【書籍発売記念SS】離婚して戻ったら実家が国になった話
短編『流れ弾にご注意ください』に加筆した電子書籍版のSSです。読んでいなくても、物語として楽しんでいただけると思います。
アデライン・アウストラリスと、ブラント・ストークスの結婚は、まごうことなき政略であった。
アデラインは、ローレンディア王国の南の辺境伯の長女。
ブラントは、宮廷に優秀な官吏を輩出してきた伯爵家の長男。
二人の婚姻は、南の辺境を王家につなぎとめるための楔であるはずだった。
アウストラリス辺境伯家は、王国の南を支配する武の一族である。周辺諸国を強大な武力で併呑してきた隣国ラグザック゠スペリアル帝国を牽制するには、辺境伯家の忠心が欠かせなかった。
南部の守護者たる辺境伯家と、王家派である伯爵家。その婚姻は、王家にとっても望ましいものだった。
アデライン・アウストラリスがストークス伯爵家に嫁いだ日、誰もが祝福の言葉を口にした。
だが、祝福の笑顔の裏で囁かれる言葉があることを、アデラインは知っていた。
「辺境伯家のお嬢様ですって」
「中央の暮らしに馴染めるのかしら」
「魔物をご自身で狩っていらしたとか」
「まあ! なんて恐ろしい」
悪意を隠そうともしない声に、アデラインは、ただ微笑むだけだった。
この国の中央貴族たちが、辺境を蔑むのはもう習慣のようなものだ。
野蛮。
田舎者。
礼儀知らず。
それが中央での、辺境の評価だった。
辺境がこの国に対し、どれだけの貢献をしているか。
どれだけの犠牲を払っているか。
彼らは少しも知ろうとしない。
現れる魔獣を屠り、隣国からの脅威を食い止めているのは、辺境の者たちだというのに。
「まあ、ストークス小伯爵夫人ですの?」
「ノーサム侯爵夫人。ご無沙汰しております」
王都での夜会。揶揄を含んだ声に、アデラインは慇懃に頭を下げた。
夫であるブラントは隣にいない。
「小伯爵はどちらに?」
「本日は外せぬ用事がございまして、失礼ながら欠席させていただいております」
「まあ、お一人で夜会に?」
夫人が扇の陰で微笑んだ。
「辺境の方は心が強くていらっしゃるのね。わたくしなど、夜会にひとりでなんて恥ずかしくてとても」
周囲の婦人たちが、笑いを隠すように扇で口元を覆った。
悪意がしたたる言葉にも、アデラインは眉ひとつ動かさない。
「ええ。辺境では強くなくては、生きていけませんの。――なにせ魔獣がよく出ますから」
鼻白むように婦人たちが黙り込む。
さっと扇を振ると、ノーサム侯爵夫人が笑みを浮かべた。
「それでは、まともな暮らしなどできないのではないですか?」
「まともな暮らしとはどういったものでしょう? こうして毎夜のように夜会を開き、領民に還元すべき富を費やすことでしょうか」
アデラインの言葉に、場が凍ったように静まりかえった。
アデラインは穏やかに続ける。
「おっしゃるとおり、辺境は厳しいところです。父や弟たちは、夜会を開くこともなく、この瞬間も領民のために働いていると思いますわ。彼らはとても働きものなのです」
アデラインは、笑みを崩さなかった。
「王都で皆様が安心して夜会を楽しむために。遠く離れた場所で剣を取り、戦っている彼らに、感謝をお願いしてもよろしいでしょうか」
微笑んだまま頭を下げたアデラインに、周囲に戸惑うような空気が流れた。
曖昧な笑みを浮かべて、ひとり、ふたりとアデラインから離れていく。
彼女たちは感謝なんかしない。
そんなことは、とうに知っていたけれど。
辺境で血を流す彼らのために笑顔を作り、頭を下げることなど、アデラインにとってはどうということもなかった。
◇◇◇
夫となったブレント・ストークスもまた、辺境を理解しなかった。
長男が生まれ、続いて長女が生まれたあとも。
王都育ちの中央貴族。辺境に足を踏み入れたこともない。
「田舎育ちの女に、社交の何がわかる」
やはり王都で行われた夜会の帰り道、酒に酔ったブレントはそう吐き捨てた。
辺境の話をすれば鼻で笑い、アデラインの弟から届く情勢報告の手紙も、「田舎者の大げさな話だ」と決めつけて、ろくに目を通さず放置された。
