1-5. 風曜日の姫巫女は
アディスの髪を、風が優しくなぶって過ぎた。柔らかな白金の髪が、風をはらんで揺れる。
アディスは緊張しながら、神殿の入り口をくぐった。
最後かも知れない逢瀬だ。
――もしも彼女が望むなら、全て捨てて、逃げたっていい。
その覚悟はあった。
ただ、問題は『彼女が望むなら』の方だ。
彼女はそれを望まない。
だから、今日が最後かもしれないのだ。
「イシス――」
神殿の奥、最奥の奥神殿にイシスはいた。
輝くような銀の髪が、天窓から差し込む光を受けて、幻想的なまでの美しさを見せている。蒼の瞳には、人らしからぬ透明感と神秘。
アディスと並べたところで何ら遜色しない、むしろ、アディスの方が風格負けするくらいの姫巫女だった。イシスは歳を重ねるごとに美しさを増し、今では比類ないほどの美貌の持ち主となっている。アディスは正直、面白くない。
これほど美しくなくたって、良かった。
イシスがイシスであれば、それで良かった。
けれど、誰にも渡したくない少女は、無防備に人を惹きつける。
どれほど独占したいと願っても、許されなくなるばかりだ。
遠い日に、ただ一度だけ向けられた、儚く寂しげだった瞳の色を覚えている。
今も、イシスがその孤独から抜け出したとは思えないのに、手が取れなくなっていくのだ。
あの日の少女は、痺れるほどの甘さと幸福感を残して、唐突に、失われていた。今はただ、致命的な痛みを伴う記憶。
「アディス、また来たのね」
冷たく、あまり歓迎しない口調でイシスが言った。
「そうだね。今日は、貴女に話さないとならないことがあるんだ」
告げながら、アディスはそれでもイシスに惹きつけられていた。
――抱き締めたい。
「イシス……抱き締めてもいい?」
「良くないわ。やめて」
言下に却下するイシス。
「忙しいから、用件は手短かにね」
きつい口調で言って、アディスを急かす。
今日は休みなのに忙しがっている。
アディスはがくりと肩を落とした。最後かも知れない今日、よりによって『炎羅』か。
「実は――」
カムラのこと。見合いのこと。場合によっては、死を選ばなければならないかもしれないこと。
「イシス、貴女は私に何を望む? もしも貴女が望むなら――」
何をも何もと、イシスが不愉快そうに眉をひそめる。
「貴方の人生なんだから、貴方が決めればいいわ。どうして私にそんなことを話すの? 何かしてほしいの? 死ぬ必要はないわよ。カムラの皇帝が勝手に誤解したのでしょう」
「だけど、戦争になるかもしれない。私の都合だけで、道を選ぶわけにはいかないんだ」
だったら何と、イシスがますます不機嫌に、アディスを冷たく拒む。イシスはただ、話を早く終えたがっていた。そして、アディスを追い返したがっていた。
だめかと、アディスは顔を歪めた。
完全に『炎羅』だった。会えるのが今日で最後かもしれないことなど、まるで構わない『炎羅』。胸が痛い。ほんのわずかでも彼を思ってくれるなら、替わってくれるのではと、期待していたから。けれど、ここにいるのは完膚無きまでに彼を拒絶する、『炎羅』。
その冷たい拒絶を前にしていると、どう考えても、イシスに思われてなんていないのではと、『零月』はもういないのではと、自信がなくなった。
「『零月』に会いたい……」
「――無理よ。出直して」
答えも口調もきつく、速口にイシスが突き放す。
「ていうか、あんまり粘ると『黒夢』が出るわよ」
詐欺だった。
誓いを立てたアディスはイシスに指輪を贈り、ごく短い逢瀬のために、それでも暇を見ては神殿に通った。つれない態度の多いイシスの元に、挫けもせずに通い続けたのだ。
会えるのは週一度、風曜日。大好きだったし。
そうして冬が過ぎ、春が来て、夏になり――……報われないまま、破局は訪れた。
――イシスは 多重人格 だった。
「もう『黒夢』、出ているようだけれどね」
「出ているかもしれないわ。わかっているんなら、早く済ませてくれない? 私をいらいらさせて楽しいの、そう! 私はちっとも楽しくなんてないわ。一人でいたいのよ。あとどれだけ耐えたら帰ってくれるの? もう、二十分も経ったわ」
神様酷いです。
最後の愛しい人との逢瀬がこんなじゃ、死んでも死に切れないです。
――アディス王子、ファイト☆
◆ 炎羅 … 仕事の鬼。体を動かしているのが好き。攻撃的。仕事の邪魔をするものは、すべからく嫌い。
◆ 黒夢 … 人類皆きらい。毒舌家。隙あらば別人格(この他にもたくさんいる)をそそのかし、自殺に追い込もうとする。自らは行動しない。
◆ 零月 … 誇り高く、孤独を好む割に寂しがりや。唯一かもしれない、アディスに頼る……こともある人格。
一年十二ヶ月。
そのうち、アディス王子は約十一ヶ月と半月くらい、片思いである……。