表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

普通のこと

「――んっ、んんん……」

「おや、お目覚めかい?」


 藤岡さゆは目を覚ました。

 朧気な眼差しで周囲を見渡し、最後に僕の顔をみる。


「ここは……あなたは――私っ」


 霞がかった思考が晴れ、彼女は思い出した。

 自分がスロースに取り憑かれていたことを。

 肉体が異形へと変貌したことを。

 命を救われたことを。


「落ち着いて、キミはキミだ。ほかの誰でもないよ」

「ほんとう? 私は、私?」

「あぁ、僕がキミを助けた。だから、もう大丈夫」


 そう言ってあげると、彼女は大粒の涙を流した。

 化け物にならずにすんだこと。

 人間のままでいられること。

 まだ生きていること。

 様々な思いや感情が、彼女の中で錯綜する。

 止めどなく流れる涙は、その証。

 僕は彼女の気持ちの整理がつくまで、しばらく見守った。

 ハンカチなんかを渡したりして。


「あの……ここは?」

「ここは僕たちの拠点みたいなところ。まぁ、カーテンで仕切られてるから、ここからじゃあわからないだろうけど」


 ベッドの側から立ち上がって、カーテンを開け放つ。

 そこには僕にとっては見慣れた支部が広がり、彼女にとっては初めての光景が広がった。


「あ、気がついたみたいですね。よかったです」


 ちょうど、そこへ乃々が通りかかり、こちらに歩み寄る。


「調子はどうですか? 目の周りが腫れてますけど」

「あっ、これは、その」

「まさか」


 ぎろりと、乃々の視線がこちらを向く。


「泣かせたんですか? 通さん」


 ぐいぐいと詰め寄ってくる。


「いやいや、そんな訳ないでしょ? 女の子を泣かせるなんてそんな」

「そうですか? でも、たまに凄くキツいこと言いますよね? 通さんって」

「そう?」

「そうです! それで何度、被害者の方が涙を流したことか」

「そうだっけー? 憶えてないなー」

「惚けないでください! 名前のことも全然、改善してくれないし!」


 そのあとも乃々は次々に捲し立ててくる。

 僕はそれを軽く聞き流しつつ、乃々の気が済むのをじっと待つ。

 その光景を彼女に見せてしまったからか。


「ふふっ、ふふふっ」


 笑われてしまった。


「どうやら落ち着いたみたいだね。じゃあ、これからの話をしようか」

「これからの話?」

「そう。お悩み相談室だよ」


 それはとても大切なこと。

 場所をベッドから共有スペースに移して、僕たちは話を始めた。


「言いたくないことは言わなくていい」


 始めにそう前置きをして、言葉を続ける。


「キミが自殺しようとした原因は交友関係だったよね」

「……はい」


 答えづらそうに、彼女は頷いた。


「それは喧嘩をしただとか、酷いことをされたとか、そういうことかな」

「……」


 彼女は答えない。

 言いたくないらしい。


「じゃあ、質問の仕方を変えよう。それはキミが悪いのかな?」

「――違うっ。私は悪くない! だって、沙織さおりがっ」

「そっか。ごめんね」


 彼女の肩に手を置いて、ゆっくりと落ち着かせる。


「じゃあ、キミはその沙織って子に、なにかをされた訳だ。その原因に心当たりは?」

「……」


 またしても、彼女は答えない。

 この場合の沈黙は、肯定とほぼ同義だ。

 つまり、彼女には心当たりがある。


「なるほど、なるほど。じゃあ、やるべきことは一つだね」

「……それは、なんですか?」

「簡単なことさ。その沙織って子と、会って話をすればいい」

「え?」


 彼女は面食らったような顔をした。


「直接会って腹を割って話す。言いたいことを言って、聞きたいことを聞けばいい。それが悩みを解決する一番の近道だ」

「そんなことっ……できない」

「どうして? すこし前まで友達だったんでしょ? なら、会って話すことくらいはできるはずだ」

「でも……こわい」

「怖い?」


 ぽつり、ぽつりと、彼女は言葉をこぼす。


「もう嫌われてるし……気まずいし……許してもらえるはずない」

「それは会ってみないとわからない。案外、もう怒ってないかも知れないよ」

「絶対、怒ってる。だって、私……沙織に、あんなことを」


 彼女はまた涙を流す。

 先ほどの混乱から生じた涙ではなく、彼女自身の思いが生んだ涙を。


「沙織に……謝りたい。でも……会うのはこわい」

「そっか。それがキミの本音なんだね」


 罪の意識があり、罪悪感に苛まれている。

 彼女にとって、それはとても深刻なことだった。

 それこそ、自殺を考えるほどに。

 大人からしてみれば、それは取るに足らないことに映るのだろう。

 けれど、とうの本人はとても真剣なんだ。

 一年前まで高校生をしていた僕にも、まだそのくらいのことはわかるつもりだ。


「――僕はね、人生に目標を設けているんだ」

「もく……ひょう?」