「大げさではありません。父や弟は必死に辺境を守っているのです」
「守る? 魔獣を狩っているだけだろう」
ブレントは笑った。
「中央の貴族は政治をしているんだ。辺境のやつらがいくら魔獣を屠ったところで、国を動かせるわけではない」
アデラインは夫を見つめた。
「本当にそう思うのですか?」
「ただの野蛮な田舎者に政治ができるのか?」
「辺境には辺境の政治がありますわ」
隣国との関係悪化のあおりを受けるのは、まず辺境なのだ。
表には出なくても、敵でありながら友好関係を保つという、綱渡りのような駆け引きをつねに行っている。
「ただの田舎の小競り合いだろう? それを国と比べるな!」
「……そうですか」
「なんだ、その顔は」
「いえ」
重ねて問う。
「では、もし明日辺境がなくなっても、中央の方々は困らないと……あなたはそう思うのですね」
「ああ、困らない」
アデラインは、ただ微笑む。
もう失望すらしない。
これ以上、言葉を重ねてもブレントはわかろうとはしないだろう。ただそれだけが理解できた。
アデラインはそれでも妻として努めた。
夫を立て、中央貴族としての作法を覚え、ストークス伯爵家の一員として振る舞った。
この結婚は、彼女自身が選んで決めたもの。アウストラリス家がこの国で生き残る術のひとつとして、結んだ婚姻なのだ。
アウストラリス家を生かすために、アデラインは中央との縁を繋いでいなければならない。
父からは折にふれて手紙が届く。
母を失ってから、さらに寡黙になった父からの手紙には、いつも「元気にしているか」との短い言葉だけ。
それでも、みずから決めて家を出た娘を気にかけているのがわかる、丁寧な文字だった。
「わたくしのことは気になさらなくていいのに、お父様。いつだって家と領地のために身を捧げる覚悟はしておりますわ」
そう言いながらも、文字を指でなぞって嬉しそうに笑うアデラインを、夫は知らない。
辺境に生まれた女性の、人生と命をかけた覚悟を、ブレントはたぶん最後まで知らなかった。
半年前――ついに夫は愛人を囲った。
王都の外れに小さな邸を借り、廷臣である下級貴族の娘を住まわせている。誰もが知っていて、誰も咎めない。中央貴族の間では、それがごく当たり前の振る舞いだったからだ。
アデラインは、それを黙って眺めていた。子どもたちのため、アウストラリス家のため、そして王国の南部の平和のために。
その夜、ブレントが珍しく早く帰宅した。部屋には見知らぬ香水の匂いが漂っていた。
「今日はあの方の邸に泊まらないのですか?」
アデラインが問うと、ブレントは悪びれもせず笑った。
「あちらに子どもができた。彼女の子どもを後継にする。おまえの役目はもう終わりだ」
「後継を彼女の子に……?」
「辺境の野蛮の血など、誉れ高いストークス伯爵家にはいらん」
その一言で、アデラインの中でなにかが決定的に切り替わった。
「そう。ならば、わたくしも子どもたちも、もう必要ないということね」
そう呟くと、アデラインは「離婚届はどちらに?」と首をかしげた。
離婚届に署名すると、泣きも縋りもしない彼女に驚き、鼻白むブレントを部屋に置いて出る。
翌朝には荷物をまとめ、二人の子どもの手を引いて馬車に乗り込んでいた。
途中、神殿に寄って、離婚届を提出する。
「馬鹿なひと。離婚が最後の一押しになるとわからないなんて」
アデラインは小さく呟く。
「お母様?」
まだ幼い長男が可愛らしく首をかしげた。
二歳にも満たない長女は、侍女の膝であやされている。
アデラインは「なんでもないのよ」と微笑むと、窓の外へと目を向けた。窓越しに、故郷になるはずだった王都が遠ざかる。
アデラインはもう見ることもないだろうその景色を、二度と振り返りはしなかった。
◇◇◇
ブレント・ストークスは、アデラインを妻として迎えたとき、決して彼女を嫌ってはいなかった。
中央の淑女とは一線を画す、すらっとした肢体。凛とした表情を浮かべる整った顔。
