20. CHOICE
「アメリカでは何を教本に?」
「アルフレッド・ピアノ・コースからエドナ・メイ・バーナム、ジョン・W・シャウムを経て、ツェルニーとソナチネと・・・」
「何年?」
「そろそろ十年になります」
「得意なのは?」
「ショパンのワルツ一番と十五番にベートーヴェンのソナタ二十四番が・・・」
「作曲は?」
「・・・少しだけ」
「では、テレーゼと自作の曲を一曲聞かせて」
グランパが探してくれたピアノ教師は、山田玲子さんと言う音大の教授で(さすが!)グランパよりも少し若いかな?って感じのお婆ちゃん先生。
だけど、顔を合わせた瞬間から、碌な挨拶もしないまま矢継ぎ早に質問されて、ピアノの前に座らされた。
不思議だけど、マシンガントークの様な質問が、わたしを少しだけ緊張から解いてくれたみたいで、深呼吸をしてから鍵盤の上に指を置けた。
指示されたベートーヴェンのピアノソナタ二十四番「テレーゼ」を弾き終えると、先生は目を瞑ったまま、手を振って先を促した。
ううっ、自作の曲って恥ずかしいな・・・と思いつつも弾き始めると、弾き終えた時にこう言われた。
「あなた、クラシックを続ける気があるの?」
あっちゃー!やっぱり言われちゃった!
わたしが作った曲は思いっ切りジャズだもんねぇ。
「正直に申し上げると・・・悩んでます」
ピアノを弾くのは好き。
ずっと続けたい。
でも、クラシックは成功するのが難しいし、お金も時間も掛かる。
かと言って、ジャズやポップスに転向するのは・・・嫌いじゃないけど、今までやって来たクラシックを捨てきれない。
「ロスで師事したのは誰?」
「五歳から八年間はジョージ・ベンソンに、その後の二年間を・・・チャーリー・クリスチャンに教わりました」
ああ、思い出したくない!
チャックは最低な師匠だった!
山田先生は、ピアノの上でトントンと指を叩きながら暫く考え込んでいた。
「あたくしはね、これでも忙しいのよ」
漸く開かれた口からは辛辣なお言葉が・・・そうだと思います。
何しろ、この家に来た時、結構な数の人達が居て、何だかバタバタとしていた。
お忙しい中、こんな素人のピアノをお聞かせしてしまって申し訳ありません。
わたしは居た堪れない気分になった。
「でも、あなたが本気で音大に入りたいと言うなら、時間を作りましょう」
え?
「あたくしはね、常々勿体ないと思っていたのよ。成島の人達は才能がありながらあっさりとそれを捨てて家庭に入ったり家業を継いだりなさるんですもの」
へえ?グランパは自分には才能がないって言ってたけど、違ったのか。
「鈴華さん・・・青華さんのお母様然り、潤さん然り、葵さん然り、揃いも揃って世に出て開花させるべき才をお持ちだったのに」
ええ?グランパだけじゃなくて、伯母さんまで?
曾お婆ちゃんは一時期プロだったと聞いてるから判るけど、伯母さんまで?
「あたくしはね、そんな才能を持ってる人を育てて、世に出す事が夢だったの」
そ、そこでわたしをじっと見詰められても・・・音楽の才は遺伝と言うよりは環境では?
「あなたのピアノは悪くないわ。素直で真っ直ぐな処が良い。もちろん、世に出る為にはもっともっと鍛えなければダメだけど」
わたしはその言葉に、思わずゴクリと息を飲み込んだ。
「ただ、日本の音大に入る為には、その為のテクニックを身に付ける事になるのよ。その事によってあなたの真っ直ぐな音が変わる可能性もある」
そして、山田先生は額に手を当てて溜息を吐いた。
「それに、あなたの作ったあの曲・・・悪くなかったわ。ポピュラーで売り出すのもアリよね」
え?ええ?良かったんですか?アレ?
「あなた、声楽は?」
「えっと・・・発声の基礎ぐらいは・・・」
そう答えると、山田先生はわたしをピアノの前からどかせて、自らがピアノの前に座った。
そして弾き始めたのは、聞き覚えのある曲。
「これ、ご存じ?」
頷くと「じゃあ、歌って」と、最初から弾き直し始めた。
ええい!女は度胸!
山田先生が弾いた曲は、伯母さんが防音室で歌ってくれた曲で、それはママが唯一私に教えてくれた曲だった。
何でも、古い日本のポップスだそうなんだけど、綺麗な曲で、わたしも好きだった。
LAの家では、よく家族の前で弾き語りをしたものだ。
歌い終わると、山田先生はまた溜息を吐いた。
「声も悪くないわ・・・どうしましょう?あたくしには選べない」
えええ~!そんなぁ~!
「あなたは磨けば光る原石なの。遣り方次第で、どうにでもなる可能性を持ってる。だから、最後はあなた自身が選ばなくてはならないわ。音楽で食べていくのか?それもクラシックを選ぶか、ポップスやジャズにするのか?」
わたしが選ぶ?
「音大を受験するなら準備は早い方が良いから、あまり時間は無いけどね。あたくしもツアーがあるから、遅くとも一週間以内にお返事を頂きたいわ」
ツアーって、コンサートツアーですか?
ああ、本当にお忙しいんだ・・・
そんな人がわたしに教えてくれるって言ってる。
どうしよう?
