影
「そういや凪咲もオリオンに入るって言ってたな」
休憩室の机へ寄りかかりながら汗を拭き、傍のソファベッドに座る凪咲へ語りかける。
こうして会うのは一年半ぶりだろうか。楓が大学を卒業する時、一緒に飲みに行った以来だ。
「そうですよー。さっきの表情からもしかしてと思ってたけど、やっぱり忘れてたんですね。こんな危険な職場にいるのに心配してもらえないなんて……私はずっと先輩を心配していたのに。酷いわー」
言いながら、わざとらしく涙を拭くふりをする凪咲を見て楓はくすくすと笑う。
彼女は出逢った時から変わらない。付き合いも長く、互いに分かりあっているからこそ隣にいるだけで安堵できる。だが、最後のずっと心配していたとの台詞には心当たりがあり、申し訳なさと共に質問する。
「じゃあ毎回依月さんが持ってきてくれていた本やら果物やらは」
「私が頼んでいたんです! 本はお兄ちゃんからですけどね。忙しくて中々直接行けなかったから」
通りで自分の好みに合うものばかり置かれているわけだ。依月もそう言ってくれたらいいのに、と思ったが凪咲の兄、海斗の事だ。どうせ、自分が心配していると思われたくなくて凪咲の見舞い共々依月からと言うことにしていたのだろう。
「依月さんからって事で持ってきてくれていたのは海斗がいったからだろ。ま、あいつらしいな」
「お、察しがいいですね。流石親友。ほんとにもうお兄ちゃんたら変なところで恥ずかしがりやなんだから」
言いながら二人でまた笑う。その後も今まで連絡していなかった期間に積もった話で盛り上がり、気が付いたら外はすっかり暗くなっていた。
九を指した時計の短針を見て、凪咲があっと声を上げながら立ち上がる。
「すっかり話し込んじゃいました! お兄ちゃん待たせちゃってるかも……。じゃあ先輩! 私帰りますね」
「ああ、気をつけてな。あ、それともう先輩じゃないんだし、その呼び方じゃなくても。むしろ今は凪咲の方が先輩だし」
「ふふ、私にとって先輩はいつまでも先輩なんですよ。せーんぱいっ」
彼女はそう言って、にこやかに首をかしげる。楓にだけ向けるそのあざとさに一瞬心臓が跳ね上がるが、すぐに取り繕い、「またな」と手を振ると凪咲は急ぎ足で休憩室を後にした。
その様子を見届けた後、すっかり忘れていたライルが呟く。
<仲良いな>
「まあ、付き合いが長いからな。俺たちも帰ろう。トレーニングはまた明日だ」
<ふーん>
何故だが納得いっていない様子で生返事するライルを一瞥し、楓もオリオン本部を後にした。幸い、本部から自宅まではそう遠くない。都内だと言うのに、街灯もまばらで人通りがほとんどない路地を通る事には中々慣れそうにないが。
<楓、止まれ>
そんな心細さを感じていると、突然ライルからの一言が発せられた。不思議に思いながらも、楓はその場で歩みを止める。
「どうした?」
<暴走マギの反応を検知……いや、あれ? 消えた?>
「ライル?」
<すまない、今一瞬だけ暴走個体の反応があったのだけど……おかしい。念の為、武装しておいていくれ>
敵の反応が消えるなど聞いたことがないが、ライルがこんな冗談を言うはずもない。仮に冗談だったとしても、戦闘用の疑似人格がそんな事をしていたとしたら大問題だ。
リリカもおらず、光も少ないこの暗がりでたった一人な今、楓の心拍数は急激に上がった。
唐突な死への不安に駆られ、しきりに辺りを見渡しながら、咄嗟にコンビネーションユニットを展開。内部の小型注射器から細胞変化薬を自身の体へ投与する。以前とは変わり、ユニット内部のカートリッジを楓の体に適応した専用の薬が充填された物へ換装していた為、エルと戦った時のような不快感はなく、自然と力が湧いてくる。だが、やはりトレーニングの時と同じく、ライルと上手くシンクロ出来てはいない。
<っ! 楓!>
エクスラグナを召喚しようとした矢先にユニットからライルの声が響き、勝手に体が方向転換。手には一本のダガーが逆手に握られ、飛んできた拳を受け止めていた。どうやらライルが強制的に体の制御を乗っ取ったらしい。
「こいつ、本当に反応が……! ライル、ダガーなんか出してないで早くエクスラグナを!」
<この武器召喚は試験用のシステムでプログラムを実体化させているものだ! 容量の大きいメイン武器は召喚に少しの時間がかかる。今はダガーで応戦して隙を見て召喚させる!>
「くそっ! なら一度距離を取って!」
