22. SCOUT 2
編入して半月が過ぎた。
けれど、夏期講習を受けていたから、実質的には学校に通い始めて一カ月経った事になる。
通学の満員電車にも慣れたし、毎朝の「朱里様、おはようございます」と同級生・先輩を問わずに掛けられる挨拶にも慣れた。
相手が誰でも、名前を知らなくても「おはようございます」とだけ答える様にしている。
知夏や聡美に『笑顔を安売りするな』と言われているので、笑わずに。
そして、更衣室で着替えてから教室に向かう。
引き戸の扉を開けば、一斉に近い形で「朱里様、おはようございます」と声が掛かる。
「おはよう」と無愛想な程に感情を殺して挨拶をする。
これにもだいぶ慣れて来たな。
自分の席に着いて、一限目の教科書や筆記用具を出していると、曽我部紬と米澤梓が揃ってやって来た。
なんだろ?
「あの、朱里様。朝から申し訳ないのですが・・・」
紬は何だか言い辛そうに言葉を濁している。
「実はその・・・先日、わたくし達、テニス部の副部長が、一度ご挨拶に伺ったと思うのですが・・・覚えていらっしゃいますか?」
梓も紬とご同様だったが、それでも言いたい事は解った。
「ああ、覚えてるよ。始業式の日に、入部の勧誘に来てくれた人でしょう?」
そう言えば、あれから何も言って来ないので忘れてたが、テニス部とバスケット部から勧誘を受けていたんだっけ。
クラスの子達からも、確か合唱部とオーケストラ部だったかな?勧誘されてたよな。
わたしの答えに、紬と梓はホッとした様な顔をした。
もしかして、わたしが覚えてないと思ったのかな?
失礼な!わたしはそんなに物覚えが悪くはないよ!
「それで、ですね。実は朱里様に是非、部活の見学にいらして頂きたいと・・・」
「部長を始め、テニス部員一同、首を長くしてお待ち申し上げているんです」
紬と梓は切実な顔をしてお願いして来る。
ああ、なるほど。
わたしに何かを願い出る事を親衛隊のみんなは酷く気にしている。
こうやって、頼み事をする事は、親衛隊の隊員としては規律に触れそうで嫌なのかな?
それでも、上級生に命じられれば言わない訳にもいかないんだろうな。
でも、川口先生の処へレッスンへ通う事になったから、部活に入っている暇はないんだよな・・・正直なところ。
「ねぇ、クラブ活動って必須なの?」
思わず、そう訊ねると、紬と梓はお互いの顔を見合わせてから、首を振った。
「いいえ」
「別に必須と言う訳ではございませんわ。ご家庭の事情で放課後にお時間がない方もいらっしゃいますから」
でも、形だけでもどこかに所属する事にはなっておりますが。と付け加えられた。
そっか・・・
「別に見学する事は構わないんだけど」
そうしないと紬と梓の面目が立たないかもしれないし。
案の定、二人はわたしがそう言うと『キャ』と小さな悲鳴を上げて手を取り合って喜んでいた。
「でも、テニス部に入る事は無理だと思う。実はわたし、今週からピアノのレッスンに通う事になって・・・」
川口先生が指定して来た曜日は全て平日だった・・・こっちは学生なんだぞ!
先生の仕事次第では、休む事にもなりそうなんだけど、当分は暇だとか言ってたし。
週に二回しか参加できないクラブ活動を探すしかないよな。
「テニス部の活動日っていつ?」
試しに聞いてみると「水曜日と土日を除く毎日です」と言われた。
こりゃダメだ。
それにテニスはあんまり経験がないしな。
「ごめん、無理だ。ピアノのレッスンは月・火・木なんだよ」
本当に、なんだよ!この変則的な曜日は!
ガッカリしている紬と梓に、大変申し訳ない気持ちになる。
「あの、見学するのは構わないから、その時にわたしから部長さんや副部長さんに直接お断りするから。ごめんね」
わたしが謝ると、紬が慌てて手を振った。
「いいえ、朱里様がお気になさる事はございませんわ。大切なピアノのレッスンの為ですもの。先輩方にはわたくしからご事情をご説明してお断りしておきますから」
そうは言っても。
「いや、わたしが直接誘われたんだし、わたしからお断りするのが道理と言うものだろう?」
ね?と笑えば、紬も梓も真っ赤な顔をした。
・・・遣い道、間違ってないよね?
レッスンは今日の放課後からあるし、水曜日はテニス部がお休みだし、今日は月曜日で今週末の金曜日まで保留にしておくのも失礼だと思って、わたしは昼休みにテニス部の副部長にお断りをする事にした。
だって、その人が誘ってくれたんだからね。
それでダメだったら部長さんにも話をしに行く事も仕方がないと思ってた。
最近はピアノの事で頭がいっぱいで、部活についてはすっかり忘れてたな・・・
確か、テニス部副部長さんは二年雪組だと言っていた筈だ。
紬と梓にも確認して、足を運ぶ。
一年生の教室は二階に、二年生は三階にある。
ちなみに三年生は当然四階に教室があり、一階には校長室と職員室と事務室と放送室がある。
そして、音楽室や理科室・PCルームといった専門教室は別棟だ。
三階に足を運ぶのは初めてだった。
学年が一つ違うだけだけど、やっぱりちょっと慣れない。
歩くたびに『朱里様だわ』『二年生の教室にご用なのかしら?』とヒソヒソ囁かれて、眉間に皺が寄ってしまう。
二年月組は、わたし達の教室の真上にあった。
もしかして、来年はわたし達が此処を使うとか?
