ぼくと僕
あるところに、ぼく、という少年が住んでいました。ぼくは、お父さんとお母さんの三人と、ひとつ屋根の下で暮らしていました。
お父さんは、靴を作る職人さんです。いつもいつも、家の隣にある仕事場に篭り、家族の為にと、黙々と靴を作っています。一生懸命に靴を作る、そんなお父さんの背中が、ぼくは大好きでした。時々ぼくは、お父さんに構って欲しくて、仕事場に顔を出し、お父さんにくっつきにいきます。ぼくがお父さんにくっつくと、お父さんは少しびっくりした後、困ったような顔をします。お仕事の邪魔になってはいたのですが、お父さんもぼくのことが大好きなので、口では注意しながらも、お父さんは優しくぼくの頭をなでてくれるのでした。
お母さんは、家のことを何でもやります。お掃除、お洗濯、ご飯の用意に、お買いもの。そして暇さえあれば、お母さんはいつもぼくと遊んでくれました。家でおもちゃを使って遊んだり、お母さんが本を読んでくれたりします。また、時々、お母さんとぼくは、二人でお出かけします。それは、ぼくがお母さんのお買いものについていったり、公園に遊びに行ったり、または、ただ二人でお話しながら、お散歩したりすることもありました。ぼくはそんなお母さんが大好きでした。
また、お父さんとお母さんもとても仲良しで、ぼくはますます嬉しく思っていました。寝る時だって一緒です。大きなベッドで、三人一緒に寝るのです。たまに怖い夢を見たりもしましたが、そんな時は、ぼくの隣にいるお父さんとお母さんが優しく抱きしめてくれます。だからぼくは、いつも安心して眠りにつくことが出来ました。
お父さんに甘えて、お母さんと遊んで、夜は一緒に眠って。ぼくは、とても幸せな日々を送っていました。
ところがある日。夜中におしっこがしたくなり、ぼくが起きてしまった時のことです。
お父さんもお母さんもぐっすり眠っていて、ぼくがいくら揺すっても、二人は起きてくれません。そこで、ぼくは仕方なく、夜も遅い真っ暗な中、一人でおトイレに行くことにしました。部屋を出る時、ぼくは壁に掛けてあるカレンダー、桜の花の絵が描いてあるのを見ました。これが明後日には、月が変わるので、若葉の絵に変わってしまいます。ぼくは桜の花が大好きなので、それを残念に思いながら、部屋を出ました。
おトイレはお部屋を出て廊下を進み、玄関のすぐ横にあります。しかし、廊下の電気を点けるスイッチが見当たらなくて、ぼくは暗い中、進んでいくしかありませんでした。お化けでも出るんじゃないかと、びくびくしながらおトイレに向かいます。廊下の時計は、零時を回ったくらいを指していました。怖がりながらも、何とか、おトイレに辿りつき、おしっこを済ませることが出来ました。
そしておトイレのドアを開けた瞬間、ぼくの目に人影が映ったのです。
「わあっ」
ぼくはびっくりして、声を上げました。
「お、おば、おば、……」
お化けがでたのかと思い、泣きそうになってしまいます。
でもよく見てみると、それは鏡にうつった自分の姿でした。お出かけの時に、洋服がきちっと整っているかを確認する大きな鏡が、丁度おトイレの正面になる、玄関の横に置いてあるのです。
おトイレから漏れた光で、ぼくの姿が映ってしまったようでした。
「なあんだ……」
ぼくはほっとして、胸をなでおろします。そうして振り返り、おトイレの電気を消そうと、スイッチへ手を伸ばしました。でも、何かが聞こえてきて、ぼくは伸ばしていた手を止めました。
「くす、くす」
誰かが笑っているのです。ぼくはもう一度振り返ると、またもやびっくりしてしまいました。
「わああっ」
何故なら、鏡の中の自分が、笑っていたからです。
「くす、くす」
鏡の中に映っているぼくは、口に手を当てて、面白そうに、笑っています。ぼくはびっくりして、尻もちをついてしまっているのに、鏡の中では、くす、くす、と笑っているのです。ぼくは怖くなって、逃げだそうとしました。
「待ってよ、ぼく」