さらに、南部の大貴族である辺境伯家の長女であるという肩書き。
王家にとって重要な地位を持つ家の娘を妻に迎えたことは、中央貴族であるストークス家にとって大きな箔になるはずだった。
王家からも一目置かれる、国境を守る辺境伯家の血筋。それを妻に迎えたという事実。
国を安定させるために、政略による婚姻を結んだブレントは尊重されるはずだった。
なのに。
田舎者の野蛮な妻を娶った男。
夜会に出れば聞こえてくるのは、そんな言葉ばかり。
「あれが野蛮な辺境の娘を娶ったストークス小伯爵だな。洗練された中央と繋がりを持てぬとは」
「アデライン夫人は美しいが、貴族の女性としての嗜みに欠けるな」
「由緒正しい貴族の血に、蛮族を混ぜるとは」
「これでストークス伯爵家も終わったな」
そこには多分に嫉妬が入り混じっていたが、ブレントは気づかなかった。ただその字面だけを信じた。
そのうち、仕事でも嫌がらせを受けるようになった。大事な稟議書が回ってこない。会議の時間が知らされない。しばしば会議に遅れるようになったブレントに、上司の目も厳しくなる。
中央貴族にとって、辺境とは野蛮で遅れた土地。
魔物や他国と戦ってくれる者たちは必要な存在ではあったが、それはいつの間にか、尊敬されるものではなくなっていた。
汗と泥と血にまみれる卑しい者。
剣を握るしか能のない者。
洗練された政治や社交とは無縁の者。
建前ではどれだけ口当たりの良いことを言おうと、そういう認識が王都には根付いていた。
ストークス伯爵家は、優秀な官吏を宮廷に送りこんでいるとはいえ、領地を持たない法服貴族。
ブレントは、自分が生贄に選ばれたのだと、悟るしかなくなっていた。
「君はもう少し王都の貴族らしく振る舞えないのか」
まるで八つ当たりをするように、ブレントはアデラインにそう言った。
彼女が中央の貴族たちと上手くやってくれれば、ブレントの評価も元に戻ると信じていた。
「どういう意味でしょう?」
「言葉遣いに仕草。その立ち居振る舞いだよ」
ブレントは苛立だしげに続けた。
「君が美しいのは認める。だが、辺境のやり方を持ち込んでもらっては困る」
その言葉に、アデラインは瞬きをした。
「辺境のやり方、ですか?」
「侯爵夫人に言い返したそうじゃないか」
彼にとって、それは助言のつもりだった。
目上の者、夫の言うことには、黙って従う。嫌味を言われても、微笑んで受け流す。それが王都の流儀だったからだ。
「君は黙って聞いていればいいんだ」
「国と領地のために命を懸けるものに感謝を願っただけです」
「それが余計なことだというんだ!」
声を荒げたブレントは、さらに続けた。
「だいたい辺境伯みずから討伐に出るなどと。上に立つ者は、人を使うのが仕事だろう?」
アデラインはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「父はただ一緒に戦っているだけです。失われる命を顧みない者には誰もついていきませんわ」
「それが大袈裟というんだ。部下が死なないように差配すればいい。それが辺境伯閣下の仕事だろう」
ブレントには理解できなかった。
上司とは部下に命令にするものだ。替えのきく部下のために、大事な自分の命を懸けるなど馬鹿馬鹿しい。
「では、誰が実際に剣を握り、魔法を放ち、血を流すのです?」
「君には本当に政治がわからないんだな」
そう断じたブレントに、アデラインはようやくその口を閉じた。
夫に言い返すこと自体が、中央の流儀からは外れる。それを怒鳴りつけないだけ、ブレントは自分は冷静で優しく譲歩していると思っている。
辺境を馬鹿にしたつもりはない。
それでは、辺境の娘を娶った自分すら貶めることになる。
これはあくまで妻になった女性への助言だ。
アデラインは、それでも変わらなかった。違うと思えば、相手にきちんと言い返す。
どれだけ所作が洗練されても、貴族らしい曖昧な笑みを浮かべていても、そこだけは決して譲ろうとしなかった。
長男と長女が生まれて、アデラインと閨を共にすることもなくなった。
