19. RESOLUTION
「いや、参ったね。お世辞にも程があるだろ?音大だなんて」
ミニ・コンサートとやらが終わってからも次々と話し掛けて来る観客から逃げるように教室に戻り、聡美と知夏に照れ隠しを含めてそう話すと、二人は意外にも笑わずに真剣な顔をして返してくれた。
「いやいや、案外いけるかもよ?朱里ってば、すっごく上手かったじゃん!目指してみれば?音大!」
「この学校は進学校ですから、技術的に問題がなければ可能でしてよ。実際に過去には音大に進まれた卒業生だっていらっしゃいますのよ」
え?マジで?
「そーそー、意外なんだけど、お嬢様の中にも野心的な人はいてさ、医学部に行ったのまでいるらしいぜぇ」
日本の音大って競争率が激しくて、入るのは向こうよりも難しいだろうって聞いてたのに、この学校からもいるのか?
しかも、医学部って・・・いかにこの学校のレベルが高いのか?
入った後で知らされるってのも変だよな。
「それに、日本でもイーストマンのサマー・セミナーが行われてますのをご存じ?そこで認められれば、留学も可能だそうですわよ」
知夏の言葉にドキッとさせられる。
イーストマン・・・意外な入口があったもんなんだな。
「イーストマンって何?」
聡美は知夏ほど詳しくないようで、そんな事を聞いて来た。
「ニューヨーク州のチェスターにある有名な音楽学校ですわ。朱里様の方がよくご存じでいらっしゃるでしょうけど」
知夏に笑い掛けられて苦笑する。
「へえ、詳しいじゃん、委員長」
そう言えば、どうしてサマー・セミナーの事まで知ってるんだろう?
「わたくしの従妹がピアノを嗜んでおりまして、色々と聞かされておりますの」
ふうん・・・やっぱりピアノはお嬢様の必須アイテムなのかな?
「それに、朱里様はお祖父様がピアニストを目指していらっしゃったから、音大へのコネもお持ちでいらっしゃるのではなくて?」
知夏に言われてビックリした。
「え?」
「ああ、そう言えば・・・成島の会長が昔、そうだったって有名だよね。今でも何かのイベントがあるとよく弾いてるよね、ピアノ」
聡美にまでそう言われて本当に驚いた。
どうしてわたしが知らない事まで知ってるんだ?
「朱里様の曾お祖母様、成島の先代会長の奥様もプロの歌手でいらっしゃいましたから、朱里様には音楽家の血が流れていらっしゃる訳ですわね」
ええ?曾お祖母ちゃんがプロの歌手!!
ママってば一言もそんな事言った事無いよ!
でも、グランパが『目指していた』って言う事は、結局プロのピアニストにはならなかったって事だよね。
どうして諦めたのか?聞いたら拙いかな?
成島の家を継がなくちゃならなかったからかな?
それとも・・・わたしと同じ理由で?
家に帰ると、いつもより遅かった所為か、グランパとグランマがもう帰っていて、出迎えられた。
「お帰り、遅かったね」
グランパにそう言われて、少し気まずくなりながらも「うん、今日は学校で少しピアノを弾いて来たから」と答えた。
「そうか、あの学校のピアノは中々良いものらしいからね」
グランパの言葉にわたしは大きく頷いた。
そう、そうなんだよ!
正直言ってビックリしたんだ。
だって、ベーゼンドルファーが置いてあったんだよ!
私立とはいえ、学校の音楽室に置かれている様なピアノじゃないよね!
そりゃ、この家のピアノも凄いんだけど。
ベヒシュタインだもんねぇ・・・お金持ちってホントに凄い。
LAの家にあるのは中古のヤマハだよ?
アハハ、ステイツで日本の楽器とはこれ如何に?だよね。
正直言って、この家にあるピアノを見て触ってから、辞めるつもりだったピアノを毎日弾いているのは、高価な楽器だから、と言うよりはその魅力に惹かれてって部分が大きい。
それだけ魅力的なピアノなんだもん。
「じゃあ、今日は家では弾かないのかい?」
グランパに聞かれて首を振った。
「ううん、今日も弾いていい?」
「勿論だよ」
グランパは嬉しそうにそう言ってくれた。
防音室にはベヒシュタインのグランドピアノだけでなく、膨大な楽譜も置いてある。
そうだよね、これだけ揃ってるって事は、やっぱり本格的に勉強してた人が居るって事だよね。
ここを初めて見せて貰った時も、グランパがまず弾いてくれたけど、グランマは見てるだけだったし、伯母さんも歌ってくれたけど、ピアノを弾きはしなかった。
夕食の時に来た蒼にもチラッと聞いたけど、音楽関係には疎そうだったもん。
すると、やっぱりグランパだけがずっと弾いてたって事になるんだよね。
ピアノの前に座ったきり、蓋を開けもしないわたしを訝しんだのか?グランパが声を掛けて来た。
「どうしたんだい?」
聞いてもいいのかな?
