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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

贈られる男

作者: 風祭おまる

普段は戸棚の中にしまい込まれているコーヒーミルと、一年ぶりの再会。

ホコリを被らないように被せていた布巾を外すと、可愛らしいアンティーク調の手動ミルが姿を現した。

つい先ほど近所のコーヒーショップで買ってきた豆を、そのミルで挽く。

芳ばしく甘いコーヒーの香りが、ふわりとキッチンを満たした。

コーヒードリッパーにフィルターと挽きたての豆をセットして、慣れない手つきで湯を注ぐ。最初は、ほんの少し。熱湯で蒸らして豆が膨らんでから、また湯を注いでいく。

亡き妻の教えに忠実に淹れているつもりだが、いつも妻の味にはほど遠いものが出来上がる。

さあ、今年はどうかなと、期待半分諦め半分で、ドリッパーを外した。

熱いコーヒーは真っ黒で、カップの底は見えない。だが、どこか透明感がある。ゆらゆらと立ち上る白い湯気からも、良い香りがした。


ダイニングテーブルに、今淹れたばかりのコーヒーと、今朝ポストに入っていた小さな包を置いた。

可愛いピンクのラッピングがしてある。包装紙を破らないようにそっと剥がして、中の箱を開けてみれば、中はトリュフチョコレートだった。

ココアがまぶされた、コロコロした丸いチョコに、思わず笑みがこぼれる。


「今年も、うまくできてるじゃないか」


箱には、「千鶴子より。士郎へ」と署名があった。

千鶴子は、十年前に亡くなった妻の名前だ。


妻が死んだその年から。

毎年、バレンタインの朝にこうしてチョコレートが届くようになった。

亡き妻から届いたチョコレートを、妻のお気に入りだったコーヒーミルで挽いたコーヒーを飲みながら、いただく。

それが士郎のバレンタインの楽しみとなっていた。


舌の上でとろけるトリュフは、コーヒーに良くあった。チョコレートの甘い味を、苦さだけでなくほのかな酸味を秘めたコーヒーが引き立てる。

八個入っていたトリュフを半分食べて、残りは明日のおやつにすることにして箱を閉じた。


箱に書かれた文字を指先でなぞる。


「十年……そろそろ、いいよな。千鶴子」


誰にともなく呟くが、当然返事はない。必要ないのだ。

ずっとつけている結婚指環を指先で撫でながら、士郎は窓の向こうへと視線を向ける。

士郎の住むマンションの、大通りを挟んで向かい側には、この街で一番大きな総合病院がある。

そこは、千鶴子が命を終えた場所だ。



※※※※※



「ねぇ、手術、延期にできないかしら」


白いベッドに横たわった千鶴子は、少し不機嫌そうに言った。

昔ら黒々していた髪は、心労のせいかパサついてしまっている。だが、短くはしたくないと言って、丸くお団子にして頭の上で結んでいた。

その髪型も可愛いと思っていたが、口には出せなかった。

学生時代、同級生だった千鶴子と付き合って、そのままずっと連れ添ってきた。今更、見た目を褒めるのは照れくさかったのだ。


「ダメですよ橋田さん。少しでも早く手術しなければならないんです」

「だって、もうすぐバレンタインなの。私、毎年主人にチョコレート作ってあげてるのよ」

「それは、元気になってからにしてくださいね」


元気になる。

その言葉に、士郎は腹の底から冷え込むような不安を覚えた。

