chapter8
外に出ると、雨が降っていた。不運なことに、傘は持ってきていなかった。
ほぼ冬といっていい寒気とそれを凝縮したような冷たい雫は、容赦なくわたしの体温を下げた。
体は冷えきっているのに、頭はずっと同じことを考え続けていた。無論、彼のことだ。
大学に向かう前、びしょ濡れで行っては向こうも戸惑うだろうと、わたしは一度家に戻ることにした。
ぱしゃぱしゃと水溜まりを踏み越えて家までの道のりを走る。通行人にぶつかりそうになり、あわてて避けた。
「すみませんっ」
気持ちはまったくこもっていなかった。首だけ振り返り、相手がバランスを崩していないことを確認すると、わたしは前を向いた。
そして、家の近くにまでやってくると、服はもうパンツまでびしょ濡れになっていて、寒さを感じなくなっていた。逆にちょっと温かいと感じるほど、体は冷えきっていたらしい。
大降りの中歩いていると、視線の先に人影を見た。雨で視界が悪い中、そこにずっと留まっている人影は近づくほど外見がはっきりとした。
フードを被った、背の高い人物。顔は見えなかったが、恐怖はなかった。
わたしが近づくと、その人物は足音に気づいて振り向いた。驚いた顔をして、こっちを見ている。
彼だった。
「何やってるの」
「別に……。ちょっと近くを通ったから」
「この雨の中? 傘も差さずに?」
いくらなんでも無理がある。すぐさま核心をつくと、彼は黙った。
「とりあえず中入って。話はあとで聞くから」
言うと、彼は無言で頷く。彼に対する気恥ずかしさなどは、その時にはとっくに消えていた。
「それで、何しに来たの?」
風呂から上がり、ホットレモンティが入ったマグカップを彼の前に置くと、わたしはソファに腰かけた。
濡れた髪にバスタオルを被せた彼はそれを一口啜り、ほっと息をつく。しかし、何も答えようとしない。
「言いたくないならいいんだけどさ。何か言ってくれないと、わたしも何すればいいかわからないよ」
放っておいてくれというのならそうするし、話を聞いてほしいのなら何でも聞く。しかし黙っていられては、どうしようもない。
返ってきたのは、意外な言葉だった。
「ここに置いてくれ」
は?
呟かれた一言に、わたしは大きく口を開けた。
「いや意味わかんないんだけど、なに急に」
「俺一人じゃどうしようもない。おまえの力が必要なんだ」
わけのわからないことを彼は言い続けた。しまいには、助けてくれと何度も呟いた。
「どうやって、何から助ければいいのよ」
聞くと、彼は突然肩を震わせた。何かに覚えているように見え、わたしは彼の肩を掴んだ。
「……ッ!」
すると、彼は体の向きを変えて、襲いかかるように覆い被さってきた。床に押し倒されたわたしは、呆気に取られて笑うしかない。
「え、何。急にどうしたのよ」
「見ないでくれ……」
そう呟いた彼は、右手で目を覆っていた。
「もうダメなんだ……」
「何が、何がよ」
聞いても彼は答えない、いや、届いていないのだ。わたしが何を言っても、彼は目を覆ったままで、ぶつぶつと何事か呟くばかり。
「離して!」
たまらずわたしは叫んだ。意外なほど非力な彼の拘束を解くと、目を覆っている右手を払って顔を近づけた。
途端、彼の眼がわたしの眼を見る。交わった視線に、どくんと胸がざわついた。見覚えのある、たぶん同じ感情を抱いた時の眼だから気づけたのだろう、それは、あの時のものと同じだった。
わたしが彼の姿を見たとき、彼は今と同じように眼を大きく開いていたに違いない。でなければこんな、怯えた目をするはずがなかった。
眼を見られた彼は、その眼力を全て威圧に変えてわたしに襲いかかってくる。さっきより強い力で押し倒し、掴んだ腕を握った。
「痛い……」
小さく悲鳴を上げると、彼は一度瞬きをしてその手を放した。後ろを向いた彼を見ながら、わたしは握られて痕のついた手首に触れる。
「話してくれないとわかんないよ。今みたいにされたら、助けたいものも助けられない」
「ああ、悪い……」
「何か、理由があるんでしょ」
聞くと、彼は親指を立てた。そしてそれをそのまま顔の前までもってくると、がじがじと爪を噛んだ。こんな彼は、今まで見たことがなかった。
しかし、そうしていると落ち着いているようにも見えた。もしかすると、これが本当の彼の姿なのかもしれない。そう思うと、放っておけない気がした。