言うや否や、楓は拳を押しのける反動を利用して飛び退き、辛うじて敵との間に距離を作る。幸い、敵は不気味に体を揺らすだけでこちらをがむしゃらに攻撃してくるわけではなさそうだ。
<楓、すまないが今回は僕が戦うから君は何もしないでくれ。また昼間のように二人で同時に体を制御しようとしても、まず勝てない>
「それもそうだな。任せて悪いが信じてるぞ、ライル」
<ああ!>
返事と同時に楓は目を閉じ、息を細く吐きながら全身の力を抜く。すると両手の周りで無数の0と1が輪を形成し、数秒の間をおいて、エクスラグナが姿を現した。力を抜いているはずの両手が、自身の意識を無視して勝手に双剣を握り、目が開く。
跳躍。
ライルが主導権を握った楓の体は前傾姿勢で低空を飛ぶように駆け抜け、瞬時に敵の懐へ入り込むと胸の前で構えていた右手の白剣を薙ぎ払った。しかしそこに感触はなく、目の前にいたはずの気配は頭上へ移っている。
だが、ライルは上へ目を向けることもなく、前かがみの体を起こし、その勢いのまま踵で地面を蹴る。直後、元いた場所には鋼鉄のような拳が深々と突き刺さっていた。
マギはコンクリートから拳を引き抜き、ゆらりとこちらへ視線を移す。そして、マギとライルの双方が飛び出し、剣と拳の打ち合いが始まった。
意識の中で楓の恐怖は高まるばかりだった。
自らの意思と関係なく動く体が殺意ある敵と攻防を繰り広げている。ライルを信じているとは言ったが、いつ死ぬか分からないジェットコースターに無理矢理体を括りつけられている気分はどうしても拭えない。
何も考えるな。何も考えるな。何も考えるな。
変に戦いを意識して体を強張らせ、ライルの邪魔をしてはいけない。何も考えるな。何も考えるな。
そう思いつつも、ふと敵へ意識を向けてしまった。ライルは気づいていないようだが、今まさに相手の右拳がこちらの懐へ侵入してきている。瞬間、楓は咄嗟に体を右へ逸らし、拳を回避した。そのまま力任せに右手の剣を薙ぎ払い、直撃したマギは腹から大量の血を吹き出し、その場に倒れた。
<え、楓>
「す、すまない。つい……」
<いや、僕の方こそさっきの拳には気づかなかった。……そうか、僕が戦闘に集中している時、君は君で別の方向へ意識を向けていられるのか。……少しだけ見えたかもしれない。僕たちの戦い方が>
「ライル?」
<楓、後で話そう。今後の戦い方について提案がある。ひとまず体の主導権を君に戻そう>
「あ、ああ、分かった。……がっ!」
<えっ>
体の主導権をライルから楓に戻した直後、突然、首に強烈な圧が加わった。辛うじて右へ首を向けると倒したと思っていたマギが起き上がり、楓の首へ両手をかけていた。その手には尋常じゃない力が加わり、窒息よりも前に首の骨が折れそうな程だ。こちらも敵の両手を握り返し抵抗するが、恐怖と痛みに立っている事すらままならず、押し倒される形で楓は倒れこんだ。
「ぐ、あ……」
<楓! 主導権を僕に!>
「む……り……もう……」
<楓! しっかりしろ! 楓!>
朦朧とする意識の中、ライルの叫びが遠くなっていく。もう抵抗する力も入らない。思考も動いていない。ただただ死への恐怖が頭の中を支配しているが、それすらも既に薄れている。
だが、その時。
「ぎあああああ! あああ! あああ、あ……あ?」
もう無理だと死を覚悟した時、マギは素っ頓狂な声を出し、楓の首は圧から解放された。急激に空気が肺へ流れ込み薄れていた意識が恐怖と共に覚醒する。反対に力の抜けたマギは楓の顔へ血を吐き散らし、糸の切れた人形の如く楓の上で絶命した。
<楓! 楓! 無事か!>
「はあ、はあ……」
エルの時とは違い、ゆっくりと襲い掛かってくる死への恐怖に楓は声も出せず、ただひたすらに呼吸を乱れさせ、震えている。
「もう大丈夫だよ」
死んだマギを退かすこともなく、その重さに身を委ねていると頭上から機械的なモザイクのかかった声が降ってきた。虚ろな瞳で焦点を合わせると、全身を黒のローブで覆い、顔にもフードを被った謎の影がそこにいた。その人物は片手に持っている身の丈程もある鎌を地面に置くと、楓に覆いかぶさる死体を持ち上げ、隣に優しく横たわらせる。
<君は?>
「僕は――」
「楓から離れて」
ライルの問いかけに名乗ろうとしながら楓へ手を差し伸べる影だったが、その行動は抑揚のない少女の声によって遮られた。リリカだ。彼女は二つの銃口で影を捉えている。その後ろには他の分隊員三人の姿もある。