そのうち、両親が食あたりで亡くなり、ブレントは伯爵位を継いだ。
引き継ぎが落ち着いた頃、ブレントは愛人を囲った。下級だが、王都育ちの貴族らしい貴族の娘。
中央貴族にとっては、愛人を持つことは、一種のステータスでさえある。それだけの財力を持ち、人物としての魅力があることを証明することだからだ。
「ブレント様」
にこりと愛らしい笑顔で、愛人はただただ優しく微笑む。ブレントの気に触ることを言うこともすることもない。
愛玩動物のように、ふんわりとしている。
やがて、彼女に子どもができた。
これで、ストークス家に蛮族の血が混じることはない。
すべて上手くいく。
仕事も、家庭も、人生も、なにもかも。
上手くいくと、ブレントは信じていたのだ。
◇◇◇
アデラインが辺境伯邸に着いたその日、父ベルナンは娘と孫たちを見て、しばらく言葉を失っていた。家族用の居間で対面したアデラインは旅塵にまみれていても、その表情は明るかった。
「お父様。ただいま戻りました」
「……戻ったのか」
父の低く素っ気ない声に、アデラインは困ったように微笑む。
「戻ってきてよろしかったのでしょう?」
「あたりまえだ」
長年戦場に立ってきた男の、敵を前にしても揺らがなかった声がわずかに震えている。
「まあ、お父様。それなら、お帰りと言ってくださいませ」
「……お帰り、アデライン」
「お義姉様!」
「姉上」
アウストラリス辺境伯家嫡男アレクシスの妻であるヴィオレットが、青い顔で転がるように走ってくる。弟であり、夫であるアレクシスは、その妻を支えるようにして近寄ってきた。
「まあまあ、ヴィオレット。体調がすぐれないのではなくて? 寝ていなくて大丈夫なの?」
「妊娠は病気じゃありません! ちょっと吐き気がきついだけで! 大丈夫だっていうのに、アレクシスが動くのを許してくれなくて」
「動いたとたんに、気持ち悪いと言って座り込む君がそれを言うのか?」
今も「うっ、気持ち悪ッ」と言って口元を押さえるヴィオレットを呆れた目で見下ろし、空いたソファに座らせながら、アレクシスはその背をさすっている。
母が死んで以来、辺境伯家の家政を担っていたアデラインは、ヴィオレットが弟の婚約者になったときから、アウストラリスの家内のことはすべて教え込んである。
だが、悪阻で苦しむ彼女では家内を回すのは無理そうだ。ならば、出戻りの義姉でも手伝えることがあるだろう。
妻を気遣いながら、弟が口を開く。
「姉上。お帰りなさい。ストークス伯爵と離婚したというのは本当ですか」
「本当よ。わたくしも子どもたちも要らないそうよ」
そう言って笑ったアデラインに、アレクシスの表情が苦いものになる。
「そんな顔をしなくていいのよ。生きて帰ってこられただけ充分でしょう?」
アデラインは、迷いなく告げる。
「領と家のために必要な場所へ行くこと。それが貴族に生まれた者の務めよ。わたくしは後悔していないわ。この子たちを得られた」
アデラインの隣に大人しく座って、温かいミルクをもらっている二人に視線を向ける。下の娘には変わらず侍女が付き添い、火傷しないようゆっくりと飲ませてくれている。
視線を戻すと、アデラインは弟を見据えた。
「――アレクシス。この辺境でできることが、まだわたくしにあるかしら?」
「あたりまえです」
父と同じ返答に、アデラインは少しだけ目を細める。
「これからアウストラリスは、大変ですからね。やることはたくさんあります。……戻ってくださって嬉しいですよ」
アレクシスの言葉に、アデラインは「なんでも言ってちょうだい」と微笑った。
父に長く仕え、結婚するまではアデラインとともに家政を担っていた老執事が、開いたままの扉をくぐり急ぎ足でやってくる。
「アデラインお嬢様。お帰りなさいませ」と、慇懃に頭を下げた。
「やあねえ、お嬢様なんて。子どももいるのに」
「離婚されたのでしょう? ならば、お嬢様で間違いないかと」
主家のことなので、アデラインの結婚には当時表情をひとつ変えなかったが、彼は彼なりにこの婚姻に不満を持っていたらしい。
