パラダイス
愛 やすらぎ いたわり 平和 希望
どれも祈りみたいでしょう
(THE NOVEMBERS『パラダイス』)
*
視界は靄がかかったように曖昧で、全ての輪郭はぼんやりと輝いていた。白く、淡く。地上では数え切れない子供たちが色鮮やかなパラソルを差して、踊るようにくるくると回っていた。私はそれを四階建ての校舎の屋上から眺めている。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
全てが緩やかに流れてゆく。ついさっきまで校舎のすぐ下で笑い声をあげていた男の子たちの一団は、気がつけば少し遠くへと移動していた。入れ替わるようにしてやってきた女の子たちは、皆黄色のパラソルをくるくるとまわしながら、静かに歩いていく。どうやら彼女たちは地面を這っているかたつむりを追いかけている様であった。
子供たちが歩いていく方向には、高い塔があった。何の飾りもない、くすんだ白色の、円柱形の塔。ビル10階分程の高さはあるだろうか。横幅はそれほど広く無く、まるで煙突の様な形をした塔の中に子供たちは入ってゆく。不規則に並んだ窓の様な穴から見えるのは、螺旋階段。それを子供たちは楽しそうに昇って行くのだった。
私もあそこに行こう。あそこはきっと幸せなところに違いない。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
階段を一段一段降りて、校舎から出る。中庭は、何故か運動会の時に国旗をつるすロープに逆さに吊られた大人たちが洗濯物の様にゆらゆらと揺れていた。皆、目を閉じて風の為すがままであった。
中庭を横切って、緩やかなスロープを下ると、そこには校門がある。腰ぐらいの高さの門は閉ざされていた。それを、小学生くらいの男の子が必死に乗り越えている。私もそれを真似した。腕に力を込めて身体を浮かしてそのまま身体を向こう側へと押し出す。
そのまま歩いていこうと思ったら、先に着地に失敗して地面に尻もちをついていた男の子が私の方を不思議そうに見上げていた。
「おねえちゃん、おっきいね。」
何の陰りもない笑顔を浮かべながらそう言う男の子。私は「十五歳だからね、君よりかは大きいよ。だけど同級生の中では小さい方。」と、しゃがみながら答えた。
「おねえちゃんはなんでここにきたの?」
ここにいるのはみんなぼくとおなじくらいのひとばかりだよ。
確かに屋上から眺めていたときに目に入ったのも、皆小さな子供ばかりだった。なのに私がいるのは、きっと私のこころが成長を妨げられた結果に違いなかった。
「お父さんに花瓶で殴られたの。あと腕を包丁で刺されたわ」
「へー、そうなんだ! ぼくはおかあさんにかべにごっつんされたんだ!」
嬉々としながら、男の子はそう言った。
手を繋いで、ふたりで歩く。男の子は上機嫌にスキップをして、鼻歌を歌っていた。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
男の子が、よろけるようにして誰かにぶつかる。
「あ、ごめんなさい!」
反射的に頭を下げて謝罪する。背が高い所為で少ししか見えなかったその相手が見覚えのある顔だったことに気づいて、私は顔を上げた。
「……お父さん?」
鼻の横にあるほくろ。無造作に少しだけ伸びたあごひげ。
「おお、加奈か。」
酷く久しぶりに会った気がした。きっとお父さんがあまりにも優しい顔をしていたからだろう。険しい顔をしてすぐに暴力を振るう怖い父親でないお父さんに会ったのは、本当に久しぶりだった。
そのお父さんは、不思議そうな顔で私を見ていた。
「なんで右手がないんだ?」
そう言われて右下に視線を移すと、確かにそこにはあるべき腕が無かった。パーカーの袖が風に吹かれてなびく。理由はすぐに分かった。
「この腕、お父さん嫌いだったでしょ?」
母親に似ている。私にはよく分からなかったけれど、私の右腕は小さい頃に何処かに行ってしまったお母さんに似ているらしかった。それが、お父さんは許せなかった様で、いつも煙草を押しつけられた。
「ああ、そうだな。右手が無い方がずっと可愛いよ、加奈。」
にっこり、穏やかにお父さんは微笑む。お父さんに褒められたのが私はとても嬉しかった。