千鶴子は、がんを患っている。まだ三十半ばの若さのせいで、かなり進行してしまっていた。

すでにステージIIIで、一刻も早く手術しなければならない状況だ。


「手作りチョコをあげるとね、ホワイトデーに手描きのポストカードをお返しにくれるのよ」


毎年、その年に見た綺麗な風景なんかを色鉛筆で描いて、メッセージを添えて千鶴子に渡す。大して絵が上手いわけではないのだが、手作りには手作りで返さねばと思うからだ。

彼女はそれを喜んで受け取って、専用のファイルに入れていた。

付き合いはじめたころからの習慣だから、結構な枚数になるそれを、千鶴子は「私の大事なコレクション」と言って大切にしてくれている。


「それは、とても素敵ですね。本当に」


主治医の中井先生は、士郎とそう年は変わらない。チョコレートのような色の髪は、少し癖っ毛だ。

笑うと眼鏡の奥の目元に笑い皺が浮き、白い歯がのぞくのが、純朴で清潔な印象を受けた。


「だから、ねぇ、先生」

「千鶴子、今年は既製品で我慢してくれ。ポストカードは、ちゃんと描くよ」


千鶴子は残念そうだったが、諦めたように頷いた。

その手を握り、じっと目を見詰める。

千鶴子の目には、恐怖と、不安が、ありありと浮かんでいた。


「ああ、私、死にたくないわ」

「大丈夫です。死なせません。生きるために、手術をするのです」


ストレッチャーに乗せられて、千鶴子は手術室へと入っていった。

閉じた扉の向こうは、戦場だ。

中井先生と、看護師さんたちと、そして千鶴子が戦っている。

士郎は手術室の前に座り込み、拳を握りしめて泣いた。

何もできない無力さと、恐怖に。


何時間、そうしていたろうか。

手術中のランプは、まだ消えない。

日付が変わってしまい、静まりきった深夜の病院で、自分の鼓動だけを聞いていた。


「チョコレート、あげるね」


不意に、千鶴子の声が聞こえた気がして、振り返る。

千鶴子?と呟いてみたが、返事はない。

ただ、嗅ぎ慣れた千鶴子の匂いをほのかに感じた気がした。毎朝ミルで挽いてくれる、コーヒーの匂い。

呆然と立ち尽くしていると、手術中のランプが消えた。そして扉が開き、中から血塗れの手術衣を着た中井先生がふらりと姿を見せる。

真っ青な顔で、笑い皺が浮かぶはずの目元には、涙が光っていた。


「先生、千鶴子は」


言い終わる前に、先生はその場に膝をついた。

額を床に擦り付けて、震えているその姿に、全てを悟る。


千鶴子はもう、居なくなってしまったのだ。

彼女の残り香だけが、いつまでもその場に漂っていた。




※※※※※




ホワイトデーには、千鶴子の墓にポストカードを備えにいく。

チョコレートのお返しにだ。

今年は特に念を入れて描いた、自信作だ。この十年で、士郎の絵の腕前も上がった気がする。


墓参りの季節ではないから、霊園には誰もいない。士郎は仏花とポストカードを手に、霊園の片隅にある小さな墓を目指した。

千鶴子は、あまり派手なものは好まない人だった。だから、墓石も小さくて、可愛らしいものにした。

花とポストカードを供えて、風で飛ばないように小石をカードに載せておく。

手を合わせ目を瞑ると、また、コーヒーの匂いがする気がした。


「なあ、千鶴子。お前、お菓子作りは苦手だったよな。だから、バレンタインに既製品を買うの、嫌がってた。美味しいから悔しいと。俺もな、チョコレートが白くなってても、石みたいに硬くても、お前の手作りが一番嬉しかったんだ。お前が、下手くそな俺の絵を、喜んでくれたのと同じように」