苦笑をもらしたアデラインに、老執事は「王家から手紙が届いております」と封書を差し出した。
「あら? 王家にしては早いわね」
首をかしげながら、アデラインはその場で開く。とたん、その表情が呆れたものに変わった。
「姉上?」と問うたアレクシスに、手紙を差し出す。
それを読んだ弟の顔も渋面に歪む。
「王家はなんと言ってきた」
「王命に逆らうとはなにを考えているのかと。今すぐストークス家に戻って、元夫に頭を下げろですって。……わたくしの婚姻は、いつ王命になったのかしら?」
父の問いに応えを返すと、アレクシスがため息を落とした。
「王命だろうがなんだろうが、もう関係ないですよ」
「あら? やはりそうなるのね」
「はい。アウストラリスは、ローレンディア王国から独立します。いいですね、父上」
「……好きにしろ」
父の言葉に、アレクシスは大きくうなずくと、手紙を破り捨てた。
ローレンディア王家や中央貴族たちが長年、国防を押しつけておきながら、辺境を見下し蔑むのに、彼らはもう飽いていた。アウストラリスは、もうずいぶん前から王家を見限っていたのだ。
それでも、アデラインが中央貴族と縁づいていたから、我慢に我慢を重ねていた。
アデラインが中央に嫁いだのは、中央貴族、ひいては王家との繋がりを断たないためだった。
アデラインとしても、うまく辺境のために立ち回れなかったことは、忸怩たるものがある。だが、ひとりで闘うにも限界があった。
先般、妹が隣国帝国の辺境伯嫡男と縁づいた。帝国皇室の後ろ盾も得られることになったと聞いている。
ならば、負担だけを押しつけ、なにひとつ顧みることをしない国から独立するのは、当然の流れだろう。
ただ、娘とその子らを家の犠牲にすることを、父は良しとしなかった。
アデラインたちが中央にいるまま独立を宣言すれば、彼女たちの命はなかっただろう。
アデラインたちが、辺境に戻ること。
――それが、辺境が独立へと進む最後の一手だったのだ。
「あなたを必要ないと言ったすべてに、必ず思い知らせます」
アレクシスの目の奥に怒りがちらつく。まだ青い顔をしながら、ヴィオレットが不敵な笑みを浮かべる。
アウストラリス辺境伯である父は、黙ってうなずいた。
客間に現れた男に、アデラインは最上級の膝折礼をとった。
「無事に戻られて良かった、ストークス伯爵夫人。いや、もう夫人ではなかったか」
「離婚が成立しましたから。よろしければ、アデラインとお呼びくださいませ」
「では、アデライン嬢と呼ばせていただこう」
その言葉にアデラインは微笑むと、男に席をすすめた。
彼はソファに座ると、片足を組んで頬杖をつく。
「レイノルド・デル・スペリアル殿下。お時間をとっていただき、ありがとうございます」
アデラインも席につき、あらためて頭を下げる。彼は片手を振って、それに応えた。尊大な態度だが、彼にはそれが許されるだけの地位がある。
帝国の第五皇子。外務卿である王弟の懐刀と称される切れ者。今回のアウストラリスの独立も、彼が描いた図の一部だという。
「それで何が聞きたい?」
無駄のない言葉だった。前置きも、装飾もない。感情をうかがわせない目がアデラインを見ている。だから、アデラインも率直に尋ねた。
「殿下ですか? わたくしの元夫に愛人を斡旋したのは」
レイノルドの口角が片方だけ上がる。それを見て、アデラインは理解した。
「愛人の子を後継にするように唆したのも」
すっと細まった彼の目に、アデラインは「やはり」と内心でうなずいた。
元夫は弱いくせに酒が好きだった。酒精のまわった頭に、何度も何度も由緒ある伯爵家に、辺境の蛮族の血を混ぜる気かと吹き込む。まるで洗脳のように。
もしかしたら、少し判断力を鈍らせる薬すら使われていたかもしれない。
父はアデラインの無事が確保されるまで、独立することにうなずかない。
だから、アデラインが離縁をし、辺境に戻ってくるよう仕向けた。
「……彼の両親が亡くなったのは」
「毒キノコが混じるなんて、恐いよねえ」
第五皇子は笑っていない目をして、にこりと微笑んだ。