「・・・本日はお忙しい中、お時間を頂き、ありがとうございました」
わたしは深々と頭を下げてお礼を言った。
「いえ、楽しい時間だったわ。良い返事を待ってますよ」
ずっと、しかめっ面だった山田先生は最後にそう言って笑顔を見せてくれた。
それはとても品があって、優しそうな笑顔だった。
その日は祭日だったから、休日出勤の伯父さんを除く家族全員が揃ってわたしの帰りを出迎えてくれた。
「お帰り、どうだった?」
紹介してくれた手前、グランパが一番気にしてくれてたのか?帰るなりそう聞かれた。
「・・・結局、わたしが自分で選ぶしかないみたいですが、音大を受験するなら、教えて頂けると仰って下さいました」
「そう・・・実はね、さっき玲子さんから電話があったんだよ。是非、朱里を彼女の処に通うように説得して欲しいって」
え?山田先生ってば、わたしには自分で選べって言っておきながら?
驚いてるわたしにグランパは優しく微笑んでくれた。
「それだけ朱里の才能を買ってくれてるのは嬉しいけどね。選ぶのはやはり朱里自身だと思うよ。そう彼女にも伝えてある」
ありがと、グランパ。
「朱里はどうしたい?」
わたしは黙って首を振った。
どうしたらいいのか?
プロになる為には、クラシックにしろ、ポップスにしろ、もっともっと腕を磨かなきゃダメだって言われたもん。
わたしだってそう思う。
要は、これからどれだけ頑張れるか?って事だよね?
ハァ~!大きな溜息が出ちゃうよ。
「ねえ、朱里ちゃん。山田先生の処で歌を歌ったり、自分で作曲した曲も弾いたんですって?私達にも聞かせて欲しいわ」
伯母さんが、暗い顔をしているわたしを励ますようにそう言ってくれた。
ええ?恥ずかしいですよぉ。
だって、歌ったのは伯母さんが歌ってくれた歌で・・・伯母さんの歌は、もの凄く上手だったもん。
山田先生が『惜しい』と言うのも判るくらい。
「ね?良いでしょう?」
「そうだよ。玲子にだけ聞かせるなんてケチくさいことしないの!」
ううっ・・・伯母さんだけでなくグランマにまでそう言われて、わたしは渋々と防音室に向かった。
ゾロゾロと家族みんなが付いて来る・・・オイ!蒼司!ナゼお前までが居るんだ?
しかし、蒼だけをハブる訳にも行かず、結局みんなの前でわたしは恥をかきました。
「凄いじゃないか、朱里!あたしの母親より上手いよ!」
グランマ、それは孫バカと言うものでは?
「そうよ!朱里ちゃん!これは絶対プロを目指すべきよ!」
いやいや、伯母さんまで。
「うん、確かにこれでは玲子さんが悩むのも判るね。朱里はクラシックだけじゃなくてシンガーソングライターの素質まであったんだね」
グランパってば!そ、それは過大評価のし過ぎです!
オイ、蒼司!そんな部屋の隅で黙ってないで、この身贔屓が過ぎる人達に何か言ってやってくれよ!
わたしの訴える様な視線に気づいたのか、蒼司は俯いていた顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。
「驚いたよ、朱里。歌まで上手いんだね」
ああ?なんだよ、その感情の籠ってない棒読みのセリフは?
「ああ、亡くなったお母様に聞かせたかったわ、朱里の歌を。そしたら、あの人も自分の才能を引き継ぐ事が出来る曾孫に、どれだけ喜んだ事だろう」
グランマは驚いた事に、そう言って涙まで浮かべていた。
「あたしは音楽の才能には恵まれなかったし、潤には家を継ぐ為に諦めさせちゃったし、葵もプロには見向きもしないで結婚しちゃったし、緋菜もご同様で、あたしは家族の中から音楽を目指す者が出てくるのを待ってたんだよ。朱里、ありがとう」
涙を拭いながらグランマにそう言われて、わたしは戸惑った。
「青華、朱里の未来は朱里自身が決める事ですよ。葵や緋菜がそうであったように。もちろん、私もですが」
グランマの肩を抱きながら、グランパがそう言ってくれた。
わたし自身が・・・自分の未来を・・・決めなくちゃいけないんだよね。
その日一日、わたしは防音室に籠ってピアノを弾き続けた。
そして、わたしが出した結論は・・・
補足:
アルフレッド・ピアノ・コース=Alfred's Piano Course
エドナ・メイ・バーナム=Edna-Mae Burnam
ジョン・W・シャウム=John W Schaum
いずれもアメリカでは一般的なピアノの教本。最近では日本でも取り入れている処があるらしい。
ショパン ワルツ第1番変ホ長調 華麗なる大円舞曲として有名な曲
ショパン ワルツ第15番ホ長調 ショパン19歳の時の作品
ベートーヴェン ピアノソナタ第24番「テレーゼ」
ベートーヴェンが婚約者であるテレーゼ・フォン・フラウンシュヴァイクに献呈した曲で、冒頭のわずか4小節の序奏の美しさが、彼のピアノ作品の中でも比肩することのない情緒を湛えている、そうです。
果てしてピアノを始めて10年でここまで弾けるのかどうか?と言う突っ込みはご容赦を。