しかし、鏡の中の僕が、逃げようとしていたぼくを呼びとめました。逃げようとしていたぼくは、思わず止まってしまいます。その声は、ぼくと全く同じだったからです。
「せっかく会えたんだ。もう少しお話しようよ」
鏡の中の僕は言います。ぼくがおそるおそる振り返ると、鏡の中の僕はいつの間にか、あぐらをかいて、座っていました。
「きみは、……だれ?」
ぼくがおそるおそる尋ねます。
「僕は、ぼくさ」
鏡の中の僕が、笑いながら言います。
「ちがうよ。ぼくがぼくだよ」
ぼくは言い返します。
「いいや。僕がぼくだ」
鏡の中の僕も、言い返します。
「ぼくがぼくだよ」
「いや、僕がぼくさ」
「ぼくだよ」
「僕だ」
「ぼくっ」
「僕っ」
二人は顔を近づけて、睨み合いながら言い合っていましたが、やがて、鏡の中の僕が笑い出しました。
「あはは。面白いね」
「なんだよ、なにがおかしいんだよ」
よく解らないまま笑われて、ぼくは、むっ、とします。
「ごめんごめん。ぼくは可愛いね、ってことだよ」
鏡の中の僕は両手を合わせて言いました。
「それって、どっちのぼくのこと?」
「あれ、どっちだろ?」
ぼくの言葉を聞いて、鏡の中の僕はまた笑います。
「おはなしするとかいって、わらってばっかり」
向こうばかりが笑っていて面白くない。ぼくは部屋に戻ろうとしました。
「ああ、ごめんごめん。そうそう、お話だったね。忘れてた忘れてた」
ぼくは本当に戻るつもりだったのですが、向こうが謝ってきたので、足を止めました。謝ってくれたのなら、許してあげなさいと、お母さんに言われていたからです。鏡の中の僕はそんなぼくを見て、にやり、と笑うと、手を、ぱん、ぱん、と叩いてみせました。
「あれ?」
ぼくは不思議に思いました。
鏡の中の向こうの僕の声は聞こえるのに、手を叩く音が聞こえないのです。ためしに、自分で手を叩いてみました。ぱん、ぱん。自分の叩く音は、ちゃんと聞こえます。
それを見た鏡の中の僕が、もう一度手を叩いてみせました。確かに叩いているはずなのに、音は全く聞こえません。
「あはは。解った? 実は僕の方にも、君の叩いた音は聞こえないんだよねー」
鏡の中の僕は、面白そうに言います。
「どういうこと?」
ぼくは鏡の前に戻ると、身を乗り出すように聞きました。
「簡単だよ。僕と君のいる場所が違うからさ。僕がいるこっちと、君がいるそっちは別々のもの。だから、僕はぼくだし、ぼくも僕なのさ。だから、声は聞こえる」
ぼくは、鏡の中のぼくが言っていることが、よく解りません。
「?」
「まあ、いいよ。君は解らなくても」
しかし、鏡の中の僕は教えてくれませんでした。
「そんなことはどうでもいいんだ。僕は今日、折り入って頼みごとがあるから、君とお話してるんだ」
「たのみごと?」
ぼくはまた、首を傾げます。鏡の中の僕は、続けます。
「そうさ。君に頼みたいのは、とても簡単なこと。僕と代わって欲しいんだ」
鏡の中の僕は、顔は笑っていましたが、目は真剣でした。
「かわる?」
「そう、僕と代わってくれないかい? 君はこっちにきて、僕はそっちにいく。それだけだよ。どう、簡単なことだろ?」
「どうして?」
鏡の中の僕に向かって、ぼくは問いかけました。
「別に……。ただ、違う僕の両親を見てみたい、ってだけだよ」
鏡の中の僕は、少し横を見ました。
「きみにも、おとうさんとおかあさんがいるんだ」
「いるよ。君と同じ、お父さんとお母さんだ」
「さっき、ちがうっていってたじゃん」
ぼくがそう言うと、鏡の中の僕は、気まずそうに頭をかきました。
「……君って結構、人の話を聞いてるんだね」
「ひとのおはなしはちゃんときかなきゃだめだ、っておかあさんにいわれたから」
「……ふーん」
それを聞いた鏡の中の僕は、口を尖らせました。
「……で、どうなの。代わってくれるの? くれないの?」
もうこの話は終わり、とばかりに、鏡の中の僕は、ずい、とにじり寄ってきました。しかし、鏡の向こうなので、彼がぼくにぶつかることはありません。
「かわるっていっても、……どうしたらかわるの?」