元夫の両親は、とても絶妙な時期に亡くなった。その理由は食あたりだと思われていた。
元夫のブレントが愛人を囲い、その愛人の子に伯爵位を継がせると言い出しても、反対する両親はすでにない。アデラインが離縁しようとしても、引き止める者はいない。この婚姻が、アウストラリス家と王家との繋がりを保つためのものだったと覚えている者は、伯爵家の中にはもういなかった。
――彼はいつからこの図を描いていたのだろう。
「ミュリエルは元気にしていますか」
アデラインは話題を変えた。
レイノルドは甘くみて良い人間ではない。これ以上の追及は危険だった。下手を打てば、アデラインも消される。死を回避するために、引き際を知っていることが辺境の嗜みだ。
ミュリエルは、アデラインの妹だ。辺境を守るために、隣国のヴィエント辺境伯嫡男エウスタシオと婚約した。あちらの風習に慣れ、人脈を築くために、今は帝国の皇都にある学院に通っているという。
「ああ、ずいぶんと元気なお嬢さんだ。エウスタシオを叱り飛ばしているよ」
「独立にあたって、帝国との条約の予備交渉はヴィエント辺境伯令息が行ったと聞きました」
「なかなか良い仕事だったね。戦さにはヴィエントの精鋭を率いてくるそうだ」
「まあ、頼もしい。ミュリエルは一緒に来るのでしょうか?」
「彼女には内緒だよ」
笑みをこぼし、指を一本立てて唇の前に持っていったレイノルドに、アデラインは「あの子はやさしいですから、戦さは酷でしょうね」と息をついた。
アデラインは妹の婚約者に会ったことがない。だが、この一件だけでも、ヴィエント辺境伯令息がミュリエルを大事にしてくれているとわかって、安心した。
「殿下はどうなさるのです? このまま、こちらに滞在なさるのでしょうか」
「いや、私は帰るよ。条約の締結が終わったら、すぐにね」
ジュディに会いたいから、と付け加えられた言葉に、アデラインは首をかしげた。その名に心当たりがない。
弟のアレクシスからストークス家へ情勢報告の書類は届けられていたが、二人目の子が生まれて以降、あえて個人的なやりとりは控えていた。アウストラリス家の内情を、ストークス家、ひいては王家に知られないように用心するためだ。
「ジュディ様とは、どなたですか?」
「婚約者」
尋ねたアデラインに、一言だけ返る。
彼の目がゆるく弧を描いた。やわらかい笑みがその唇に浮かぶ。
思わず、アデラインは、まじまじと見つめてしまった。今までの冷たい笑みが嘘のようだ。
アデラインの視線に気づいたのか、彼はふいとその表情を消すと、すっと澄ました表情に戻った。
「あとはエウスタシオに任せる」と横を向いた彼に、アデラインは気づかれないよう小さく笑みを落とした。
ラグザック゠スペリアル帝国とアウストラリス家の条約が結ばれた二週間後、辺境に初雪が降った。
その日、辺境伯家の大広間には、領内の主だった麾下の領主や騎士たちが集められた。
父ベルナンは長い言葉を使わなかった。もともと寡黙な人だ。ただ、こう告げた。
「ローレンディア王国から独立する」
どよめきが広間を満たす。だが誰も、反対の声も疑問の声もあげない。
長年の苛立ちと怒り。――中央から搾り取られるだけの税と武力。血を流させておきながら、全く為されない補償。守られる身でありながら、守る者を野蛮だと見下す風潮。
それら積もりに積もった憤懣が、彼らの身をずっと灼いていたのだ。
中央との楔になるはずだった娘が戻ったことで、それが一気に噴き出した。
父の後に、アレクシスが続けた。彼が今後、このアウストラリス家を継いで率いていく。
「我らはこれより辺境国となり、我らの道をゆく」
辺境伯領は、長い間、王国の盾だった。
隣接国からの脅威を武力をもっていなし、魔物が出ればそれを狩った。
国を守るために、最初に血を流すのはいつでも辺境の民だった。
だが、その対価として中央が与えたものは何だったのか。
充分な支援でもなければ、感謝でもなかった。
野蛮だという蔑みの視線。それだけ。