甘いコーヒーの香りは、優しい。

この場所で千鶴子を思い出せば、胸がぽかぽかと暖かくなってくるのだ。


「やっぱり、心がこもってるからなんだと思う。なあ、俺は……十年間、心を送ってもらっていたんだ。だから。もう、いいよな」


千鶴子はきっと、頷いてくれるだろう。


目を開ければ、コーヒーの匂いは消えた。線香と、冷たい風の匂いだけだ。


花とカードはそのままに、士郎はその場を離れる。一旦霊園の駐車場に向かい、車を走らせた。

ぐるりと霊園の周りを一周して、近くのコインパーキングに車を停める。

こっそりと、歩いてまた霊園に戻った。


千鶴子の墓の前に人影を見つけ、士郎は安堵の溜息をつく。入れ違いにはならなかったようだ。

その人影の手には、士郎のポストカードがある。

そこに書かれたメッセージを見て固まってしまっているようだ。


「先生」


声をかけてみれば、中井先生は驚愕の表情で振り返った。

久しぶりに間近で先生の顔を見たが、ずいぶんと年を取ってしまっている。チョコのような色の髪には白髪が混ざり、涙袋が少し弛みはじめていた。

十年間という歳月は、思った以上に長かったようだ。


「は、……え、あ」


ポストカードには、あの頃の中井先生が笑っている顔を描いた。

『士郎より、先生へ』

そうメッセージを添えて。


「トリュフチョコ、美味かったよ」

「え、ええと」


顔を真っ赤にして、もごもごと口ごもり、先生は俯いてしまった。

しばらくお互い無言で、この妙な雰囲気に戸惑う。


「いつから、バレていたのです?」


恐る恐るというように、先生は呟いた。

咎められると思っているのだろうか。その声は震えていた。


「はじめのうちは、わからなかったんだ。千鶴子はお菓子作りが下手で……初めてくれたチョコは、千鶴子が作ってくれたものとそっくりだった」

「あ、ああ。今思い出すと、ひどいものをお渡ししてしまいました」

「いいんだ。嬉しかった。千鶴子が帰ってきたような気すら、したんだ」


だが、箱に書かれていた筆跡は、千鶴子のものではなかった。

それでも、誰がなぜという疑問や、謎の手作り菓子の怪しさなど霞んでしまうくらいに、嬉しかったのだ。


「それが、三年目くらいからだんだん上達してきて……千鶴子じゃないんだと、納得した。だから、仕事の休みを取ってチョコを置きに来るのを見張っていたら、先生が」

「……じゃあ、もう何年も、分かっていて受け取ってくださっていたのですね」


先生は悲しそうに眉を寄せ、千鶴子の墓石に視線を移した。

薄い唇が、震えている。


「僕は……あの日のことを、ずっと後悔し続けているのです。千鶴子さんは、自分は手術に耐えられない体だと、気づいていたのではないか……だから、バレンタインが終わってから手術を受けたがったのでは、と。きっと、千鶴子さんは悔いが残ってしまったことでしょう。もし、僕が彼女の希望を受け入れていたら……」

「それで、千鶴子の代わりにチョコを」

「はい……」


先生の眦に雫が浮かび、すうっと頰を滑り落ちていく。

十年間、この人も千鶴子の死を悼み続けてくれていたのだと、不思議な感慨を覚えた。


「千鶴子さんがお亡くなりになられた後から、バレンタインの前日に、居ても立っても居られなくなるのです。チョコを貴方に渡さねばと、それだけで頭がいっぱいになって」


そっと手を伸ばして、指先で先生の頬から涙を拭いとる。触れた頬は熱くて、指先から溶けてしまいそうだ。

先生は少し驚いたように目を丸くしていたが、士郎の手を振り払ったりはしない。


「……今まで、千鶴子の代わりに、ありがとう」


士郎の言葉に、先生は眼鏡の向こうで数回瞬きをしてから、うなづいた。

また、ポロポロと涙が溢れる。


「こちらこそ、ずっと受け取ってくださって、ありがとうございました」

「来年からは、先生の名前で、直接手渡しして欲しい」

「はい、……え、えっ?」


一回返事をしてしまってから、言われた意味がわからないというように慌てだした先生に、士郎は思わず苦笑いを浮かべる。

すぐに感情が表情に出てしまうところが、可愛らしいとすら思えた。


「あの、もうおしまいにしましょうということでは……ないのですか?」

「なぜ、終わりにする必要があるんだ。俺は、毎年楽しみにしていたんだ。先生は、違うのか?」


問い返せば、先生は困ったように眉を寄せ、士郎から視線を逸らした。

躊躇いがちに、ゆるゆると首を振る。

視線が合わない目をじっと見つめていると、先生の頬はまたじわじわと赤くなってしまった。


「たしかに、そうです……毎年楽しかったです。バレンタインが近づくと、今年は何を作ろうかとか、ラッピングを選んだりとか、橋田さんは喜んでくれるかなとか。年甲斐もなく、しかも男のくせに、そんなことばかり考えてしまうのです。でも、それが妙に心地よくて」

