廃都と花
「えっ、『旧東京』へ行くんですか?」
目の前の男性が目を大きくしてこちらを見ている。私が経営している花屋の三つ下の若い店員の岸君だ。
何処と無く眠気を誘う水曜の昼下がり、色とりどりの花の香りがほのかに漂う店先のタイル張りの通路に足音はまばら。私は丁度彼と暇つぶしのくだらない談話をしていたところだった。
「久々に外の空気が吸いたくなったの」
「それなら、もっと山とか海とか『ザ・自然!』って感じの所に観光に行ったほうが良くないですか?あんな廃墟と発電所しかない所に行ったって……」
そう言われるとそうかもしれない。しかし、(私は別にその手のマニアでもオタクでもないが)敢えて自然と人工がごちゃ混ぜになった所へ出て行くと、そこでしか味わえない歴史の迫力とか懐古の哀愁とか言うものを、外の開放的な空気と共に感じられて好きだった。でも、それを上手く言葉にして理解させることは難しいので、仕方なくふっと微笑んで見せたら余計に訝しがられてしまった。
ああ、ここは本来照れながら苦笑いするべき場面だったのだろう。
「すみません」
突然、通路の方から老年の紳士風のお客さんが声を掛けてきた。いけないと私達は揃って背筋を伸ばし、急いで頭を休憩モードから切り替えた。
そのお客さんはつい先日に孫を産んだという娘に贈る花を買いに来たそうだ。今時そんな小奇麗なことは珍しいと思いつつも、なんだかこっちまで心が暖かくなるような心地がした。花を選んでいる客の表情は嬉しそうで、更にその顔に照れくささの化粧が相まって、私は不謹慎にも立派な大人の男性であるそのお客さんに無邪気な可愛らしさを感じた。こういう感情が私にやりがいを与えてくれるのだ。
そのお客さんが返っていくと店の中は再び静かになり、スピーカーから流れる穏やかな音楽だけが聞こえる。
「青野さん」
ふと、休憩がてらコーヒーを飲んでいた岸君が声を掛けてきた。彼は私の分のコーヒーを入れてくれたようで、私が礼を言ってそれを受け取ると、今度は携帯電話の画面を見せてきた。
「これ、見てくださいよ」
ディスプレイに映っていたのはニュース番組だった。
――本日、「現在の東京都」の完成から五十周年の節目を迎えました。
どうやら「新東京都」の五十周年祭について報道しているようだ。画面には大勢の人々が華やかに装飾された広いドームの中に詰め掛けていて、パレードなんかがやっている様子が映っている。
――地下に新たな文明を築く「国際地下都市構想」は、今から実に百三十四年前に国連で提唱され、五十年前の今日、東京二十三区の完全地下移行が完了し、新たな東京都が地下に誕生しました。以後、日本を含む世界各国の都市で地下移行がなされ、現在では人の生活空間の殆どが地下へと移行されました。これにより、近年の激しい異常気象や自然災害の多発、更に地球規模の気温の低下にも耐え得る安全且つ地球環境にも配慮した文明が築かれ、我々の生活は更なる……。
「……ふぅん、いまだに随分と最もな説明をするのね」
私はそう吐き捨てる様に呟くと、ディスプレイから目を逸らしてコーヒーをすすった。苦かった。
「どうしたんですか?その冷めた反応」
岸君は私のテンションの急降下に驚いたのだろう。目を丸くしてあたふたしながら携帯電話をしまったが、やがて一人合点したように頷いた。
「ああ、また例の『青野節』ですか?青野さんってやっぱ変わってますよねー」
「からかわないでよ」
「青野節」とは、岸君曰く今の地下に張り巡らされた「蟻の巣文明」に批判的で、地上の世界に憧れる私の現代人とは多少ずれた考え方のことらしい。だが、そもそも現代人の考え方とは何だろう?それは一体何を以てそう定義するのか?大衆の意見か、或いは今の社会に従順な思考か、ともかく私が持ち合わせていない何かなのだろうが……。
「まあ興味がないならいいですよ」
「あ、ごめんなさい。私はそんなつもりじゃ……」
岸君が拗ねてしまったと思ったが、元より切り替えの速い彼は何でもないような顔で話題を変えてきた。
「それより、明日は『旧東京』に行くんでしたっけ?それで結局何をする積りなんです?」
私は少し返事に困った。何だか私は岸君が満足のいく答えを持ち合わせている気がしなかった。
「ええと、写真をね。そう、写真でも撮ろうかと。……あと『いつもの』」
果たして岸君は少し間があって、苦笑。どこか呆れたような、それでいて愉快そうな表情だ。
「まあ、俺にはいまいちよく分かんないですけど、楽しんできてくださいね」
そうして、「あ、お土産期待してます」と付け足すと箒を持って店先の掃除に行ってしまった。
「お土産なんて手に入るとこじゃないんだけどなぁ……」
昼下がりの店内は花の香りも手伝ってひたすらに長閑。私は照明の下で美しく咲く花たちをぼんやりと見つめ、やがてふっと目を細めた。
翌日、木曜の定休日。