「独立にあたり、ラグザック゠スペリアル帝国と条約を締結した。今後、帝国が我らの後ろ盾になる。だが、彼らの好きにはさせない。独立の承認、相互不可侵、相互防衛・相互扶助、通商・関税の優遇――なにより、内政不干渉を約束させた」
アレクシスの声は大きくもないのに、よく通った。
広間に集まるすべての視線が、アレクシスを見る。
「我らの命は、我らの土地と民のために使う。それらを顧みない者には、もう決して使わせない。血を流すのは、我ら自身のためにだけだ」
その言葉に、広間が一瞬静まりかえる。集まった領主たちが、次々と片手を胸に当てて頭を垂れた。騎士たちは一斉に床に片膝をついた。がちゃりと鎧が鳴る。
「我らは、アウストラリス家と共に」
示し合わせた怒号のように声が響いた。
自分たちの誇りを取り戻すために。
この土地を、本当に守っていくために。
決断が成された瞬間だった。
アデラインは黙ったまま、その光景を見つめていた。
◇◇◇
辺境伯家の独立宣言は、瞬く間に王国中に広がった。もとより王家と中央への不満を抱えていた南部の領主たちが、次々とアウストラリス家の旗の下に集まった。
東の武の要であるタロス家を始めとした、東部の辺境領も軒並み、アウストラリス家の麾下に降った。
王国は騒然となった。
南の辺境が独立を宣言し、東部もそれに追随した。国境の盾である辺境を失えば、王国は他国の侵略から身を守れない。だが、辺境を武力で抑える力は、もはや王家にも中央貴族にもなかった。
見下し続けた相手に、武力を委ねていたツケが回ってきたのだ。
そして王国は、その責任を押し付ける相手を躍起になって探し始めた。
「辺境伯の娘が、実家に戻ったことが独立きっかけだ」
「彼女は、ストークス伯爵家の嫁だったはずだ」
「離縁されたらしい。愛人の子に家を継がせると言ったとか」
噂はすぐに王都と王宮に広まり、やがて一つの結論にたどり着いた。
――ブレント・ストークスこそが、辺境独立の引き金を引いた男だ。
「貴様の余計な真似が、王国を割ったのだぞ!」
王の執務室で、宰相は呼びつけたブレントを怒鳴りつけた。かつて野蛮と見下した辺境に対し、今や王国には成す術がない。その屈辱と焦りが、すべてブレントに向けられた。
「わ、私は、ただ、野蛮な辺境の血を我が家に入れたくなかっただけで……」
愛人を囲ったのは事実だ。だが、中央貴族なら愛人を囲うくらい誰でもしている。愛人の子を後継者に指名するのはやりすぎだったかもしれないが、夜会で、男同士の交友の場で、誰もが辺境伯の娘である妻を見下し、その野蛮な血を家系に入れるなんて、と揶揄していたのだ。
ブレントはその言葉に従っただけ。それだけだというのに。
「お前が引き起こしたのだ。ならば、お前が始末をつけろ」
王が苛立ちとともに言い放つ。
ブレントは、南部鎮圧軍の一隊を任せるという名目で、戦場の最前線へと追いやられた。王家が責任逃れをするための、体のいい生贄にされたのだ。
戦場に立ったブレントは、剣も鎧も似合わない、魔法もろくに使えない、ただの役立たずに過ぎなかった。
戦う相手である辺境の騎士たちは、生まれたときから馬に乗り、命をかけて魔獣と戦ってきた者たちだ。対するブレントの部隊に配属されたのは、見栄えのいい軍服を着せられただけの、実戦経験の乏しい騎士とは名だけの者たちばかりだった。
「て、撤退だ! 撤退しろ!」
初戦からブレントは辺境軍とまともにぶつかり合い、あっけなく陣は崩された。馬上で右往左往し、ブレントの機を失した意味をなさない指示がさらに混乱をもたらす。副官の引き攣った声にうながされ撤退の号令を出す頃には、戦場には王国軍の血と呻きだけが転がっていた。
汗まみれになり、ほうほうの体で本陣に逃げ帰ったブレントを、味方の貴族たちは冷ややかに迎えた。
「これが、独立の引き金を引いた男か」
「戦さひとつ、まともに戦えもしない無能が!」
誰かがそう吐き捨てる。
そういう彼らでさえ、魔獣とすらまともに戦ったことがないのだ。
それでも、託された騎士たちの多くを失ったブレントには、返す言葉がなかった。