ぼくは、鏡の中の僕の様子にちょっとびっくりしながら、聞きました。
「簡単だよ。僕とこうやって、両手を合わせて」
それを聞いた鏡の中の僕は、鏡に、ぺったり、と自分の両手をくっつけてみせました。ぼくも言われるまま、両手を合わせてみます。ちょうど横から見たら、二人は鏡越しに、両手を合わせています。
「そして、おでこもくっ付ける」
「こ、こう?」
次に、鏡の中の僕が、とん、と鏡におでこを当てたので、ぼくもそれに習って、おでこを当てました。
すると、どうでしょう。鏡越しであるのにも関わらず、ぼくの両手とおでこに、あたたかいものを感じました。まるで、鏡越しではなく、本当に両手とおでこを合わせているような、そんな感触を、ぼくは感じていました。
「ん。ありがと」
あったかいなあと思っていたのもつかの間。やがて鏡の中の僕は、すっと、そこから離れました。
「これで、替わりっこ完了だよ」
「かんりょう、って」
鏡の中の僕が離れた途端、冷たい鏡の感触が伝わってきて、ぼくは鏡から離れました。そして、きょろきょろ、と周りを見渡します。
特にさっきと、変わったところはありません。
「なんにもかわってないよ?」
「いいや。ちゃんと替わってるよ」
鏡の中の僕は、にこっ。と笑いました。
「ありがと、代わってくれて。僕は明日の夜にもここに来るから、また良ければ、お話しよう」
そう言うと、鏡の中の僕は、さっさと行ってしまおうとします。ぼくは慌てて、鏡に張り付きました。
「ね、ねえ!」
「君も早く寝ないと。もうこんな時間だよ?」
鏡の中の僕が、廊下の壁にかかっている時計を指差します。しかし、鏡の向こうの時計は反転していて、ぼくには何時か解りません。
「えっ、あっ、あれっ?」
ぼくが振り返ってみると、時計は丁度三時のところを示しています。
「あ、えーっと、……お、おやすみ?」
ぼくがそう言いながら振り返った時には、もう鏡の中の僕の姿は見えませんでした。それどころか、振り返った自分自身が映っています。
「……え、えーっと。きみさ、いまさらぼくのまねするの? お、おーい……」
両手をひらひらと振ったり、足を、ぱたぱた、と動かしてみたりするが、鏡の中のぼくは、同じ動きを繰り返します。
「え、えいっ」
ぼくはたまらなくなり、思い切って手を叩いてみました。しかし、鏡の中のぼくは、全く同じタイミングで、手を叩きます。ぱん、という渇いた音が、廊下に響きました。
「え、えー……?」
ぼくは、訳が解らなくなりました。今まで誰と喋っていたのか、あのあたたかさはなんだったのか、そして、ぼくは何をしたのか。
「…………ふあーあ……」
いろいろと解らないのに、ぼくはだんだん、眠くなってきてしまいました。それもそうです、ぼくはこんな時間に、起きていたことなどなかったのです。
「ーん……」
眠い目をこすりながら、ぼくは部屋へと帰っていきました。
「う、うーん……」
やがて、朝になりました。部屋に戻ったぼくは、窓から差す朝日の光を感じます。やわらかくで、暖かい光。今日はいい天気なんだな、とぼくは微笑みます。
この後、お母さんが優しい声で、ぼくを起してくれるのが、一日の始まりです。もう起きてはいるのですが、お母さんの声が聞きたくて、ぼくは目を瞑っていました。すると、部屋の扉が開く音がして、お母さんの声が聞こえてきました。
「僕っ、いつまで寝てるのっ? 早く起きなさいっ」
間違えなく、お母さんの声です。しかし、それは優しい声ではありませんでした。ぼくが今まで聞いたこともないような、大きな声でした。
ぼくはびっくりし、思わず目を開けて、身体を起します。
「やっと起きたの。もう、さっさと起きなさいよ。お母さん、もう出かける時間じゃない。全く」
お母さんは、ぶつぶつ、と文句を言っています。
「おかあ、さん……?」
「ああ、そうそう」
ぼくの声など聞きもせず、お母さんは喋り始めました。
「今日は私、お花のお稽古に行ってくるから。朝ご飯は机に置いといたけど、お昼は適当に食べてね。もしかしたら、夕方までかかるかもしれないから」