七時にセットしておいたアラームが私の狭い寝室に鳴り響き、部屋の照明が自動的にパッと点いた。
まだ少し眠気がこびりつく身体を引きずり、顔を洗い、鏡の前で手で肩まで掛かった髪を梳き、卵とレタスとクロワッサンの簡単な朝食を済ませた。その後再び鏡台の前に立って髪を整え薄い化粧をし、気分転換にいつもはあまりつけないカチューシャも取り入れた。そして、クローゼットからお気に入りの白を基調とした服を選び、それを着てもう一度鏡を見ると、ようやく雰囲気が明るくなって見えて幾分気分が高揚した。
私はバッグに財布と携帯電話など最低限度の荷物を詰めて、私が住んでいる東京第十七居住区(アパートの進化形態で部屋がセルのように連なるエリア)の一室を後にし、カードキーを掛けた。そしてドアの隣の付属ガレージから自転車を出してきて、浅ましく日光に似せた照明が等間隔に連なる巨大な廊下のような居住区通路の車道を、歩道寄りに自転車をこいで行った。
やがて天井まで何十メートルもの高さのある巨大な人工空洞にできた街を走り、約二十分かけて地上連絡駅に到着した。券売機で地上行きの切符を購入すると、駅のホーム(まさしく巨大エレベーターホール)のベンチに腰掛けてしばらくぼーっとしていた。
ぼーっとしている間考えていたのは岸君のことだった。私が今から四年前早死にしてしまった親の花屋を継いだ時から共に働いてきた間柄で、昨日はああ言ったものの、やはり何か土産になるものはないかとあれこれ想像を膨らませていた。彼は、基本的に素直だが現実主義者で外への関心が薄い。今度こそ何か彼をあっと驚かせるようなものを見つけてきてやるのだ(以前は東京から外れた森へそれこそ観光に行ったのだが、撮ってきた沢山の美しい紅葉の写真も「そんな写真よくあるじゃないですか」と一笑に付されてしまった。彼は実際見に行ったことがないからそんな事が言えるのに違いない)。
そんなことを考えながら待っているとやがて巨大なエレベーターが透明な筒を通って上からゆっくりと降りて来た。私は気持ち軽い足取りでそれに乗り込んだ。エレベーターは上へ上へと上がって行った。
途中、エレベーターの窓から見える広い商業区を眺めながら私は不思議な気持ちになった。今の建物は皆角が取れて可愛らしいが、以前に見た地上の都市はもっと角ばって厳めしかった。果たして、地上の世界は此処とは別の次元の世界なのではないかと本気で思った。不思議の国の某は穴へ落ちて別世界に行った。だとすれば私は穴から昇って別世界に行くというのだろうか。
地上に着くまでは一分とかからなかった。
エレベーターから出た所にある看板には「旧東京都北口3」と書かれていた。そして、その下にある電子看板には「11月15日 曇り 安全」と表示されていた(最もそうでなければ今日の予定は成り立つないはずもない)。駅からは何台か移動用のバギーが出ているが、遠くに行くつもりはなかったので歩いて外に出た。
空は一面曇天。決して日和とは言えないが久々に見る本物の空にとても開放的な気分になった。何より雲の生み出す影のグラデーションが美しく幻想的だったのだ。
駅の脇には決まって巨大な発電所群がある。一面に広がる黒っぽい太陽光パネルの絨毯や、兵隊のように綺麗に並んで同じ方向を向いて立っている風力発電の風車が見える。最近ではもっと向こう側に核融合発電所が建設されたらしい。現在地上にある人間が使用している施設と言ったら、後は航空所と港くらいである。
そして、目の前に広がっているのはいかにも年季を感じさせる荒廃したビル群だ。灰色の巨人たちには一切の生気は無く、砂埃なのか、或いは残された思念の塊なのか、離れた所に居てもむせ返るような感じする。こっちも下も、敷き詰めるようにして立っている窮屈そうな風情は変わらないが、何処となく荘厳である種の恐怖を覚えさせる雰囲気があった。しかし、どうにも「美しい」と形容するものには感じなかった。それは正に廃墟。巨大な廃墟。夢の跡でもなんでもない、ただの廃墟。
駅で貸しだされたヘルメットを被り、私はその物寂しい廃墟に何かを求めるように足を踏み入れた。
それにしても、寒い。今は昔と違って激しい気候変動のせいで氷河期に近い気候とまで言われてる。折しも十一月、寒くないはずがない。実は今私はお気に入りのダッフルコートに厚手の手袋、ロシア人が被ってそうな大きな耳当てのついた帽子、中には機能性肌着を上下共に装備しているのだ。これが一月や二月になると完全に外に行けなくなる。しかし、冬の暖かい格好は好きだった。何かに守られているような心地がして安心するからだ。
凍りついた漆黒の路面を踏みしめながらまっすぐ歩いた。無心に、それで居て絶好のシャッターチャンスを、この前奮発して買ったコンパクト過ぎるおニューのデジカメと一緒に待った(別に、ケータイで撮るより岸君の反応が良さそうだとか期待したわけではなく、単純に最近の趣味だ)。