進級してクラスが替わる事ってあるのかな?
そんな事を考えながら、二年雪組の扉の前に立つ。
昼休みなので出入りする人が多く、開いていた。
「あの、すみません。後藤涼子先輩はいらっしゃいますか?」
先輩の教室には許可なく立ち入ってはいけないのが、暗黙のルールなのだと知夏から聞かされた。
扉の傍で、教室の中に居る先輩に声を掛けて呼んで貰うものなのだそうだ。
わたしは教えられたとおり、窓側の一番後ろの席で本を読んでいた先輩に声を掛けた。
その人は、わたしの声に気付いて顔を上げると、忽ち真っ赤になって「ご、後藤さん、ね・・・後藤さ~ん!朱里様がお呼びよ~!」最初は小さな声でどもっていたのが、いきなり大きな声で叫び出した。
ああ、わたしの顔を知らない人っているのかな?
窓の近くの席で、友人と談笑していたらしい後藤先輩は、その声に気付いて(あれだけ大きな声なら、気づかない人はいないと思うが)扉の傍を見て、わたしに気付き、微笑みかけて来た。
うわっ、好意的な態度を取られると、これから断り辛くなるよな。
わたしは一見、無愛想にも見える無表情で会釈を返した。
先輩には礼を欠かしてはいけないと知夏に教えられたし。
「どうなさったの?嬉しいけれど、驚きましたわ」
わたしの傍に来た、後藤先輩は優しそうな顔でそう言った。
「すみません、突然。先日、お誘い頂いた、テニス部への見学の件なんですが」
薄々はわたしの用件を察してくれていたと思うのだが、それでもわたしからお断りするのだから、と自らが用件を言い出すものだと教わった。
「あら、その為にわざわざ?」
「はい、お返事が遅くなってしまって申し訳ありません。実はわたし、今週からピアノのレッスンが始まるもので、お伺い出来ないと思うんです。それと、入部の件ですが、同様の理由で入るのは難しいと・・・」
後藤先輩の目をきつ過ぎない程度の強さで見て、はっきりとお断りをする。
これも知夏に教えて貰った。
「折角、お誘い頂いたのに、申し訳ありません。部活は週に二回しか参加出来そうもないもので、毎日のように頑張っていらっしゃる他の部員の方にも失礼かと思いまして、今回のお話はお断りさせて頂きたいと思います」
言い終えてから、深く頭を下げた。
この時、声は小さ過ぎず大き過ぎず、周りの人にも聞こえるように(さり気なく主張しておく様に)と知夏に言われた。
そして、卑屈さを感じさせない様に、頭を下げるのは一度だけだと。
さすが、委員長。
伊達に幼稚舎からこの学校に居る訳じゃないな。
周りのギャラリーを気にしてか?
後藤先輩はニッコリと微笑んだ。
「あら、ご丁寧にありがとう。仕方ありませんわね。岡村さんにとっては大切なピアノのレッスンがあるのでは。今回は諦めますわ」
では、ごきげんよう。と言って後藤先輩は背中を向けた。
ひぃぃ、怖かった・・・
『岡村さんにとっては大切な』ってトコは物凄いトゲがあった様な気がした。
わたしに好意を向けてくる人達だけがいる訳じゃないって事は知ってるつもりだった。
知夏にも、目立つと煙たがる人がいるって言われたし。
でも、わたしを『朱里様』じゃなくて『岡村さん』って呼んでくれた事は、なんだか普通の生徒として扱ってくれたようで嬉しかったんだ。
だから、つい叫んでしまった。
「後藤先輩!」
大きな声で叫んだわたしに、さすがに驚いたように後藤先輩が振り替える。
「入部は出来ませんが、先輩に一番最初に誘って頂けてとても嬉しかったです。ありがとうございました!」
別に、わたしはこの時、意識していた訳じゃない。
本当に嬉しかった事に対してお礼を言いたかっただけだ。
だから、もう一度下げた頭を上げた時に自然と笑顔が浮かんだ。
それに気付いたのは、わたしを振り返ってくれた後藤先輩が顔を真っ赤にしたからだ。
言うまでも無く、二年雪組の教室にいた他の人達も顔を赤くしていた。
アレレ?
遣い方・・・間違えた?
こうして、無意識のうちに逆ハーを築いて行く朱里の伝説が始まるのだった・・・
ハーレムはいつになったら築けるのかな?
下地と前振りはそれなりなんだけど。