「えっ、えっ?」
よく見ると、お母さんはおしゃれな服を着ていました。それは、お母さんがお出かけする時の洋服です。
「じ、じゃあ、ぼくも一緒に……」
「はあ?」
お出かけなら一緒に行きたい、と思ってベッドを出ようとしたぼくに、お母さんは言いました。
「何言ってるの? 僕がお花なんて出来る訳ないでしょう? いつもみたいに、お留守番してて」
「い、いつも?」
いつもなら、お母さんはぼくと一緒にお出かけしてくれるはずです。ぼくは一人でお留守番など、したことがありません。
「でも、でも……」
「あー、今日はうるさいわね」
やがて、お母さんは声を上げました。
「僕がいても邪魔なのっ。それくらい解るでしょう? 全く、今日はやけに面倒くさいわね……」
「えっ、……えっ……」
お母さんはまた、ぶつぶつ、言いながら、右手についた腕時計を見ています。
ぼくは、段々怖くなってきました。目の前にいるのが、お母さんではないように、思えてきたからです。それと一緒に、ぼくは悲しくなってきました。
「ぼくは、じゃまなの……?」
「あ、もうこんな時間。じゃあね」
そして、お母さんはぼくを置いたまま、さっさと行ってしまいました。部屋においてけぼりにされたぼくは、じわじわ、と涙が溢れてきます。
「……ひっく、えっく、……」
置いて行かれたことより、怒られたことより、邪魔だ、と言われたことが、ぼくにとって一番、辛いものでした。
しばらく泣いてから、ぼくはベッドから出ました。
「……っく……おとうさん……」
ぼくは、悲しくて、悲しくて、お父さんに会いたかったのです。ぼくはパジャマを着たまま、とぼとぼ、と歩いてゆき、家の隣にある仕事場までやってきました。
「おとうさん……」
お父さんは、そこにいました。いつもみたいに、ぼくに背中を向けたまま、黙々と靴を作っています。
「おとうさんっ」
いつもと同じお父さんの姿に、ぼくは思わず、お父さんの元へと駆けよっていきました。そしてそのまま、後ろからお父さんに抱きついたのです。
「うわっ」
「おとうさん、おとうさん、……」
ぼくはお父さんの背中に抱きついたまま、ひっく、ひっく、と泣きました。変わらないお父さんの背中に、ぼくは安心します。いつもみたいに頭をなでてくれるのを、ぼくは待ちました。
しかし、お父さんは、ぼくの頭をなでてはくれませんでした。
「危ないじゃないかっ」
お父さんは、怒っていました。ぼくは、びくっ、として、お父さんから離れます。振り返ったお父さんは、とても怖い顔をしていました。
「作業してる時に、急にとびついて来るんじゃないっ。ケガでもしたらどうするんだっ?」
お父さんは大きな声で、ぼくを叱ります。ぼくは始めて聞くお父さんの大きな声に、ただただ目を丸くしていました。
「ただでさえ仕事が溜まっていて忙しいんだ……少しはお父さんのことも考えなさい」
やがて、お父さんはそう言うと、ぼくに背中を向けて、また靴を作り始めました。
「お、おとう……」
「こらっ」
もう一度、声をかけようとしたぼくに、お父さんは振り返らないまま、言いました。
「仕事の邪魔だ。早く家に帰りなさい」
そう言ったお父さんの背中からは、イライラ、というお父さんの気持ちが、ひしひし、と伝わってきます。ぼくは逃げるようにして、お父さんの仕事場から出ていきました。
「うう、……ううう……、うわーんっ」
家に戻り、さっきまで寝ていた寝室に戻ってくると、ベッドに潜り込んで、ぼくは泣きました。
「おとうさんっ、おかあさんっ、うわーんっ」
きょうのふたりは、ちがう。あんなの、ぼくのおとうさんとおかあさんじゃない、とぼくは泣きました。
「ひっく、ひっく、……どうして……」
しばらく泣いている内に、ぼくは不思議に思いました。昨日まではあんなに優しかった、お父さんとお母さんが、今日になって急に怖くなっているのです。そんなの、おかしいに決まっています。
「どう、して……?」