役に立つどころか足を引っ張るだけ、と、ブレントは早々に前線から外され、護衛をつけられることもなく王都に帰された。
このとき、アウストラリス辺境伯軍を率いていたのは、辺境伯の次男であるセドリックである。彼は兄であるアレクシス以上に、姉の元夫に対し怒っていた。アデラインは彼ら兄弟にとっては、母代わりとも言える大事な人だった。
セドリックは、ブレントをあえて見逃した。捕虜にも殺しもせず、生かして王都に帰した。それこそが最大の屈辱だと知っていたからだ。
「アウストラリスを野蛮と笑った男が、その野蛮なやつらに負けて逃げ帰った、と王都中で笑い者になりやがれ」
セドリックの言葉通り、ブレントの醜態はすぐに王都中に広まった。
王国はたったの数日で戦線を維持できなくなり、戦場はすでに殲滅戦の様相を呈していた。
ついに王家は決断を下す。
「辺境国の独立を認め、講和を申し入れる。ストークス伯爵家は、このたびの戦争を引き起こし、それを納め切れなかった責任により、家門を取り潰しとする」
その非情な一言を、ブレントは愕然とした面持ちで聞いた。
それが、かつて辺境を見下していた男に、最後に下された結末だった。
◇◇◇
ローレンディア王国との講和条約が成立した日の夕方。
アデラインは、辺境の空を見上げていた。
王都よりもずっと空が広い。
建物に遮られることなく、空は森を越えてどこまでも続いていた。
その空と森に、ゆっくりと黄昏が降りてくる。蒼穹に赤や橙色が混じり始めた。
冬の冷たい風が頬を撫でる。
子どもたちは辺境の広い空の下で、伸び伸びと育っている。
息子はなぜか寡黙な父に懐き、父から剣と魔法を習っている。彼らの間では、身振りでの指示とうなずきだけで、意思疎通が成り立っているのが不思議だ。
娘は、騎士たちに馬に乗せてもらっては、きゃっきゃっと喜んでいる。心配する侍女の顔は真っ青だが、少々の怪我は構わないと伝えてある。失敗しつつ学ぶ。それが辺境流だ。そのうち、娘も魔法を習うと言い出すだろう。
独立戦争は、すぐに終わった。
王国東部の領主たちがこぞって、麾下に降ったことも大きかった。北部と西部の辺境は静観した。四方全ての辺境から見放され、武力を辺境に頼り切ってきた王家と中央貴族たちには、アウストラリス家に対抗する術などなかった。
どうやら北部と西部が静観したことには、帝国と西国の密約があったらしいが、詳しいことはアデラインにはわからない。ただ脳裏に、第五皇子の食えない顔がちらついた。
ローレンディア王国とは、辺境伯領の独立を事実上黙認する形での講和となった。あの国はどうしても辺境を認めたくないらしい。
今となっては、もうどうでもいいことだ。アウストラリス辺境伯家はこれから、新たに「アウストラリス辺境伯国」として、中央の顔色をうかがうことなく、自らの土地を自らの手で治めていく。
元夫のブレントがその後どうなったか、アデラインはあえて詳しく知ろうとはしなかった。風の噂に、彼が爵位を失い、ストークス伯爵家は潰えたと聞いた。愛人については噂すら聞かない。ただ彼女の産んだ子は無事だと、それだけを父が告げた。
アデラインは、ほっと胸を撫でおろす。彼だか彼女だかは、我が子たちの弟か妹にあたる。
子どもたちのことを思うと、少しだけ胸が痛む。まだ幼い彼らから実の父を奪ってしまったことは、アデラインにとっても辛いことだ。
だけど、どれだけ胸を痛めたとしても、幾たび同じ場面に立たされたとしても、きっとアデラインは同じ選択をする。だから、後悔はしない。
夕暮れを眺めながら、アデラインは故郷の冷たい空気を胸の奥まで吸い込んだ。
「かあさま〜」
「母上!」
父に連れられた愛しい子どもたちが、アデラインを呼ぶ。きっと夕飯だと迎えに来たのだろう。
それに手を振って笑い返しながら、アデラインはまだ誰も見たことのない新しい明日へと、しっかりとした足取りで歩き出した。
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