「全く、せっかくこれから帰ろうとしてたってのに面倒事持ち込みやがって。おい、黒ローブ、お前何者だ」
先日の顔合わせで楓を刺すように睨んでいた小林が楓への嫌味交じりに謎の人物に投げかける。その手にはレイピアが握られており、戦闘態勢は万全だ。他の二人もそれぞれ武器を手にしている。
「やれやれ。これはとんだ邪魔が入ってしまったかな。仕方ない。今回は退散するよ。また会おう」
しかし相手は溜め息交じりに肩を竦めるだけだ。小林の問いに答えもせず、ましてや四対一という状況にも関わらずこちらに背を向けてしまった。なんという余裕だろう。
「待ちなさい」
リリカの静止も聞かず、まるで実体化した武器が消滅する時と同じようにプログラムの如く影はその場から消え去った。
「消えた?」
皆一様に顔をしかめながら、それぞれ具現化させている自らの武器をプログラムへ戻す。やはり、今の影が消えた時と同じ消え方だ。
「リリカ……」
「楓、大丈夫?」
ようやく立ち上がった楓がおぼつかない足取りでリリカの下へ歩み寄る。助けを乞うように伸ばした手が彼女の肩に触れると、震える声と体で寄りかかり身を預ける。
「ありがとう、リリカ……」
<僕からもありがとう、皆。流石に今のはまずかった>
「なーにが、ありがとう今のはまずかった、だ。ばっかじゃねえの?」
応援に安堵した楓が未だ残る恐怖に身を震わせながらリリカに支えられていると、苛立ちをまるで隠そうとしない小林が口を開いた。その口振りは明らかにこちらを敵視しており、瞳は以前と変わらず楓を射抜いている。
「お前さ、ほんとなんなの? こんな襲撃にあって一方的にやられて何も対処出来なくて。依月さんのユニット奪って暴走マギ倒したっていうから何者なのかと思ってりゃ、バディセンスとのシンクロも出来ないらしいじゃねえか。俺達はこれからお前みたいなノロマと仕事しなきゃいけねえの? ハッキリ言って迷惑なんだけど。大体――」
あまりにも辛辣な言葉を連発する小林の勢いは止まらない。楓も流石に怒りを覚えるが、なまじ相手の言う事が正論には変わりないため、上手く言い返す術がない。ただただ悔しさに拳を握っていると別の声がそれを遮った。
「やめとけ、満。言いすぎだ。大丈夫か、楓君」
「でもよー」とまだ文句を言い足りない様子の小林に代わって細身長身の男性が楓の前に立った。会田智也だ。昨日の顔合わせの時にも思っていたが、常ににこやかな笑みを浮かべている彼。今もそれは変わらず、爽やかというよりか薄ら寒い不気味さを感じさせる。
「会田さん……。申し訳ありません、皆さんにご迷惑をおかけして……」
「いーのいーの、チームなんだから。満の事は気にしないで。あいつ、あーいう奴だからさー」
笑顔でさらっと言い放つ会田に当の本人は後ろで「なんだとてめえ!」と声を荒げているが、それを会田は「あははー」と流す。その小林の隣では三月沙耶と名乗っていた女性が顔を赤くする彼を宥めている。リリカも心なしか呆れているような溜め息を吐いていた。
皆、仲が良さそうだ。本来であればここには自分ではなく依月がいて、全員で笑っていたのだろうか。そう思い、またも楓の表情に影がかかる。
「楓君、気にすることはないよ。君はこれから俺達の仲間なんだ。仲良くしよう」
気持ちを察してくれたのか、会田が楓の肩に手を置いて励ましの言葉をくれた。その優しさに安心感と拭いきれない罪悪感も相まって涙が出そうになる。
「会田さん……」
「智也でいいよ。皆、下の名前で呼びあってるんだ。それに俺と君は同い年だしな」
「……うん、わかった。ありがとう、智也。皆」
「俺はてめえの事なんかみとねーからな! 気安く呼ぶんじゃねえ!」
「はいはい、満は黙る。ごめんなさい、気にしないで満って呼んじゃっていいからね。私の事も沙耶って呼んで。よろしく、楓。顔合わせの時はゆっくり話せなかったから、今日はいい機会になったわ」
先ほどから満の頭をガシガシともみくちゃにしている沙耶も楓に微笑みかける。
「ありがとう、沙耶。満。よろしく」
「だから気安く呼ぶんじゃねえって! 俺は名前でなんて呼んでやらねーからな! 精々あがけよ九重!」
イラッ、と恐怖がすっかり抜けた楓の額に青筋が浮かぶ。頬を引きつらせながら、なんとかその怒りを抑え込む事に成功した楓は今後の行く末に想いを馳せた。
<目下の目標は彼とどう上手くやっていくかを探る事だな。満は気難しいが単純な奴だ。頑張れよ>
「はは、ははは……はぁ」