考えても、考えても、解りません。やがて、泣くことにも疲れたぼくは、そのまま眠ってしまいました。優しかった、お父さんとお母さんの顔を、思い出しながら。
そして、夜になりました。
「う、うーん……」
ぼくは、涙で真っ赤になった目をこすりながら、起き上ります。ふと見ると、部屋の中は暗くになっていました。窓にしてあるカーテンからは、お月さまの光が、すっ、と入ってきています。
「おとう、さん……」
ぼくは一緒に寝ているはずの、お父さんとお母さんを探しました。ねるまえのことは、ゆめだったんだ、ほんとうは、やさしいおとうさんとおかあさんが、いっしょにねてるんだ、とぼくは期待します。
「おとう、さん……? おか、あさん……?」
しかし、ベッドには、ぼくしかいませんでした。三人で寝られる大きなベッドなのに、ぼくが一人しか寝ていません。
「……う、……うう……」
ぼくは、また、泣きました。寝る前のことは、夢ではなかったのです。
「…………おしっこ……」
ぐっす、ぐっす、とぼくは泣き声を上げていましたが、やがて、おトイレに行きたくなりました。少し考えてみたら、ぼくは今日、一度もおトイレに行っていません。ぶるぶる、と腰が震えて、ぼくはおトイレまで、ととと、っとかけていきました。
「ふう」
なんとか、間に合いました。溜まっていたものが一気に流れて、ぼくは、ほっ、と落ち着きます。その時、ぐう、とお腹が鳴りました。
「……おなか、すいた……」
おしっこもそうでしたが、ぼくは今日、何も食べていないのです。ぼくの小さなお腹の虫が、ぐう、ぐう、と続けて鳴りました。
「なにか、あるかな?」
ぼくはおしっこをすますと、居間に向かうことにしました。なんでもいいから、とにかく何か食べたかったのです。すぐにいこう、とぼくは手を洗い、トイレの扉を閉めます。
とそこで、はてな、とぼくは思いました。
「あれ。きのう、ここでなにか……」
「くす、くす」
ぼくは、はっ、として、玄関の横にある鏡を見ました。するとそこには、やはり、ぼくと同じ顔をしたぼくが、くす、くす、と笑っていました。
「やあ」
鏡の中の僕は、そう言って手を上げました。そして、ぼくは全てを思い出しました。
「きみは、きのうの……」
「くす、くす」
ぼくが確認するまでもなく、鏡の中の僕は、そうだよ、と言わんばかりに、くす、くす、と笑います。
「思い出してくれた?」
鏡の中の僕は、笑顔で聞きました。
「……うん」
ぼくは、頷きます。
「いやー。こっちのお父さんとお母さんは、本当に優しかったね。僕、今日はとっても楽しかったよ」
そして、鏡の中の僕は、面白そうに話しました。
「朝はお母さんが優しく起こしてくれるし、ちゃんと朝ご飯も作ってくれるしね。今までは、朝は買ってきたパン一個とかだったから、僕すごく嬉しかったよ。それにその後、お母さんが遊んでくれたんだ。いつもは、習い事とか、お友達と遊びに行くとか言って、全然構ってくれないのにさ。すごく楽しかったよ。それにねそれにね。お父さんがさ、お仕事してる時に行ってみたら、しょうがない子だな、とか言いながら、頭をなでてくれたんだよ。お父さんの手って、ごつごつしてるけど、あんなにあったかくて、僕思わずおねだりしちゃったんだ。もっとなでてって。そしたらお父さん、またなでてくれたんだよ。もう僕、嬉しくて嬉しくて、思わず泣いちゃった。そしたらさ、お父さんがさ、大丈夫、って優しく抱きしめてくれたんだよ。もう、幸せだったよ。夜ご飯も三人でお食事に行ったし、寝る時も三人一緒に寝るし、君とのお話を忘れてたら、僕絶対起きてこなかったもん。ああ、楽しいなあ」
鏡の中の僕は、興奮しているのか、今日あったことを一気にお喋りしました。話している時も、ずっと笑っています。それはいつもの、くす、くす、と笑う時より、ずっと幸せそうに、ぼくには見えました。
そして、ぼくにはその話が、まるで昨日までの自分のことのように、感じたのです。
「もしかして、きみ……」
「あ、やっと気がついた?」
楽しそうにしていた鏡の中の僕は、気がついたぼくの様子に、口元に手を置いて、くす、くす、と笑いました。
