世界でたった一つの花
ある日、その国に託宣が下りた。
そう遠くない未来、空から降り注ぐ災厄が一夜にしてこの都に住まう全ての命を奪い、そして、豊かな大地を永きに渡り荒野に変えるだろう、と。
不吉な予言に王も神官も慌てふためき、解決の手段を求めて国一番の魔導士のもとを訪れた。
その魔導士は国一番の力を有している。
そして、その力故に、厳重に封印を施した高い高い塔の上にその身を封じられていた。
彼の記憶に残るのは、三つか四つの頃。
意識せぬまま彼が振るった力の強大さに恐れ戦く両親の顔。
翌日にはこの塔に連れてこられ、それ以来、彼が見るのは五歩もあれば端から端まで行けてしまう部屋の中と、小さな窓から見える青空と、食事を運ぶ仮面を被った神官の姿だけ。
日々日々、起きて、食べて、魔道を考究し、また寝る、その繰り返し。
他にすることもなく、黙々と磨き続けた彼の力はいつしか塔の封印を凌駕するものとなっていたけれど、外に出たとて特にすることもなく、彼はただ、変わらぬ朝と夜を繰り返すだけだった。
いつもと同じ仮面を身に着けた、けれどもいつもと違う声の神官が、国の危機を告げる。魔導士は淡々とそれを聞き、手を貸すようにとの要請にも、眉一つ動かすことなく頷く。
神官は言った。
この地に満ちる力を集め、守りの障壁の核とする、と。
災厄が降り注ぐときそれを放てば互いの力は相殺され、国土は護られるだろう、と。
そうして、魔導士にその核となる結晶を作るようにと言いつけて、神官は、ひと月後にまた来ると残し、去っていった。
彼は無言で魔方陣を描き、術に取り掛かる。
三日三晩ののち、魔方陣の真ん中に、手のひらにのるほどの大きさの薄紅色をした結晶が現れた。まるで鼓動を打つかのように明滅するそれは、未完成だった。
魔導士はさらに続ける。
また三日三晩が過ぎた頃、倍ほどの大きさになっていたその結晶は、不意にフルフルと震え始めた。
魔導士が見守る前でピシリと微かなひびが入り、彼は、失敗したのかと小さくため息をこぼす。
が、次の瞬間、それはパラパラと崩れ落ち、そこには別の形になった結晶が佇んでいた。
――そう。
丸い塊が消えた後、そこに現れたのは魔導士の手のひらほどの大きさをした人形。
それは結晶と同じ薄紅色の髪と目を持ち、小さいけれども確かにヒトの姿をしていた。
魔導士は目をしばたたかせる。
ヒトの形をしたモノは今まで仮面を被った神官しか見たことがない。
頭があって、胴体があって、手足が出ている。
概ね自分や神官と同じ姿なのだが、微妙に違う。
まず、頭が大きい。
自分などはザッと見積もって全身と頭の大きさの比率は七対一もしくは八対一だ。
だが、目の前の人形の結晶は、せいぜい四対一――全体に比して明らかに頭が大きい。小突いたらすぐに転げそうだ。
薄紅色の髪は手入れをしたことがない魔導士よりもずいぶん短く、肩の辺りでふわふわとそよいでいる。見るからに柔らかそうに。
顔のつくりは比べる対象がないから判らないが、何故だろう、見ていると手のひらの中に包み込みたくなる。
魔導士は、無性にそれに触れてみたくなり、突いてみようと手を伸ばす。
指先が触れようとしたとき、不意に結晶が動いた。
薬さじのような両手が上がり、魔導士の指先を挟むように置かれる。ささやかなその感触に、彼はハッと息を呑んだ。とても小さいのに、確かな温かさがそこから伝わってくる。
魔導士は固まった。
彼が動けば、あまりに小さな結晶を小突いて壊してしまいそうだった。
結晶は魔導士の指先をまさぐり、しげしげと見つめている。と、その目が上がり、彼を見上げた。
眼が合う。
沈黙。
そして。
結晶の目と口の形が変わった。
それを目にしたとたん、魔導士の胸の奥に柔らかな温もりが宿り、同時に、見えない手で心臓を鷲掴みにされたような胸苦しさに襲われる
息をすることもできず、手を引くこともできず、魔導士はただ結晶のその顔を食い入るように見つめた。そうやって彼が微動だにせずいた為か、結晶の顔はまたもとの形に戻っていってしまう。それは彼の指先に添えられていた手も下ろして、大きな目を見開き、また、最初に現れた時のようにただ佇んでいる。
そんな結晶の姿に、どうしてか、魔導士は貴重な研究成果を失ったときよりも遥かに強い、そんなものとは比べものにならないほど強い、落胆を覚えた。
待ってみたが、結晶は彼がそうしているように、ただ見返してくるだけだ。
もう一度先ほどのような変化を見たくて、今度は本当に指先でそれの胸の辺りを小突いてみた。と、ふらりとよろけたと思ったら、ぺたりと尻餅を突く。
結晶は束の間固まり、ふいに、クシャリと顔を歪めた。頭を仰向け、大きく口を開き、両目から水をぽろぽろとこぼす。
「!?」
確かに変化はあったが、それが魔導士の胸にもたらしたのは、さっきとは全く違う感覚だった。
とても、痛い。
まるで鋭い針でみぞおちの辺りを何度も何度も刺されているようだ。
魔導士は居た堪れない思いに駆られて手を伸ばす。壊してしまわないように気を付けて、そっとそれを手のひらにすくい上げた。
結晶から生まれたのだから、硬いのだと思っていた。けれど全く違って、柔らかく、温かい。
予想とは違う感触に戸惑いながら目線が合うほどの高さに持ってくると、それは歪めた顔を元に戻して魔導士を見つめてきた。しばしそうしていたかと思ったら、小さな手を彼の鼻に伸ばしてくる。
