痕跡器官
TO-BE小説工房応募作品。課題は「ボタン」。選外なのでこちらへ。
フラワーホール、だ。不意にその名を思い出した。新郎の、タキシードの襟に開いている穴。花嫁は求愛を承諾した証にブーケから一輪を抜いてそこへ挿してあげるという、ロマンティックな習わしがある。
昔、恵から聞いた話だ。今日の彼女は、白いドレスを着て高砂にいる。そして私は友人席に座っている。宴は始まったばかり。
「ね、保坂さんも北高だったんだね」
右隣から田中さんが話しかけてきた。
「めぐちゃんと同じなの、知らなかった。二人とも頭いいもんね」
肯定も否定も嫌味に思えて適当に相鎚を打つ。中学で同級だった田中さんが実は恵の幼馴染みだなんて、私だってさっき知った。
このテーブルは中高時代の友人が集められている。一番知人が多いはずの私は、しかし一番押し黙ってひたすら料理を平らげていた。美味しい。とても恵が好みそうな味。美人で上品、おしゃれで気立てのよい彼女の、招待客も多い披露宴に似つかわしい。
彼女がいわゆるオタクだなんて、この会場中の何人が知っているのだろう。私と彼女は正にその趣味故に友達だった。高校入学後、ある漫画をきっかけに親しくなって、以来とても密な時間を過ごした。登下校、休み時間、電話でメールで、話は尽きなかった。
ただ彼女には他にも友人がいた。私には恵しかいなかったのに。
距離を置き始めたのは私の方からだった。
「第一志望合格おめでとう、智子」
言って恵は小さな包みをくれた。こんな濃やかな気遣いをするのだ、誰に対しても。
「ありがと。やっと安心して卒業できるよ」
「土壇場で進路変えるからでしょ」
私は曖昧に笑った。地方へ、遠くへ行きたくなったから、とは言えない。特に恵には。
卒業式を翌日に控えた帰り道だった。春はまだ浅く、曇天が重くのしかかる。呼気とはまた違う白いものがちらりと視界を横切った。
「降ってきた」「なごり雪ね」
恵はコートの襟をかきあわせ、そして小さく「あ」と言った。
「取れちゃった。……あげる、もらって」
私の手に何かが載せられる。青いムーングロウガラスに金の縁取り、恵のお気に入りの飾りボタンだった。戸惑う私に背を向け、彼女は軽やかに立ち去った。「また明日ね」という慣れた挨拶と微かな温もりを残して。
宴は進む。司会者はブーケプルズの開催を告げた。ブーケトスのくじ引き版らしい。席札に印がある人は前に出て、と促される。この星マークはそういう意図だったのか。仕方なしに従う。目立たぬように並んだ。
何本ものリボンを、新郎が手ずから配っていた。いかにも恵に相応しい好青年は、私の顔と左胸元に軽く目を留めると「保坂さんですね?」と訊いてきた。驚きつつもぎこちなく頷く。渡されたリボンの端に同色の小さなビーズが縫いつけてあった――。
司会者のかけ声で一斉にリボンを手繰り寄せる。他の人が小さいチャームを手にする中、私のリボンの先にはブーケが、恵が、いた。
「当選おめでとう、智子」
間近で見る花嫁姿の恵は記憶の中のどの場面よりも綺麗で、駄目だよ私からはまだお祝いをちゃんと言えていないのに先にいったらいやだよ、おめでとうありがとうごめんね、嫉妬と羨望と劣等感と、全ての基になる憧憬、昔から抱えてきた感情が一時に渦巻いて、私はただ唇を引き結び、うなだれた。自分の胸元が目に入る。あの飾りボタンを今日はブローチとして付けて来ていた。ささやかな、精一杯の、メッセージのつもりだった。
「それいいね、似合うよ」
恵は気づいてくれた。さらに顔を寄せて、
「グリゴリ教団の襟章っぽくない?」
囁かれて、思わず笑ってしまった。
「どっちかって言うと、夜兎丸の『アレ』のつもりだったよ」
答えて、ブーケを受け取り、席に戻った。
そして、お色直しの隙にトイレに立ち、そっと、そっと、泣いた。
フラワーホール、は元は詰襟の第一ボタン穴だ。スーツが開襟になって、ボタンの代わりに花やバッジを挿す場所に利用された。本来の機能が失われてわずかに形が残るという意味で、人間の尾てい骨や盲腸に近しい。痕跡器官、ルジメントというのだ、確か。
ならばブローチとしてしか使いようのないボタンというのもやはり、痕跡器官なのだろう。思い出も、かつて通じ合った言葉も、全てが痕跡器官だ。捨てきれない名残りは、けれど進化の為の退化だと信じたいと思う。
私は飾りボタンを外した。口の中で、おめでとうとありがとうの練習を繰り返す。二次会ではきっと言うと心に決めて。宴が終わる。
最初は恵の方の視点で、ここより数年前の話を考えていたのでしたが、「痕跡器官」というものに思い至りこの形に。
旦那曰く「『ふーん』だからどうしたの、って感じの話だった」とのことですが。
確かにそうかなあ。前回に引き続き、もう少し登場人物の心理描写を明確にしなくてはと考えます。
ちなみに痕跡器官というのは、大学時代の一般教養の考古学の講義で教わりました。
ルジメント、という呼び方がかっこいいんだけどいつもいつも忘れてしまう。