「そうだよ。昨日も言ったじゃないか。僕と替わってくれ、って。君が、いいよ、って言ったから、替わってもらっただけさ」
「どうして……?」
ぼくは、わなわな、と震えています。
「どうしてぼくとかわったりなんかするんだよっ。いやだよ。それはぼくのおとうさんとおかあさんじゃないかっ。かえせっ。ぼくのおとうさんとおかあさんをかえせっ」
ぼくは、鏡の中の僕に向かって、怒ります。どん、どん、と鏡を叩きながら、必死に、怒ります。
「ぼくの、お父さんとお母さん?」
それに対して、鏡の中の僕は、いやに静かに答えました。
「どうして、そんなことが言えるの?」
「えっ……?」
いきなり鏡の中の僕が聞いてきたので、ぼくは思わず、鏡を叩いていた手を止めました。
「そんなこと、って?」
「ぼくのお父さんとお母さん、って」
鏡の中の僕は、もう笑ってはいませんでした。
「だって、……ぼくのおとうさんとおかあさんは、やさしくて、あんなふうにおこったりなんかしなくて、」
「本当に?」
ぼくは、びくっ、と身体を震わせました。鏡の中の僕が、真っすぐぼくを見つめてきます。
「君に優しいのが、本当のお父さんとお母さんなの? どうしてそんなことが言えるの? 本当のお父さんとお母さんは、怒ったりなんかしないって、どうして言えるの?」
「そ、それはっ」
ぼくは声を上げました。
「き、きみだって、きのういってたじゃないかっ。べつべつのものだって。だったら、ぼくのほんとうのおとうさんとおかあさんは、」
「違うよ」
鏡の中の僕は、ぼくの声を遮った。
「確かに、こことそっちは別のもの。僕ときみは、違うぼく同士だ。でも、だからって、優しい方のお父さんとお母さんが、どうして君の本当のお父さんとお母さんだって、言えるんだい? 優しいお父さんとお母さんは、君じゃなくて、僕のお父さんとお母さんかもしれないじゃないか。たまたま入れ替わっちゃって、お互い過ごしていたかもしれないけど、本当は逆だったのかもしれない。こっちの方が、正しいのかもしれない」
「そ、そんなこと……」
「ない、って言えるのかい?」
ぼくは口をつぐみました。
「そうだろ? それにこうも考えられるよ。もしかして君は、たまたま優しいお父さんとお母さんの時ばかり、僕と入れ替わっているのかもしれないって」
「えっ?」
「つまり、こういう事さ。どっちのお父さんとお母さんだって、怒る時もあれば、優しい時もある。人間だからね。機嫌が良い時も、悪い時もあるさ。でも君は、機嫌の悪い時のお父さんとお母さんを僕に押し付けて、優しい時のお父さんとお母さんばかりと過ごしている。どうかな、言い返せるかい?」
「えっと、えっと、……」
ぼくはだんだん、訳が解らなくなってきました。鏡の中の僕は続けます。
「あとは、そうだな。こんなのはどうだい? 本当は、君のお父さんとお母さんも怒ったりしているんだけど、君がそれを忘れているだけ、なんてのは」
「え、……え……」
「君は、本当はもう既に、お母さんに怒鳴られて起こされたり、仕事中のお父さんのところに行って怒られたり、してたんじゃない? でも、いくじなしの君は、都合の悪いことは忘れている。自分がいいと思ったことしか、現実だと思わない。嫌なことは全て、夢だと思っている。いいや、夢だと思いたがる。全部、本当なのにね。違うかい?」
「ぼ、ぼくは、……ぼくは……」
ぼくは、震えていました。
「それともこうかな。本当のお父さんとお母さんは、実は凄く怒ったりする、怖い人達なんだ。でも、君にはそれを隠して、普段は接している。何故かって? 君が子どもだからさ。本音と立て前。さっきまで仲良くしてた人達が、ところ変わった瞬間に互いの悪口を他の人に言う、なんていうのはよくあることさ。君はお父さんとお母さんの、立て前しか知らないんだ」
「ちがうっ」
ぼくは怒鳴りました。
「ちがうちがうちがうっ。そんなことないっ。ぼくのおとうさんとおかあさんは、やさしいんだっ。それがぼくのおとうさんとおかあさんなんだっ。おまえなんかに、おまえなんかにわかるもんかっ」