それが彼に届き、また、結晶の顔が変わった――もう一度、彼が見たかった顔に。
その顔は、いったい何が違うというのだろう。再び魔導士の胸をグイグイと締め付けてきた。
壊してしまいたくはないのに、この柔らかくて温かなものを、無性にギュッと握り締めたくてたまらなくなる。
相反する思いにどうしようもなく疼く手のひらの上に結晶をのせたまま、魔導士は飽きもせずそれを見つめ続けていた。
*
結晶は日に日に姿を変えていく。
背が伸び、手足が伸び、頭でっかちだったところはなくなり、髪も伸びた。どこもかしこも丸みを帯びていたのに、いつしかすらりとしなやかに、踊るような動きを見せるようになった。
本で調べ、魔導士はそれが人で言うところの『女性体』なのだということを知った。
そして、あの時彼が見たいと思った顔は『笑顔』という表情で、息が止まりそうなほどに痛みを覚えたのは『泣き顔』だったということも。
結晶は良く笑い、彼に触れ、そして心地良い声を出す。
高く低く抑揚のついたそれは、『歌』というものらしい。誰も教えるものなどいないのに、結晶はいつしかそれを口ずさむようになった。
目が合うと結晶は必ず魔導士に向けて両手を差し伸べてくるから、彼はそっと手のひらの上にすくい上げる。顔の傍に持ってくると、身を乗り出して小さな唇で頬に触れてくる。そよ風ほどの感触に過ぎないというのに、そこから伝わる温もりは魔導士の指の先まで染み渡った。
この小さな人形は力の結晶だから、内に秘めたその力が彼に伝わってくるのだろう。
そうされても別段魔導士の魔力が高まるなどということはないのだが、不思議なほどに全身が温かくなり気持ちが浮き立つから、きっと何某かの『効果』があるはずだ。
時々、魔導士の方から結晶に触れたくてたまらなくなるけれど、力加減が判らなくて、怖い。
結晶はあまりに華奢で、彼がほんの少し力を加えただけで潰してしまいそうな気がする。最初に突き転ばして泣かせてしまったことが記憶の片隅にこびりついているから、そのこともあって余計に触れにくいのかもしれない。
そんな、ほんの少しの物足りなさはあったが、結晶と過ごす日々はそれまでの十数年間とは全く違う――『喜び』に満ちたものだった。
魔導士は、紙一枚分の空気の層を挟んで、結晶の髪を撫で下ろす。
結晶は、この上なく嬉しそうに、目を細める。
そんな結晶を見て、魔導士の胸が、また温まる。
それが、『喜び』だ。
『喜び』。
それがあると、世界に色がつく。
色と、音と、匂いと、温度と。
かつては何も感じさせなかったこの世界は、今、実に様々なものを魔導士に伝えてくるようになった。
魔導士は、結晶が生まれたその時に、彼自身もこの世に生を受けたようなものだった。
結晶と過ごすようになって初めて、魔導士にとっても生を実感できる日々になった。
だが。
その日々は、長くは続かない。
約束のひと月が過ぎ。
再び、あの神官が塔を訪れた。
神官は、言う。
結晶を差し出せ、と。
破滅の時が近づいている、と。
魔導士は結晶を手のひらにすくい上げる。
結晶は、いつものように嬉しげに、彼に笑いかけてくる。
魔導士は結晶を見つめた。結晶も魔導士を見つめ返してきた。
薄紅色の瞳は夜空の星のように輝いて、そこに小さく小さく魔導士自身が映り込む。
結晶の中に、魔導士がいる。魔導士の中に、結晶がいる。
――もう、これが存在しない日々は送れない。
魔導士は、手のひらの中にそっと結晶を包み込んだ。隙間から、不思議そうな眼差しが見上げてくる。
彼は、その眼差しに微笑み返した。
それは、彼が初めて浮かべた、微笑みだった。
魔導士は神官に短く応えを返し、その一言に驚愕の声を上げる彼を残して、塔から飛び立った。
塔には魔導士を閉じ込めるために封印が掛けられていたが、そんなもの、彼にとってはもう何年も前からないようなものだった。
それでも逆らうことなく囚われていたのは、命じられることに唯々諾々と従っていたのは、彼には何もなかったからだった。
何もなければ、何も思わず何も望まない。
けれど、今は、この手の中に彼の全てがある。
彼が生きる理由が、生きる意味が。
魔導士は、彼を捉えていた塔から遥か離れた丘にふわりと下り立った。
高くそびえたその塔も、今は影すら見えない。
彼は首を巡らせ辺りを見回し、すっくと空を衝く大樹のもとに歩み寄った。そうして、柔らかな緑の下生えに腰を下ろし、幹に寄り掛かる。そこで初めて手を開き、結晶をのせたまま膝の上に置いた。
彼を見上げて笑う結晶に笑い返し、魔導士は塔が――王都がある方向に、目を向ける。
あの場所には、万の人々が住んでいる。
結晶の力で、彼らが救われる。
だが。
魔導士にとってそれにどんな意味があるというのだろう。
彼が知らない万の民を生かしても、彼を生かしてくれた結晶がいなければ何の意味もない。彼にとって意味のあるものは、ただ一つ――この手の中の薄紅色の温もりだけだ。
柔らかく風が吹き、魔導士の膝の横で薄紅色の花が揺れた。
彼の目と、結晶の目が同時にそこに向く。結晶は彼を見上げ、その花を指さして笑った。
その、笑顔。
「それは、お前に似ている」
魔導士の言葉に結晶は目をしばたたかせ、そしてまた、ふわりと微笑んだ――そこに咲く、一輪の花のように。