それと、私にはもう一つここでやること(習慣、或いは儀式とでも言おうか)があった。私は徐にバッグの中から小さな袋を取り出し、その中の細かな茶色い粒をそこらの路面の、出来るだけ舗装の剥がれた箇所目がけて放った。花の種だ。店で売れ残ったもので、時々こうして地上に出ては適当に蒔いて歩いているのだ。始めたのは確か四年前、私の両親が死んだ時だった。何と言うか、こうしたほうが種も私も自由になれる気がするのだ。例え人が捨てたこの地上でも。
そう言えば、以前このことを岸君に笑われることを覚悟で話してみたことがある。そしたら彼は意外にも「いいっすね、そういうの」と真面目な顔つきになって微笑んだのだ。それがなんだか悲しげな笑みだったのを、私は今でもはっきりと思い出すことが出来る。あの反応は何を意味していたのか、私には解らない。いや、解ろうと思えばきっと解る。私は逃げていた。
花の種は空気抵抗を受けて、理想の着地点よりいくらか手前の硬いアスファルトにぱらぱらと落ちる。私はそれを眺めながら更に歩いていった。
やがて、目の前に割と幅の広い大きな川が現れた。緑や茶色に暗く淀んでのっそりと流れているけれど、それでも本物の川は見ていて落ち着く。丁度、高層ビル群に囲まれて窮屈さが次第に無視できなくなってきた頃だったから助かった。私は、柵にちょっと体重を委ねてカメラを手にした。川に生き物が居るかは私には判断しかねるが、川を撮ろう。そう思った。
すると、変化は急に訪れた。カメラを構えてレンズに写しとられたデジタル画像とにらめっこしていると、突然、遠く向こう岸に小さな黒い影一つ。黒猫だ。私は柄にもなく黄色い悲鳴を上げたが、シャッターを切る、その動作にまで思考が及ばなかった。
黒猫は一瞬確かに私と目が合った気がしたが、すぐにぷいっと踵を返して去ろうとした。
まって!
私は走り出した。何か魔法にでもかかったように。
すぐ脇の橋、「危険! 一般人の立ち入り禁止」というような札の立つのも気にせず、ロープを飛び越え、アスファルトの脇の白い歩道の路面を蹴り、長い大橋を黒猫の走り去るほうへ全力で走っていった。あの黒猫が呼んでいる、そんな気がしてならなかった。岸君、ごめんなさい。
しかし黒猫はすぐに見失ってしまった。そんなものは当然と言えば当然なのだが、私はそれでも大体の見当をつけて追いかけた。こうやって何かに突き動かされていたかった。
橋を渡りきると、幾つも建物の角を曲がり、通り過ぎ、灰色の残像を両脇に何となく捕らえつつ、鈍く響く足音は一つ、とにかく駆け抜けた。だが暫くすると遂に走る意欲も殺がれるほどに息が上がってしまい、私は「仕方なしに」という感じを全身で表現しながら立ち止まった(とは言っても、私がここまで走れたことに少し驚いた)。気分はいくらか清々しくさえあるが、やはり悔しい。
私はひとまず角を再び曲がってさっきの川沿いの道に出た。あの黒猫がまた川の方へ行ったという希望もあってのことだった。
しかし、そこには意外にも猫よりもずっと大きい、一人の少年の姿があった。まだ小学生とも中学生ともつかない容貌で、だぶだぶの大きなコートに大きなリュックサックを背負っている。親の姿も見当たらず、なんだかその状況を把握しかねる子だ。他に誰も居ない(と言うかそもそもここに誰か居るべきではない)空間では、私の足音は良く聞こえたのだろう。私が少年を見つけると同時に彼と目が合った。
「君、こんな所で何しているの?」
取り敢えず私から声を掛けた。咎めるつもりがないことを無いことを伝えるために出来るだけ優しい口調で話しかけた。すると少年は暫く黙ってこちらを見つめ、やがてリュックサックからスケッチブックを取り出して一枚紙を捲ると、それを私に見せた。
『僕は喋れません』
私は紙に書いてある言葉に驚いたが、少年は構わず他のページを捲って見せた。
『ここの川の水を売っています。一杯いかがですか?』
私は率直に「ええっ......」と思った。なんせ、こんな廃墟のど真ん中を流れる川で、良い感じに緑っぽく濁っているのだ。こんな水飲めたものではない。と言うか、話が急すぎて付いていけない。まず状況を整理しよう。私の目の前にいるこの謎の少年は言葉が話せなくて筆談をしている。そして、この川の水を売っている。筆談で。……一体何故?何の為に?そしてやはり買う気にはなれない。第一私は今こんな遊びに付き合っている暇は……。
すると、私のそんな心情を悟ってか悟らずしてか、少年はリュックサックからプラスチックの小さなコップを取り出すと、リュックサックの下に付いているらしいチューブを手前に引っ張ってきて栓をひねった。するとどうだろう、コップには一切の濁りもない透明の綺麗な水がこぽこぽと小気味のいい音と共に注がれたではないか。私は思わず長いため息を吐いてコップの中の清純の実体を凝視した。