涙ながらに、ぼくは鏡の中の僕に言いつけます。鏡の中の僕は、ふう、とため息をつきました。
「やれやれ。それはそれで幸せなのかな? 何も知らないことがさ」
「ちがうっ」
ぼくは言います。べそを掻きながら、格好悪くも、必死に、ぼくは言います。
「ほんとうとか、ほかとか、そういうのはわかんないけど。ぼくがしってるのがほんとうなんだっ。こわかったり、いやだったりすることばっかが、ほんとうなもんかっ」
「……へえ」
すると、鏡の中の僕は、にやり、と笑いました。
「じゃあ、見せてよ。君の本当をさ。ぼくはいつでも、鏡の中から君を見ている。ずっと、ずっと、ずぅうっと、ね」
そして、鏡の中の僕は笑いながら、おでこと両手を鏡に当てます。昨日、ぼくと入れ替わった時と、同じ格好です。
「う、うわぁあああっ」
ぼくもそれに合わせようと、勢いよく鏡に向かって、両手とおでこをぶつけました。あたたかい感触が、伝わってきたのもつかの間。ごち、という音がして、ぼくのおでこと両手に、痛みが走りました。
「う……」
ぼくは、目の前が真っ暗になってゆくのを感じました。
「さあて。君の信じる本当は、一体なんなのかな?」
真っ暗になってゆく中、最後に、鏡の中から、そう聞こえた気がしました。
「う、うーん……」
「ぼく、ぼく、大丈夫?」
次にぼくが目を覚ました時、ぼくはいつものベッドに寝ていました。お父さんとお母さんが、心配そうに、ぼくを覗き込んでいます。
「おとう、さん……おかあ、さん……?」
「良かった、目が覚めたのね」
お母さんが、嬉しそうに言いました。その向かい側で、お父さんも、ほっ、と息を吐きます。
「夜中に、ごち、って音がしたから、なんだと思ったら、ぼくが玄関前で倒れていたんだぞ。寝ぼけたままおトイレに行って、そのままおでこをぶつけちゃったんだな」
そういって、お父さんはおでこの辺りをなでてくれます。
「お父さんが、ぼくを運んでくれたのよ。大事がなくて、良かったわ」
お母さんも、一緒になって、ぼくをなでてくれます。ぼくは、思わず、泣き始めました。
「ひっく、ひっく、……おとうさん、おかあさん、……」
「もう、大丈夫だからな」
お父さんが、優しく声をかけてくれます。
「……わがまま、いわないから……じゃまに、ひっく、ならないから……ひっく、……いつまでもやさしい……おとうさんとおかあさんで、いて……」
ぼくの言葉に、お父さんとお母さんは、顔を見合わせました。
「大丈夫。ぼくはいい子だからね」
「そうそう。お父さんもお母さんも、ぼくのことを邪魔なんて言わないわ。だから、もう安心なさい」
二人はそう言うと、もう一度、ぼくのことをなでてくれるのでした。
「さあ。そろそろ朝ご飯の時間よ。みんなで食べましょう」
そして、お母さんが立ちあがりました。
「そうだな。お父さんは、もうお腹がすいちゃったよ。ぼくは、お腹すいたかい?」
お父さんも立ち上がります。その時、ぼくはお腹の虫が、ぐう、ぐう、ぐう、と鳴るのを感じました。
「……お腹、すいた」
「それじゃあ、朝ご飯にしましょう」
お母さんに促されて、ぼくも起きました。ふと見ると、カーテンは開いていて、窓から眩しいばかりの光が、溢れてきています。壁に掛けてあるカレンダーの若葉の絵が、光を受けて、まるで本物であるかのように、輝いています。ぼくはそれを見ながら、部屋を後にしました。
どうやら今日も、いい天気みたいです。
どうも、初めまして。沖田ねてると言います。
この度、初めての作品投稿となります。ちょこちょこと拙い文章を書いている中からこの度投稿させて頂きましたが、楽しんでいただけたでしょうか。
ちなみに、私の友人である、お隣の「朝日 湊」さんの作品『ハイヒール』が同日に公開されております。こちらも是非、読んでみてくださいませ。
以上。こんな私ですが、これから細々と活動させて頂きたいと思いますので、一つ、よろしくお願い致します。