chapter5
誰かを家に入れることは、滅多にない。そもそも遊びに来る人がいないことが問題なのだが、誰かを呼んだところで楽しい時間を過ごせるとも限らないから、むしろ困らせてしまうと自分からは言ってこなかった。
今回は事が事だけに、悠長なことを言っていられなかった。
大学から徒歩約20分、今回はやけに長く感じた道のりに、家の前まで着くと、わたしは肩で息をしていた。玄関扉を開けて彼を居間に案内する。
寒い……。これなら、逆に研究室にわたしが泊まっていればよかっただけの話じゃないか。
そんな今さらなことを考えながら、彼をソファに座らせる。夏場のようにじっとりと額に汗を浮かべているが、外とほぼ変わらない冷たさの居間で服を脱がせてしまえば、逆に状態が悪化する危険があった。
仕方なく、わたしは押し入れにずっとしまっていた暖房を引っ張りだした。まったく使っておらず埃を被っていた年期ものだが、運よく稼働してくれた。
電気をつけると彼が眩しいと呟いたから、暗いまま夜目をきかせてわたしは歩く。彼以外にぶつかる心配はないから、多少急いでも大丈夫だ。
居間からやや離れた台所の電気をつけ、冷蔵庫にある食べ物を確認する。大きな冷蔵庫の中身は、独り暮らしのそれだった。それでもできるだけ栄養のあるものを食べさせないといけないと、わたしは慣れない包丁を握った。
作ったのは携帯を見ながら何とか食べられる状態に仕上がった卵粥。風に効く料理の中でなぜ難しそうなこれを選んだのか、自分でもわからない。洗い物なんて滅多にしないのに、あっという間にシンクの中が食器でいっぱいになった。
「ごめん、お待たせ」
湯気を立たせた土鍋を料理用手袋で持って彼の下まで運ぶ。少し具合が良くなったのか、彼は起き上がっていた。
「一人で食べられそう?」
「……ああ。悪いな、逆に迷惑かけたみたいで」
心身ともに疲れきった様子の彼に、わたしはそんな思いなど微塵も抱いていなかった。
箸を渡し、少し暖房の温度を下げる。粥を食べた彼の顔が、とたんに赤くなっていった。
「旨いな……。料理、できたのか」
「まあ、ちょっとくらいはね」
こういう時くらい、嘘を言ってもバチは当たらないだろう。いつも何かと下に見られがちな彼からの評価を、今は少しでも上げておきたいのだ。
「しょうが入れたから、風邪の時は汗かかないとね」
これだけは覚えていたことだ。レシピの材料にも載っていたが、それを基準に料理を選んだと言ってもいい。
顔色はまだ悪いままだったが、普通に食べられるくらいには体調は落ち着いたと見ていいだろう。
「今日は泊まっていって、様子を見て明日どうするか決めよう」
遠慮がちな彼が、その時は「わかった」と頷いた。わたしはエプロンを脱いで、汗を長そうと風呂場に向かった。
風呂から上がり、居間に戻ると、彼はさっき同じ体制で体を横にしていた。
「そこで寝る? 布団敷いてもいいけど」
「いや、ここでいい。悪いな、場所とって」
「いいよ、全然使わないし。わたしには大きすぎる」
彼は「そうだな」と若干肩を震わせた。笑っているのだろう、少しは元気になったのだろうか。
そんなことを考えていると、彼が寝そべりながら問うてくる。
「両親はどうしてる」
「どうしてるんだろうねぇ。元気でやってるんじゃないかな」
ふざけて言うと、彼は何も言わなかった。そんな性格じゃないとでも思っているのだろうか。
「一人は知らないよ。物心つくまえに出ていっちゃったらしいから」
「……そうか」
何その反応。まるで自分も同じみたいな感じでわかった風に。
「生活費はどうしてるんだ?」
唐突な質問に、わたしは少し面食らった。え? そこ? とツッコミたくなる気持ちを押さえて答える。
「家賃がないから、バイトでなんとか賄えてるよ。学費も親が貯めてたらしいから、何とかなってる」
保険金の話は、しなくても大丈夫だと思った。親が自分の命に保険をかけていたなんて、気軽に話せる話ではない。
「苦学生じゃないのか」
「一応ね」
頷くと、彼はバッテリーが切れたように体の力を抜いた。だからというわけではないが、食費が問題ないうちはわたしも泊めるのはやぶさかではない。
「さ、答えることは答えたから、もう寝よ。わたしは向こうの部屋にいるから、何かあったら携帯鳴らして」
「俺、携帯持ってないんだが」
言われてわたしは「そうだった」と頭を抱えた。あって当然という感覚だったから、グループで連絡先を交換し合った際に言われたことをすっかり忘れていた。
「じゃあ布団持ってくるよ。それなら安心でしょ」
「母親みたいなことを言うなよ。俺、一応先輩なんだけど」
「そんなの、今は病人だから関係ないよ。それに、敬語やめろって最初に言ったのそっちでしょ」
あの時のことはよく覚えている。ボサボサの髪をした長身の男が後ろから現れて、眠そうな目をしながらこっちを見てきたのだ。
「そうだったか?」
「そうだよ」
もしかして忘れてしまったのか。いや、覚えてすらいないのだ。自分が何を言ったのか。
「だとしても子供扱いはやめてくれ。後輩に介護されたってだけでも誰にも知られたくないんだ」
「なら無理してこなかったらよかったじゃん。あれがすべての原因なんだけど」
すると彼はふっと笑った。自嘲するように。
「……そう、なんだよな。何か無性に……ああ、いい、忘れてくれ」
彼はそう言って、顔を逸らした。