少年はコップを私の前に差し出した。私は考えるより先に手が出てしまった。受け取ったコップを一思いに唇にあてがい水を口に注いだ。まず冷やりとした水の感覚がさらさらと口一杯に広がり、そのまま喉をすうっと駆け抜けていく。廃墟の砂埃が舞う空気に乾いた喉が一気に潤う感触がした(と言うより、このときになって初めて私は喉が渇いていたことに気が付いたのだ)。後味も何も残らない、とても淡く澄んだ水だった。私たちを取り囲む淀みの実体とは隔離された完全な物体だった。
そんな私の感動が顔に出ていたのか、少年はとても満足げで、純粋な心のみが演出できる「ね?おいしいでしょ」といった勝ち誇った表情だ。なんだか私が恥ずかしくなってしまった。
「本当にこの川から汲んできた水なの?」
少年は淀みの無い動作で頷いた。
俄かに信じがたい。浄化装置を使ったと言うならまだ納得できるが、その選択肢は何故か私の頭の中には存在していなかった。きっとこの水を飲んだせいだ。
しかし、この水は売り物だったことを思い出し、値段も聞かずに水を飲んだことを多少後悔しながら少年に尋ねた。
「ところで、これいくらなの?」
少年はそこで少し考え込むようにして、やがてリュックサックからペンを取り出してスケッチブックに何か書き始めた。私は大人しくそれを待った。別に、ある程度のお金は持って来ているのだから問題は無いだろう。
そして、少年が見せた紙面にはこう書いてあった。
『お金はいいから一緒に黒猫を探すのを手伝ってくれませんか?』
私は思わず息を呑んだ。どうやら彼も同じ目的を持っているようだ。しかし、これはお互いにその黒猫について情報が無いことを意味していた。とは言え、こんな所では尚更、一人より二人の方が良い。
「いいよ、私も探していたの。一緒に行こう」
少年はぱっと嬉しそうに表情を綻ばせた。そして徐にスケッチブックの紙を捲って私に見せた。
『僕の名前は川端洋です』
そのときになって私は始めてまだ互いに名乗ってさえいなかったことに気が付いて赤面した。
「私は青野美咲。よろしくね洋君」
洋君は元気に頷いて見せ、私より年が十歳弱は下のこの言葉を持たない少年に、私はとても強い安心感とか頼もしさを誇張なしに感じた。
そうして二人して更に奥に進もうと立ち入り禁止となっている廃都の方へ方向転換した。そのときだった。二人から丁度四、五メートル程先、さっきまで私が走ってきた道のど真ん中に件の黒猫がちょこんと立って居たのだ。
「あっ……!」
私はつい声を上げそうになった。洋君からも小さく息を呑む音がした。それから私たちと黒猫は暫く見詰め合っていた。私は初めて見る首輪の無い身体や、艶やかな体毛の漆黒、そしてどこか消えてしまいそうな透明感を目に焼き付けた。果たしてどれだけの間そうしていたのだろう、時の流れが背後の川のようにひどく緩やかに感じ、一秒も十秒になった心地であったが、結局それは三秒程の出来事だったのかもしれない。
そして黒猫はまたぷいっと踵を返して廃都の奥へと走り去ってしまった。
「ああ、行っちゃった」
私は落胆したが、洋君はスケッチブックに何か書いて私に見せた。
『なんか僕たち誘われている気がします』
どうやら彼も同じことを感じたらしい。思えばさっきも、ずっと向こうに走り去って行ってしまったはずの黒猫がまた私の目の前に現れたのだ。姿を見せ付けるように。猫にそんな知能が有るとは思えないが、それこそあれが例のウサギ役なのかもしれないなどと思った。私たちはその誘いに乗ることにした。
それにしても驚いた。何にかと言うと私たちが並んで歩いている廃都の様子だ。あの川の手前、一般人が行動できるエリアではただぼろぼろになって重々しい雰囲気を放つ廃墟があったが、いかにもそれは人工の匂いが強い所だった。しかしここは違う。アスファルトにはもの凄い量の雑草が冬の寒さに緑を枯らして生えていて、周りの建物にも血管の様に這う無数の蔓、今にも建物を食い尽くそうとする夥しい量の苔が生えている。今まで夢中で気が付かなかったが、ここでは既に植物が自然化の先駆けとして浸食してきているのだ。
今は凍てつく冬の季節だからかなりコンクリートが剥き出しになっているが、いつだったか私が嘗て見た旧東京の写真の一つに、建物も道路も全て植物で覆いつくされ一面緑色に染め上げられた廃都を見たことを思い出した。あれはもうどう見ても自然の勝利だった。ただただ静寂。あの時はその様に現実味を感じなかったが、今日実際に見てようやくそれを感じ得た。
これが本来の姿なのだ。地上での生活を捨てた人間の文明の跡には、支配者の消えた跡には自然がやって来る。人間の空間から自然の空間へと塗り替えられていく。これが摂理、人類が望んだはずの結果。しかし、今植物の浸食の殆ど無いさっきの廃都の様を思い返してみると、やはり人間は執着を捨て切れていないと思えて仕方が無かった。
