普通のこと
「――んっ、んんん……」
「おや、お目覚めかい?」
藤岡さゆは目を覚ました。
朧気な眼差しで周囲を見渡し、最後に僕の顔をみる。
「ここは……あなたは――私っ」
霞がかった思考が晴れ、彼女は思い出した。
自分がスロースに取り憑かれていたことを。
肉体が異形へと変貌したことを。
命を救われたことを。
「落ち着いて、キミはキミだ。ほかの誰でもないよ」
「ほんとう? 私は、私?」
「あぁ、僕がキミを助けた。だから、もう大丈夫」
そう言ってあげると、彼女は大粒の涙を流した。
化け物にならずにすんだこと。
人間のままでいられること。
まだ生きていること。
様々な思いや感情が、彼女の中で錯綜する。
止めどなく流れる涙は、その証。
僕は彼女の気持ちの整理がつくまで、しばらく見守った。
ハンカチなんかを渡したりして。
「あの……ここは?」
「ここは僕たちの拠点みたいなところ。まぁ、カーテンで仕切られてるから、ここからじゃあわからないだろうけど」
ベッドの側から立ち上がって、カーテンを開け放つ。
そこには僕にとっては見慣れた支部が広がり、彼女にとっては初めての光景が広がった。
「あ、気がついたみたいですね。よかったです」
ちょうど、そこへ乃々が通りかかり、こちらに歩み寄る。
「調子はどうですか? 目の周りが腫れてますけど」
「あっ、これは、その」
「まさか」
ぎろりと、乃々の視線がこちらを向く。
「泣かせたんですか? 通さん」
ぐいぐいと詰め寄ってくる。
「いやいや、そんな訳ないでしょ? 女の子を泣かせるなんてそんな」
「そうですか? でも、たまに凄くキツいこと言いますよね? 通さんって」
「そう?」
「そうです! それで何度、被害者の方が涙を流したことか」
「そうだっけー? 憶えてないなー」
「惚けないでください! 名前のことも全然、改善してくれないし!」
そのあとも乃々は次々に捲し立ててくる。
僕はそれを軽く聞き流しつつ、乃々の気が済むのをじっと待つ。
その光景を彼女に見せてしまったからか。
「ふふっ、ふふふっ」
笑われてしまった。
「どうやら落ち着いたみたいだね。じゃあ、これからの話をしようか」
「これからの話?」
「そう。お悩み相談室だよ」
それはとても大切なこと。
場所をベッドから共有スペースに移して、僕たちは話を始めた。
「言いたくないことは言わなくていい」
始めにそう前置きをして、言葉を続ける。
「キミが自殺しようとした原因は交友関係だったよね」
「……はい」
答えづらそうに、彼女は頷いた。
「それは喧嘩をしただとか、酷いことをされたとか、そういうことかな」
「……」
彼女は答えない。
言いたくないらしい。
「じゃあ、質問の仕方を変えよう。それはキミが悪いのかな?」
「――違うっ。私は悪くない! だって、沙織がっ」
「そっか。ごめんね」
彼女の肩に手を置いて、ゆっくりと落ち着かせる。
「じゃあ、キミはその沙織って子に、なにかをされた訳だ。その原因に心当たりは?」
「……」
またしても、彼女は答えない。
この場合の沈黙は、肯定とほぼ同義だ。
つまり、彼女には心当たりがある。
「なるほど、なるほど。じゃあ、やるべきことは一つだね」
「……それは、なんですか?」
「簡単なことさ。その沙織って子と、会って話をすればいい」
「え?」
彼女は面食らったような顔をした。
「直接会って腹を割って話す。言いたいことを言って、聞きたいことを聞けばいい。それが悩みを解決する一番の近道だ」
「そんなことっ……できない」
「どうして? すこし前まで友達だったんでしょ? なら、会って話すことくらいはできるはずだ」
「でも……こわい」
「怖い?」
ぽつり、ぽつりと、彼女は言葉をこぼす。
「もう嫌われてるし……気まずいし……許してもらえるはずない」
「それは会ってみないとわからない。案外、もう怒ってないかも知れないよ」
「絶対、怒ってる。だって、私……沙織に、あんなことを」
彼女はまた涙を流す。
先ほどの混乱から生じた涙ではなく、彼女自身の思いが生んだ涙を。
「沙織に……謝りたい。でも……会うのはこわい」
「そっか。それがキミの本音なんだね」
罪の意識があり、罪悪感に苛まれている。
彼女にとって、それはとても深刻なことだった。
それこそ、自殺を考えるほどに。
大人からしてみれば、それは取るに足らないことに映るのだろう。
けれど、とうの本人はとても真剣なんだ。
一年前まで高校生をしていた僕にも、まだそのくらいのことはわかるつもりだ。
「――僕はね、人生に目標を設けているんだ」
「もく……ひょう?」
「普通のことを普通にやる。それが僕の人生の目標なんだ」