「ポストカードも、ちゃんと受け取ってくれていたろう」

「はい。それも、楽しみでした。大事に預かっています。いつかお返ししようと」

「いい。それは、先生のだ。来年からも、先生のために描く」


涙の筋が残る頬を、両手で挟んで眼鏡の奥を覗き込む。

揺れる瞳をようやく捕らえれば、そこには戸惑いが宿っていたが、嫌悪や恐怖はないように見えた。


「い、いけません。そんな、千鶴子さんの代わりにならまだしも、僕から貴方になんて」

「なぜだ?」

「それは、だって。男同士ですし、奥様を死なせてしまった医者が、そんな」

「俺は気にしない……千鶴子もきっと、そうだろう」


頬から手を引き離そうとしてか、先生の熱い手のひらが士郎の腕を掴む。だが、それは弱々しく、抵抗になどなっていない。

このまま無理矢理に、どうとでもできてしまいそうだった。


「先生……十年も本命チョコを渡し続けておいて、今更なかったことにできると思わないでくれ」

「ちっ、違、う」

「違うか?ずいぶん心がこもった手作りチョコだったが」

「それは、だから、千鶴子さんの」


口ではそうは言いつつも、先生の呼吸は興奮と緊張で浅く激しくなっていく。

本気で拒絶できないのは、妻を死なせた負い目もあるのだろうが、それ以外にも理由があるはずだ。

十年間も、毎年恋する乙女の気持ちになってチョコを作り続けていたのだ。相手を意識しないはずがない。

士郎がそうであるように。


「妻は亡くなって十年も経ったんだ。それにお互いずっと恋人もなく独り身だ。なんの遠慮があるんだ」

「な、なぜ知っ……んっ」


親指で、先生の唇を撫でる。

無意識なのか。うっすらと唇が開いてきた。指を中に差し入れ指の腹で舌を撫でれば、先生の目はトロンととろけたようになってくる。

こんな表情を見せておいて、もう言い逃れはできないだろう。


「冷えてきたな」


パッと手を離してみれば、先生は一瞬物足りなさそうな顔をしてから、バツが悪そうに足元を見た。

耳まで赤い先生の肩を抱き寄せ、その熟れた耳朶に唇を寄せる。


「暖かくて、二人でゆっくり話をできるところに行こう」


そう囁けば、先生の肩はぶるりと震えた。

どこに連れ込まれるのか、だいたい分かるのだろう。だが、逃げようとはしなかった。

もはや、身も心も士郎に捧げるしかないと、決意したらしい。

士郎に促されるまま、先生も歩き出す。


また、ふわりとコーヒーの匂いがした。

それは、先生から香っているように感じる。残り香というには、色濃く。


「チョコレート、あげるね」


あの日の千鶴子の含み笑いが、また聞こえた気がした。


「ああ、もらったよ」

「……橋田さん?」

「士郎でいい」


訝しむ先生に微笑みを向ける。

チョコレートのような色をした先生の髪が、冷たい春の風でふわふわと揺れていた。




《贈られる男 終》

なろうの方では初めまして

風祭おまる申します

拙作をお読みくださり、ありがとうございました


今回はバレンタインということで、少しビターな大人のラブストーリーを書いてみました

さっくり読めば甘いお話、よく読めばじんわり怖いビターなお話となっております


少しでも楽しんでいただけましたら幸いです


R-18BL小説をムーンライトノベルズさんなどで投稿していますので、18歳以上の方はそちらも読んでみていただけると嬉しいです


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― 新着の感想 ―
[良い点] 確かに、場所を考えて!と言いたくなるような内容でした笑 少し苦味のある恋愛に風祭おまるさんらしさを感じて好きです。 [一言] まさか風祭おまるさんが全年齢のなろうで、投稿するとは思わなかっ…
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