「ねえ、なんで洋君は水を売っているの?」
私が横を同じペースで歩く洋君に尋ねると、彼はまたスケッチブックを取り出して捲った紙を私に見せた。どうやらあらかじめその手の答えは用意していたようだ。
『僕は地上で生まれ、地上で育ちました。この水も僕が住んでいる所から採って来たものです。僕は地上の美しさを色んな人に知って欲しいと思っています。だから水を売っています』
そして、更にもう一つ紙を捲って見せた。
『ヒマつぶしもかねて』
私は思わず噴き出した。なら良い、と自然に思えてしまった。
「素敵ね、とても」
洋君は嬉しそうに頷いた。言葉は無くても、無邪気な微笑みは美しかった。そして私の疑問はここで完結した。これ以上聞くのは野暮だし、聞いたところで私には理解が出来ないことを私は弁えていた。だから、素敵のままで心に留めていたい。
また暫く適当に当てをつけて歩いていると、今度はタイル張りの海沿いの道に出た。赤黒く錆びついた手すりの向こうは湾内の灰色の海面が静かに波打っている。手前の道はやはり雑草がひどく茂っていてとても舗装されたそれとは呼べなかった。
「わあぁ、広い」
海など何年振りに見たことだろう。この広すぎる水瓶の口、遠くで世界の形を結ぶ水平線。願わくば晴れた日にこの壮大な海原の綺麗な青を目に焼き付けたかった。
ふと、前方に人影があるのに気付いた。私とそう年の変わらなさそうな若い女性だ。遠くでカメラを構えているのが判った。防寒具に全身を覆い尽くしながらも、潮風に柔らかくたなびく長い黒髪と、瞳の付いている箇所だけは出ていて、それが強調されて印象的だった。
私たちが近づいて行くと、彼女も気が付いたらしくカメラを下ろしてこちらに小さく会釈をした。
「こんにちは」
私から声を掛け、洋君もお辞儀だけすると、女性は一瞬息を吐く間を置いて鼻まで覆うマフラーをつまんで喉許までおろし、幽かに微笑んだ。落ち着いた雰囲気が漂って、私より年上に見える。
「こんにちは。こんな所まで、人のこと言えないけれど随分やんちゃですね。お国の人かと思って内心かなり穏やかじゃありませんでしたよ」
「え?でも見れば判りませんか?」
不意に、洋君が隣で私の袖をくいくいっと引っ張った。そして自分の目をさりげない動作で片手で覆って見せた。鈍い私はそれでもよく解らなかった。
すると、女性は声を立ててクスクスと笑い出し、私はますます訳が解らなくなってひどくきょろきょろとしてしまった。
「気が付きませんか?あたしは目が見えないんです。盲目」
そう言って指差した彼女の目は確かに焦点が全く合っていない。洋君はこれを見抜いたのだ。私はびっくりした。今日はこういう人たちと縁があるらしい。そう思うと何処も至って正常な私が返って異常に思われて寂しくなってきた。その横で洋君はスケッチブックの『僕は喋れません』の『は』を『も』にわざわざ書き換えて見せていた。それは日本語としておかしいじゃない。それを読んであげるのは私だというのに。
「でもあたし、あなた達が来るのは判りました」
「音とか声で、ですか?」
すると女性はちょっと間を置いて小さく首を横に振った。
「あたし生き物の気配にだけは変に敏感なんです。特に目を外に晒していると。こうして目が見えなくても人が居るなーとか、それがどんな感じかなーとか、こういうとこでは尚更ですね」
私はただ感嘆にも似たため息を付くことしか出来なかった。洋君といい、今日は不思議な人にばかり出逢う(とは言え、他人とズレた感性を持った私も有る意味例外でない気がするが)。
「あ、あたし山口映子です。見てのとおり写真を撮っているんです」
私たちも順に名乗った。私は観光ついでに花の種を蒔いていること、洋君は水を売っていることを一緒に話した。何か親近感を与えることが出来ると思ったのだ。
おまけに洋君は水を映子さんに注いであげた。彼女もその澄み切った不思議な川の水に満足したようだ。私もついつい自分の分をせがんでしまい、洋君に「またですか」といった目で見られたが結局貰えた。やっぱり美味しい。横では海が潮風と共にさざめく様な波音を立てている。しかし、この水の感覚とはさっきの川のそれよりも更に離れているように感じた。
映子さんがあっという間に水を飲み干すと、洋君はまたしても料金を取らずに映子さんに一つお願いをした。
『写真を見せてください』
映子さんはそれを私が読み上げるのを聞いて一瞬驚き、すぐに何か可笑しなことでもあったかの様にまたクスクスと笑った(私はそれを見れば見るほど無邪気で可愛らしいと思った)。
「そんなことでいい?まあ確かにあたし写真家やってるから良いっちゃそうなんだけど、ちょっと待ってね」