「普通のことを普通にやる。それが僕の人生の目標なんだ」


 常にそれを心掛け、そうあろうと努力している。

 なかなかどうして、上手くいかないことのほうが多いのだけれど。


「困っている人がいたら助ける。早寝早起きをする。食事の前後にいただきますと、ごちそうさまを言う。そして、友達と喧嘩をしたら仲直りをする」

「仲直り……」

「ね? 普通のことでしょ?」


 特に難しいことはしない。

 ただ普通だと思ったことを普通にやるだけ。

 自堕落にならないように、己を律しつづける。

 こんな仕事をしていると、そうすることの素晴らしさが身にしみてわかるようになる。

 だから、僕はこれを人生の目標とした。

 そうすれば、きっと僕がスロースに取り憑かれることはないだろうから。


「いまのキミは、沙織って子から逃げているだけだ。都合のいい言い訳を探して、それに縋り付いて、挙げ句の果てに死のうとした」

「……」

「キミも、もうわかっているはずだ。逃げるって言うのは、本当は辛いことなんだって。楽なように見えるけど、とっても苦しいんだ」


 対峙すべき事柄に背を向けつづける。

 ずっと後ろを気に掛けながら、見て見ぬ振りをする。

 それはとてもとても、苦しいこと。


「この辛さや苦しみから解放されるには、立ち向かうしかないんだよ。怖くても、傷を負う覚悟で進まなくちゃいけない時がある。それが今なんだ」

「でも、もし……許してくれなかったら」

「その時はすっぱりと諦めよう」

「えっ、でも」

「それで逃げることは止められるだろう? 立ち向かったんだから」

「――」


 たとえ、話し合った結果が絶縁だったとしても。

 たった一人になったとしても。

 立ち向かったのだから、逃げることは止められる。

 この苦しみからは、解放される。


「……私……私っ、もう一度、沙織と――」


 そのとき、不意に軽快な音楽が流れてくる。

 それは彼女のポケットに入っていた、携帯電話から流れてきたもの。

 着信音だ。

 彼女はそのディスプレイをのぞき込み。


「さ――おり?」 


 恐る恐る、耳へと当てた。


「も、もしもし?」

「――馬鹿! いまあんた、どこにいんのよ!」


 そして、離れたこちらにも聞こえてくるような怒号が響いた。


「え? えっと」

「家からいなくなって朝まで連絡がつかないなんて、なに考えてるわけ!? なにかあったらどうするのよ! 事故にでもっ、あったのかとっ……思ったじゃないっ!」

「――うん……ごめんね。本当に……ごめんなさい」


 彼女は、また涙を流した。

 一度目とも、二度目とも違う、暖かな涙を。

 僕はそれを見て、ゆっくりと席を立つ。


「ただいまーっと。さーて、愛しのソファーちゃんがが俺を待っているー」

「おっと、すみません支部長。いま愛しのソファーちゃんは満員でして」

「え? なにそれ、どういうこと?」

「まぁまぁ、まぁまぁまぁ」

「まぁまぁってなに? どこ連れてくの? ビールを冷やしておきたいんだけど? ねぇ、ちょっと!」


 意気揚々と出社してきた支部長を、僕は外に連れ出した。

 それに続くように、他のみんなも支部を後にする。

 彼女を一人に――いや、彼女と彼女の友達と二人きりにするために。


「――あの」


 それからしばらくして、支部の外に彼女が出てきた。


「いろいろとありがとう御座いました。その……」

「仲直りできそう?」

「はい!」


 万事がうまく行っていそうで何よりだ。


「家まで送っていこうか?」

「大丈夫です! なんだか今は走りたくて」

「そっか。じゃあ、さようなら」

「はい! さようなら!」


 元気よく、藤岡さゆは駆けだした。

 その後ろ姿には、一点の曇りもない。

 これでもう彼女は、自殺志願者ではなくなった。

 スロースが憑依することもないだろう。

 もう、大丈夫そうだ。


「さーてと、それじゃあ中に入らせてもらおうかな。ビールもやっと冷やせる」

「もう、飲み過ぎはダメですよ」

「急性アルコール中毒。危険」

「いつそうなるかわかりませんね、支部長の場合は」

「だね。僕も将来、気をつけないと」


 そう口々に好き勝手なことを良いながら、支部へと入っていく。

 最後に、ふと振り返ってみる。

 けれど、そこにはもう彼女の姿はない。


「通さん。どうかしたんですか?」

「いや、なんでもないよ」


 こうして僕たちは、また日常に戻っていく。

 スロースとの戦争はまだまだ続くけれど。

 その中で、一人の少女が救われた。

 それは紛れもない事実として、僕たちの中に残り続けるだろう。


「緊急。霜田区にスロースの出現を確認」

「また霜田区か。乃々」

「はい。でも、乃々は止めてください」

「善処する。さぁ、行こう」


 僕たちは現場へと向かい、スロースと戦い続ける。

 普通のことを普通にするために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