかることがあるかもしれない。


「おそらく、魔法に関する知識や剣術などの肉体的な技術、一般常識……そういったことに関しては、以前と変わりなく扱えると思います。しかし、人との思い出に関しては、やはり目が覚める以前のことは何も思い出せません……」


 例えば、この国の名前を言われた時、関連する情報――地理や慣習といったことは問題なく思い出せる。

 未だ目覚めてからそれほど時間が経っていないため、気づいていない細かい知識の抜け穴はあるかもしれないが、日常生活を送ることに関しては支障はないように思う。


 あくまで俺の知識の欠落は、人間との思い出を中心として生じているようである。


 一通り俺の話を聞いた後、ナターシャさんは考え込んだ。


「……貴方の今の状態から察するに、何者かによって攻撃されたのは間違いないでしょう。退魔の結界が解除されている今のタイミングを狙ったのだとしたら、魔族の残党によるシュヴァルツ様への報復……? しかし、何故記憶を奪うという回りくどいやり方を行ったのかがわかりませんが……」


 俺も概ねナターシャさんと同意見だ。


 俺は魔王を倒すほどの力を有していて、客観的に見ても、戦闘能力だけなら人間の中で最上位の強さを有しているのは間違いない。

 そんな俺に対してこのようなことを行える人間は、この世界にそう多く存在しないだろう。

 退魔の結界が張られていなかったという状況からも、かつて俺が倒したという魔王の仲間、或いはそれに関与する存在――魔族による攻撃だと考えるのが妥当だ。


 だが、これだけでは得られる情報が少な過ぎる。せめて、敵の顔くらい思い出すことができれば……


 ……否、待てよ。


「目を覚ます前に、俺は誰かの姿を見た気がする……!?」


 ナターシャさんは俺の肩を掴んだ。


「それは一体どのような人物なのでしょうか!? もしかしたら、この件に関わっている敵の正体がわかるかもしれません!」


 俺は必死に意識を集中して、その人物についての情報を引き出そうと記憶を辿った。

 ぼんやりと記憶にモヤがかかっているような感覚がある。それはおそらく魔法によって歪められた痕跡だ。

 おそらく敵は、自らの痕跡を消そうとしたのだろうが、これでも俺は一応魔王を倒した英雄……相手も完璧な証拠隠滅は出来なかったということのようだ。


 ……しばらくすると、記憶にかかったモヤが少しだけ晴れ、その姿が見えてきた。


「……黒い髪が特徴の女だ! そいつが、俺に何か言っていたような気がする……!?」


「その女は、一体何を言ったのですか……!?」


「そいつは……たしか……!」


 ……集中、集中、集中――


 すると、女の声が段々とはっきり聞こえてきた。その声に耳を澄ますと……


 ――ダーリンの初めては、ボクが貰うんだから。


「思い出した! その女は俺の初めてを――つまり、俺の貞操を貰うと――」


「――ありがとうございます、シュヴァルツ様! 貴方の状態を早急に女王陛下に伝えましょう!」


 ピキピキとガラスの割れる音が室内に響く中、ナターシャさんは満面の笑みを見せながら立ち上がった。

 ……笑っているはずなのに、恐怖を感じるのは気のせいだろうか。


「すみません、俺変なこと言いましたが事実でして……」


「わかってますよ!」


「……はい、なんかすみません」


 有無を言わせないナターシャさんに気圧される形で、俺は素直に従った。

 その後、冷静になったナターシャさんから、「さん付けはやめてください」と釘を刺されるのであった。

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