映子さんはカメラを起動してフォルダを開こうとした。そのカメラは成る程、戯れ程度に買った私のそれに比べてとてもしっかりしていて重みを感じた。
そうして見せてくれた写真に、私たち二人は同時に息を呑んだ。
そこに映るのはこの旧東京の廃れた街。しかし、その写真には私が取っていたものと二つ大きな違いがあった。
一つ目は撮り方だ。私は巨大な廃墟の全体図を捉えるように撮っていたが、映子さんの写真はその砂埃まみれひびだらけの建物の中でも特にとりたい場所を、沢山のクローバーの群れから四葉だけを細くしなやかな手で丁寧に摘み取るように映し出している。迫力には欠けるが、廃都の侘しさ、儚さ、そして輝きにも似た幽かな美を訴えかけている。
二つ目はそこに映っているモノ――命だ。この辺の立ち入り禁止区域に密生している雑草や蔦、そして、鴉などの野鳥に野犬の親子までも映っていた。衝撃だった。
そもそも、生物の気配を感じ取れるといってもこれだけ綺麗な写真をその暗闇の中で撮れるなんて驚愕だ。これがプロの境地なのか。私も花の気配なるものだけでも感じ取れたらもっと良い商売が出来るのだろうかとおかしなことを考えた。そしてやはり全ての写真には必ず動物にせよ植物にせよ、「命」が映っていた。
「廃都には、生き物なんていないと思ってました」
「すごいでしょう?この区域には野生の狸なんかも出るんです。ほら、この犬の親子は元はビジネスホテルだった部屋のベッドを巣にしているんですよ。すごくないですか、昔に人が使っていたものがだんだんこうして自然の、動物達のものになっていって、なんか人って思ったより大したこと無いなーって思いませんか?だから、自然物も好きだけどこういうのも好きなんです」
そうか、そう考えている人、他にもいたんだ。私は何だかとても嬉しくなってきた。『ありがとうございます』とスケッチブックでお礼を言う洋君も満足げだ。読み上げる私の声も自然と弾んだ。
「何だか今日はいい出会いに恵まれています」
私はそう言って微笑んだ、くるりと洋君の方にも顔を向けると、思ったより照れてしまったようでふいと目を逸らされてしまった。
「ふふ、嬉しい。そう言えばあなたも花の種を蒔くなんていい趣味してるんですね」
「いいえ、家が花屋なんで、その残りを」
映子さんはますます興味津々な顔つきになった。
「いいじゃないですか。何かあたし、二人と似てるかも。あの、なんだったら一緒に回りません?共犯ってことで一つ」
別に犯罪にはならないと思うけれど。いや、そうではなく、それは有難い話だ。ならばここは……。
『お金はいいから一緒に黒猫を探すのを手伝ってくれませんか?』
突然洋君。というかそれ私にさっき見せたやつじゃない。そもそも洋君は元よりお金目当てでないのではと思えて仕方が無い。
「ええと、黒猫、いや、猫を見かけませんでしたか?」
「え?そうね……猫ならさっき撮って来たけど」
そうさらっと言って映子さんは再びカメラを取り出した。私たちはまたまた同時に息を呑んだ。まだ見ていなかったその写真には、何処かのレストラン跡にすまして立っている二匹の猫が見事なアングルでそこに映り込んでいて、その一匹はまさしくさっき私たちが見たあの黒猫だった。
「こ、これ何処で?」
「猫を二人で探し回ってたんですか?面白いですね」
そう言って映子さんは一人三度目のクスクス。近くだから案内すると言うので、私たちは大喜びで付いていった。勿論行ったところでいない可能性は高い。でもやっと掴んだ手掛かりなのだ、こんな可能性でも今日の私の最後の一ピースが埋まるのなら賭けてみたかった。
そして私と洋君は緊張感に顔を莫迦みたいに真面目にして、映子さんもそんな私たちの雰囲気を真似て、さっきまでの和やかな空気から一転、冒険の終盤といわんばかりの行進が始まった。
しかし、本当にそう時間は掛からなかった。海沿いの道を少し逸れて静寂の雑草街道を少し歩くと、やがて写真で見た件のレストラン跡に辿り着いた。黒猫を探したが、如何せん、そう簡単な話では無かった。私よりも諦めの悪くあちこち覗いていた洋君も暫くして断念した。
「うーん、何も感じないなー」
「……居なさそうですね」
道に差す光が暗く、赤らみ始めているのがこの曇天の中でも判った。日暮れが近い。もうこれ以上は寒くなるし無理かも知れない。
『だめだったでしょうか?』
そう紙で訴える洋君の瞳にも疲れが滲んでいた。うん、もう今日は帰ろう。可能性は尽くした。色んな出会いも発見もあった。今日は何だか本当に夢の世界に来たようで楽しかった。これで十分だろう。私はそう自分に言い聞かせようとした。
しかし、突然に洋君が声には出来ないものの確かに叫ぶ息の音が聞こえた。まさかと私は未だ燻っている希望の火種に導かれその視線を追うと、果たしてその先にはあの黒猫の姿があった。
「映子さん、居ます、あそこ」