常にそれを心掛け、そうあろうと努力している。
なかなかどうして、上手くいかないことのほうが多いのだけれど。
「困っている人がいたら助ける。早寝早起きをする。食事の前後にいただきますと、ごちそうさまを言う。そして、友達と喧嘩をしたら仲直りをする」
「仲直り……」
「ね? 普通のことでしょ?」
特に難しいことはしない。
ただ普通だと思ったことを普通にやるだけ。
自堕落にならないように、己を律しつづける。
こんな仕事をしていると、そうすることの素晴らしさが身にしみてわかるようになる。
だから、僕はこれを人生の目標とした。
そうすれば、きっと僕がスロースに取り憑かれることはないだろうから。
「いまのキミは、沙織って子から逃げているだけだ。都合のいい言い訳を探して、それに縋り付いて、挙げ句の果てに死のうとした」
「……」
「キミも、もうわかっているはずだ。逃げるって言うのは、本当は辛いことなんだって。楽なように見えるけど、とっても苦しいんだ」
対峙すべき事柄に背を向けつづける。
ずっと後ろを気に掛けながら、見て見ぬ振りをする。
それはとてもとても、苦しいこと。
「この辛さや苦しみから解放されるには、立ち向かうしかないんだよ。怖くても、傷を負う覚悟で進まなくちゃいけない時がある。それが今なんだ」
「でも、もし……許してくれなかったら」
「その時はすっぱりと諦めよう」
「えっ、でも」
「それで逃げることは止められるだろう? 立ち向かったんだから」
「――」
たとえ、話し合った結果が絶縁だったとしても。
たった一人になったとしても。
立ち向かったのだから、逃げることは止められる。
この苦しみからは、解放される。
「……私……私っ、もう一度、沙織と――」
そのとき、不意に軽快な音楽が流れてくる。
それは彼女のポケットに入っていた、携帯電話から流れてきたもの。
着信音だ。
彼女はそのディスプレイをのぞき込み。
「さ――おり?」
恐る恐る、耳へと当てた。
「も、もしもし?」
「――馬鹿! いまあんた、どこにいんのよ!」
そして、離れたこちらにも聞こえてくるような怒号が響いた。
「え? えっと」
「家からいなくなって朝まで連絡がつかないなんて、なに考えてるわけ!? なにかあったらどうするのよ! 事故にでもっ、あったのかとっ……思ったじゃないっ!」
「――うん……ごめんね。本当に……ごめんなさい」
彼女は、また涙を流した。
一度目とも、二度目とも違う、暖かな涙を。
僕はそれを見て、ゆっくりと席を立つ。
「ただいまーっと。さーて、愛しのソファーちゃんがが俺を待っているー」
「おっと、すみません支部長。いま愛しのソファーちゃんは満員でして」
「え? なにそれ、どういうこと?」
「まぁまぁ、まぁまぁまぁ」
「まぁまぁってなに? どこ連れてくの? ビールを冷やしておきたいんだけど? ねぇ、ちょっと!」
意気揚々と出社してきた支部長を、僕は外に連れ出した。
それに続くように、他のみんなも支部を後にする。
彼女を一人に――いや、彼女と彼女の友達と二人きりにするために。
「――あの」
それからしばらくして、支部の外に彼女が出てきた。
「いろいろとありがとう御座いました。その……」
「仲直りできそう?」
「はい!」
万事がうまく行っていそうで何よりだ。
「家まで送っていこうか?」
「大丈夫です! なんだか今は走りたくて」
「そっか。じゃあ、さようなら」
「はい! さようなら!」
元気よく、藤岡さゆは駆けだした。
その後ろ姿には、一点の曇りもない。
これでもう彼女は、自殺志願者ではなくなった。
スロースが憑依することもないだろう。
もう、大丈夫そうだ。
「さーてと、それじゃあ中に入らせてもらおうかな。ビールもやっと冷やせる」
「もう、飲み過ぎはダメですよ」
「急性アルコール中毒。危険」
「いつそうなるかわかりませんね、支部長の場合は」
「だね。僕も将来、気をつけないと」
そう口々に好き勝手なことを良いながら、支部へと入っていく。
最後に、ふと振り返ってみる。
けれど、そこにはもう彼女の姿はない。
「通さん。どうかしたんですか?」
「いや、なんでもないよ」
こうして僕たちは、また日常に戻っていく。
スロースとの戦争はまだまだ続くけれど。
その中で、一人の少女が救われた。
それは紛れもない事実として、僕たちの中に残り続けるだろう。
「緊急。霜田区にスロースの出現を確認」
「また霜田区か。乃々」
「はい。でも、乃々は止めてください」
「善処する。さぁ、行こう」
僕たちは現場へと向かい、スロースと戦い続ける。
普通のことを普通にするために。