「じゃあお父さんはちょっと逆さに吊られてくるから、怪我しないように気をつけなさい。」
そう言って、お父さんは私たちが今来た方へと歩いて行った。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
「おねえちゃん、はやくいこうよ!」
ずっと黙っていた男の子が、待ちくだびれて、繋いだ私の左腕を揺さぶった。
分かった分かった。そう言って頭を撫でて、私は再び歩き出す。酷く幸せな気分だった。
「これ、どうぞ。」
すれ違った女の子の集団、その中から二人が駆け寄って来てパラソルを差し出した。恥ずかしげに眼を伏せながら差し出されるパラソルを、ありがとうと微笑んで横の男の子が受け取る。淡いピンクのパラソル。
「姉ちゃん、手繋いでたら傘させないでしょ。」
「うん」
「手、あげる。」
そう言って彼は、どこから取り出したのか分からない腕を私の右腕の断面に押しつけた。もう大丈夫かな。そう言いながら彼が手を離す。すると、腕は落ちずに私の身体と同化していた。力を込めると、ちゃんと指まで動く。まるっきり私の腕だった。母親に似ていない、お父さんに嫌われない私の腕。
「ありがとう」
酷く幸せな気分に包まれる。
いつのまにか男の子は消え去っていて、そこにいて私と会話していたのは、私の弟だった。一年前に不幸な事故で死んでしまった弟。靴だけを屋上に残して、地面に落ちてしまった悠太。
「久しぶり、姉ちゃん。」
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
私たちは手を繋いで、空いた手で傘を持って、駆け出した。何人もの小さな子供たちを追い越して、ふたりは走っていた。時折振り回されるようにくるくると回りながら。
「ねえ、悠太」
「何? お姉ちゃん」
「このまま、どこまでも行こう。」
悠太はそれには答えずに、楽しそうに笑いながら走る。私も、幸せに包まれて走る。身体はまるで海の中をたゆたうような心地よい気怠さで満たされていた。
気がつくと私たちは塔の前にいた。十人程の子供が入口に並んでいた。皆、幸せそうな表情で、もう死んでもいい、と言うくらいに安らかな表情で、笑っていた。それは、パラダイスのようであった。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
「姉ちゃん」
悠太が私の目を覗き込みながらそう言った。
「何?」
少しだけ不安になって、繋いだ手に力を込める。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
「ここでバイバイだよ」
悠太は強い口調で言った。私は理解できずに困惑した。悠太は優しい笑顔になって私の頭を撫でた。
「元気でね。」
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
悠太が風に流されるように振り返って、吸い込まれるように塔へと駆け出した。追いかけようとして脚が動かなくて、手を伸ばそうとして力を込めた右腕はまたいつの間にか無くなっていた。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
名前を呼ぼうとして、けれど肺に満たされた気怠い空気は声帯を震わせることが出来ない。或いは声帯など無いのかも知れなかった。
確かなのは、きっと私はこの先に進むことはできないと言うことだけ。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
悠太が白い靄の向こう、塔の中へと消えて行った。視界を覆う白い靄は、更に濃度を増して世界を犯して行く。
サイレンが何処か遠くで鳴っていた。
私は自らの身体を左腕で抱いて目を閉じた。
サイレンが頭の中で鳴っていた。
*
目を覚ますと、そこは病院のベッドだった。
包帯を巻かれた頭と切り落とされた腕がが酷く痛む。
ああ、あちらへはいけなかったなぁ。私は少し残念に思って溜め息をついた。
THE NOVEMBERSと言うバンドの同名の曲から着想を得ました。是非聞いてみてください。