私はひそひそ声で映子さんに強く訴えかけた。
「え?何も感じませんが」
それはおかしい。しかし私が戸惑っている内に黒猫はまた去ろうとする。だが今度は今までとは違った。ゆったりとしたペースで歩き出したのだ。全く警戒している様子が無い。
「行きましょう」
私と洋君は未だ困惑している映子さんの手を引いて、黒猫を刺激しないように息を殺し、若干早足になって後を付いて行った。
黒猫は一切の物音を立てることなくすたすたと一定のペースで歩いていく。気配を消して後を追っているとまるでこの廃都の風になってゆっくりと飛ぶ様な奇妙な感覚に襲われた。黒猫は気が付くと海沿いの開けた空間に出てきた。海沿いの公園だ(とは言え生い茂る草木にもはや公園とは呼びがたい姿となっているのだが)。そして黒猫はさっきまでの道よりずっとひどく茂ったその空間に侵入する。
次の瞬間、黒猫の姿が変に揺らいで蜃気楼のような状態になった。驚いて足を止めると、黒猫はその歪んだ姿のまま振り向き、突然ふっと姿を消してしまった。途切れるように、静かに。私と洋君は幽かに口を開けたままでその光景を見た。
「消えた……?」
「え、どうしたんですか?」
一人状況が解ってない映子さんは私に尋ねてくるが、答えられるだけの頭の整理が出来なかった。一体あの黒猫は何だったというのだろうか。
「ドッキリ大成功、ですね」
すると今度は、私たちが出てきた道の後ろから聞きなれた声がした。まさか、でもこの声は……。
「楽しんでくれましたか?青野さん」
「岸君!?」
驚いたなんてレベルではなかった。驚愕も驚愕。色んな意味で私は眩暈さえしそうな驚愕の混乱に落ちた。昨日はあんな事言っていたのに。
「まさか僕が居るなんて思わなかったですよね。今日のために仕掛けをしておいたんです」
そう言って、岸君は手元の小さなノートパソコンのキーを押した。すると、彼の足下にさっきの黒猫がいきなり現れたのだ。そこでようやく私は理解した。
「ホログラムだ」
「そうです、僕があちこちに装置を仕掛けて皆が通るときに立体映像を流していただけです。と言っても、一人効果の無い人もいますが」
そう言う岸君の目線の先には映子さん。成る程、生き物の気配を感じ取る彼女にとっては映像だけの偽者は認知出来なかったのだ。
「久しぶりね岸君」
映子さんの挨拶に私はまた驚いた。
「え?映子さん岸君を知っているんですか?」
「ええ、まあ。岸君と同じ学部の同期です」
と言うことは、またまた。映子さんは私より年下だったのだ。
「洋君のことも知ってますよ」
そう岸君が付け足した。洋君の方を振り返ると「イエス」と言うようにこくりと頷いた。一体私の知らない所で何が起きていると言うのだろうか。
「まあ、そのことについては追々。取り敢えず付いてきてください」
そうして私たちは公園の奥に案内された。もともと地上への興味が無かったはずの岸君は、一体何をするつもりなのだろう。
ふと、足を止めた。私の中で眠っていた記憶の欠片が頭を小突いてきた。鋭く淡い感触は確かな違和感となって視界を曇らせるようだ。
洋君がどうしたのかと振り返った。彼の瞳はさっきまでの落胆や驚愕に取って代わって未知への好奇心に満ちていた(彼はこれから起こることについては知らないようだ)。やっぱり彼には適わないと思った。
「こっちですよー」
岸君に催促され駆け寄っていくと、彼はその足下を指差した。
はっとした。
記憶の衝撃に打たれた。さっきの違和感の元が怒涛の勢いで押し寄せる。思い出した。そこにあったのは初めて私がこの廃都に蒔いた、あの――。
「あの時の花……?」
岸君は穏やかに微笑んだ。
「そうです。四年前、青野さんのご両親が亡くなられた翌日に青野さんがここまで来て蒔いた種から咲いた花です」
そう、私の両親が死んだ翌日、私はショックの余り地下都市を飛び出してただ無心に歩いていた。今日よりは多少暖かい春の夜のことだった。確かに私はそのとき海の見えるところまで来て店から持ってきた種を蒔いた。まさかここでこうして咲いていたとは。
花は、一箇所に集まったり、ちょっと離れて澄ましたりして、一輪毎に美しい輝きに似た生命力を放ってこの寒空の下で健気に咲いていた。どこまでも純粋で、どこまでも可憐。私があの日蒔いた絶望と悲しみの涙は今こうして綺麗に花開いていた。
「でも、どうしてここに咲いていることを知っていたの?」
「以前大学の講義の一環として、ここら辺まで旧東京を見るために特別に許可を貰って来たことがあるんです。そのとき山口がこの花を撮っているのを見て、昔青野さんに聞いた話を思い出したんです。それで、きっとこれのことだって確信したんです」
そうだった。岸君は現在私の店でバイトをしている傍ら大学で歴史を専攻している。彼の専門はもっと昔の出来事で、考古学なんかに興味があるらしいのだが、こういうことも大学ではあるのか。映子さんは初めこの花を見つけて岸君に気付かせてくれたのだ。