「あの・・・ね、お祖父ちゃんって・・・その・・・昔、ピアノをやってたんだよね?」
ああ、ダメだ!
はっきりと聞く事が少し怖い。
「ああ、その事か・・・そうだよ。朱里と同じ年の頃までは毎日弾いてたな」
わたしと同じ年の頃まで・・・
「どうして・・・」
辞めちゃったのかな?
はっきりと言えないわたしの言葉を、どう受け取ったのか?
グランパはピアノに近付いて、そっと触れた。
「このピアノはね、お祖母ちゃんの母親が嫁入り道具として持って来た物の内の一つらしいんだよ」
え?それにしては手入れが・・・そんなに古い物の様には見えないけど。
「朱里は知らないかもしれないが、お祖母ちゃんの母親と言う人は、小さい頃からピアノを習っていて、とても上手だったらしいんだが、それよりも歌が上手でね。スカウトされて短い間だけだったけど、レコードまで出した事があったらしいんだよ」
レコードって・・・うわっ、ホントにプロだったんだ、曾お祖母ちゃん。
「それで、お祖母ちゃんが生まれて、お祖母ちゃんの母親は娘にもピアノを習わせようとしたらしいんだけど、生憎とお祖母ちゃんは音痴でね。ピアノも直ぐに飽きてしまったんだ」
ああ、何だか簡単に想像が付きそうな・・・
「それで、ピアノを習い始めた私がこのピアノを遣わせて貰ってたんだけど、残念ながら才能には恵まれなくてね。プロになるのは早々に諦めたんだよ」
・・・やっぱり。
「それに、第一、私にはピアノよりも大切な物があったからね。最初からプロになる気はなかったんだよ」
え?
ピアノよりも大切な物?
「プロのピアニストになるよりも、お祖母ちゃんと一緒になる事の方が大切だったからね。元々、ピアノを弾き始めたのも、お祖母ちゃんに聞かせる為だったし」
あっ、そーゆー事ですか。
あはっ、グランパもママに負けず劣らず、愛に生きた人なんですね。
「周りの人達は、プロになる事に賛成してくれたし、力を貸してくれようともしてくれたけど、そう言う事で私はプロにはならなかったんだ。お祖母ちゃん専用のピアニストで充分満足してたのさ」
ふうん・・・グランパはだから後悔してないって事なのか。
「でも、朱里が本気で勉強したいのなら、私は力になってあげたいと思ってるよ」
それまでピアノに触れながら昔の話をしてくれていたグランパが、急にわたしを見てそう言ったので、わたしはドキッとした。
「もちろん、本格的に学ぶのならば、アメリカやヨーロッパの方が良いとは思うけどね、日本にも良い教師は居るよ。音楽大学を目指すのなら、それに相応しい教師を探そうか?」
前にも聞かれた事を、再度訊ねられた。
「わたし・・・わたしにはそんな力があるって思えません」
グランパの、成島の家の力をもってすれば、知夏が言っていた様にコネで有名な先生を見つけて貰えるかもしれない。
そして、日本の大学にも行けるかもしれない。
でも、実力がないのにそこまでして貰うのは気が引ける。
「誰かにそう言われたのかい?」
ううん、言われた訳じゃない。
わたしは黙って首を振った。
「それなら・・・」
「でも!わたしは!」
「朱里、自分の実力を過信する事は愚かな事だけれど、過小に評価し過ぎるのはもっと愚かだと思わないかい?」
グランパの言葉を遮ろうとしたわたしの言葉を、グランパは静かに諭した。
「一度、日本の教師の方に見て貰うのはどうかな?可能性があるかないかだけでも」
わたしはグランパの提案に頷く事が出来なかった。
それで、最後通告がされてしまうのが怖かったから。
「どうしても嫌なら、私のように楽しむだけのピアノを続ける事だって構わないんだからね」
楽しむだけのピアノ・・・それが音楽としては一番の王道だとも言われている。
プロになると言う事は、お金を稼ぐと言う事。
コンクールに出て、名前を売って、コンサートで人が呼べなければダメ。
そこに辿り着くまでに、わたしは何もかもを犠牲にする事が出来るんだろうか?
それが一番怖い。
でも、覚悟を決めなきゃ、ピアノを諦める踏ん切りをつけなきゃ。
そうしなきゃ、次のステップにも進めないよ?
「・・・お願いします」
わたしはグランパに頭を下げた。
補足:
ベーゼンドルファー=Bosendorfer オーストリアの有名なピアノメーカーで97腱と言う最大音域をもつピアノやリストやショパンが愛用した事でも知られる。お値段は七百万以上。
ベヒシュタイン=Bechstein ドイツの有名なピアノメーカーでピアノのストラディヴァリウスと呼ばれる程の名器。お値段は六百万以上。
以上Wikipedia他より抜粋。