「洋君は、この前装置を仕掛けにもう一度ここに来た際に偶然に出会って道を教えてもらったんです。おかげでこうして手の込んだ用意が出来ました。まさかまた二人に会うことになるとは思っていませんでしたが」
そういうことだったのか。私はようやく事の経緯を理解した。それにしても、立ち入り禁止区域のことに精通しているなんて洋君は本当に何者なのだろうか。
『でも、どうしてこんなドッキリを?』
洋君がスケッチブックを見せた。私も今更になってその通りだと岸君に尋ねた。すると、彼は決まりの悪そうに顔を赤らめて頬をぽりぽりと掻いた。
「ああ、それはですね……」
日は沈み、地上は地下都市の大照明とは違って人為無く自然な動作で夜の帳を張った。
闇に染まった海の側の小さな公園に灯る一つの焚き火の橙色の光は、こんな寒空の下で一際暖かく四つの影を照らした。
「ハッピーバースデー!」
二人の若者の声がすぐ脇に建つビル群に木霊し、同じメッセージが書かれたスケッチブックが高々と掲げられて焚き火の光を受ける。
そして、一人その言葉を受け止める立場にある私は顔を焚き火の炎の色よりもずっと真っ赤に染めて俯いていた。
「恥ずかしい……。私もう子供じゃないんだから」
そう言って身を捩じらせるが他の三人は心底楽しそうだ。因みに、私たちの手には用意周到な岸君が買ってきたチーズケーキ、そしてもう片方の手には清純の実体――洋君自慢の魔法の水――がコップに注がれて握られている。
「いいじゃないですか。私は羨ましいですよ、こんなロマンチックな演出で祝ってもらえるなんて」
そう言って映子さんは私に微笑みかけた。しかし、黒猫のホログラムに散々走らされて、ようやく誘導された会場は雑草生い茂る廃都のど真ん中(ついでに立ち入り禁止区域)。これが果たしてロマンチックなのかと冷静になってしまう。しかし、もし私が一人でここへ来て岸君と二人でこのイベントが行われていたら、きっと私は泣いていた。
「まあ、確かに嬉しいけどね……その、ありがとう」
私のささやかな感謝の言葉は最後はぼそぼそとした口調になってしまったが、三人はきちんと聞き届けてくれた。
それから談笑を交えつつケーキと魔法の水を堪能すると、岸君は不意に立ち上がってこう言った。
「プレゼントがまだでしたね。一旦火を消してもらっていいですか?」
一体今度は何だろう、と思いつつ私たちは砂で火を消した。辺りが静寂の闇に呑まれると岸君は徐にさっきのリモコンを取り出して操作し始めた。
刹那、ぱっと立体映像装置が起動して辺り一面にホログラムが広がった。
それは満月の夜の森だった。雑草で荒んだ公園には木々が深く生い茂り、荒廃したビル群の灰色の壁面には群雲が悠々と流れて満月が浮かび、暗く物寂しい海の水面には月の影が映り、月光に照らされて静かな湖水の水面。
現代ではもう殆ど見る機会の無い豊かな森が広がっていた。
「……すごい」
私はさっきまでとはまた異なる興奮に感嘆の声を漏らした。洋君も映子さんも魅入ったようにその光景を眺めていた。
「これを見せたかったんです。青野さんずっとこういうのに憧れていたようですし、ホロですけど、日ごろの感謝を込めて。それに、こうすれば青野さんの『青野節』も少しは解るんじゃないかなって」
「もう……ありがとう」
岸君は照れたようにまた頬を掻きつつ笑った。
「まあでも、今俺が入っているホログラム研究会の宣伝の為の写真も兼ねてるんでちょっと申し訳ないですけど」
「ううん、そんなこと無いよ。本当にありがとう」
すると、洋君がスケッチブックを見せてきた。
『映子さんに写真を撮ってもらおうよ』
「あ、そうか。山口、いい?」
「うん、いいよ」
『じゃあ僕たちも一緒に撮って下さい』
「え、だからこれはウチの宣伝の為であって……」
「いいじゃない何枚くらいかなら」
「まあ、それもそうだな。青野さん、撮りますよ」
私は思わず笑顔になって皆に駆け寄って行った。確かにそうだ。こんな素敵なプレゼントは無い。ただ気分の赴くままに気晴らし程度に出掛けた地上、黒猫の虚像に導かれてこの人の灰色の文明の跡で本当の別世界に飛び込んだ。いつかこんな光景を実際に見て、綺麗な空気を吸って生きる。そんな生活が訪れてくれればいいけれど、結局何処へ行っても人が居ればそれは滑稽だ。でも、この夢のような一日を私は決して忘れない。
「じゃあ、撮りますよー」
映子さんがスタンドに一眼レフを取り付けてしてタイマーをセットした。無駄に急いで駆け寄ってきて、皆で一箇所に集まってレンズに視線を集めた。皆思い思いのポーズをとった。
カウント音がやがて短く刻まれ、私たちはくっと寄り添った。
――滑稽なこの人の世に、乾杯。
パシャリと、シャッターの音が廃都の空に木霊した。