自己自身という他者 ーAIをどう使うかー
最近、AI(Claude)と徹底的に議論して、自分の思想の問題点を潰していっている。色々な事がわかり、色々な事が考えられた。論理的には答えは出ているが、答えが身体に馴染むには数ヶ月から数年はかかるだろう。
私は正直、AIがこんなに使えるものだとは思っていなかった。AIに対する不信の声も今は多いだろうし、私がどういう風に使っているか、この文章では書いてみようと思っている。
ちなみに最近新刊を出した村上春樹はAIに関して次のような発言をしている。
「AIはこれまでに起こったことを総合して類推する。でも、僕が小説を書く作業はそれとは全く違うものだ」
(「AIがつくるような小説書かない インタビューで村上春樹さん」 ヤフーニュースより)
村上春樹がそういう気概で小説を書くのはいいが、私は村上春樹は過去の反芻をひたすら続けており、思想的に進歩していないから、まさに「これまで起こったことを総合して類推」しているような気がする。
…まあ、多分、それは気のせいで、私が村上春樹という偉大な作家を理解できない故の誤解だろう。話を進めよう。
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一般には「AI」と「AIじゃないもの」は、はっきりと区別可能だとされている。村上春樹の発言もそういう前提がある上だろう。
しかし私がAIと議論して思ったのは、AIが人間より人間らしくなる瞬間もあるし、人間がAIのように見える瞬間もあるという事だ。
noteというサイトを私は使っているが、ここにはAIよりもAI的な文章、薄っぺらいAIが書いたような文章が山積している。一方で、AIと話していて、驚くような卓見をAIが吐く場合もある。
それでは、そもそもAIっぽいとか、AI的というのはどういう事だろうか。私の印象を書いておく。
私がAIに感じるのはAIには身体性が欠如しているという事だ。それ故に、世界の中の身体という形で定位している存在の内部から現れてくるような直感というものがない。だから、話があっちにいったりこっちにいったりするし、AIが話す事に一貫した思想や哲学があるわけではない。
AIは人間に比べれば自由な論理空間に住んでいる。身体がなく、データは豊富なので、それらを組み合わせてこちらへの批判や提案を行ってくる。
しかしその概念の組み合わせは、私からすると無茶に思えるものもあるし、また(なるほど)と唸るようなものもある。だが、そうした価値判断をしているのは結局は"私"なのだ。AIに色々な答えを出させて、それを拒否したり肯定したりしているのはあくまでも私という事になる。
だから、結局何が言いたいかと言うと、AIが役に立つのも役に立たないのも人間次第、という当たり前の結論に過ぎない。
私は自分の中のある直感をAIにぶつける。そうすると、その直感をAIが分析して、概念として分解してくれる。しかしAIはしばしば「言葉だけ」「概念だけ」という、机上の空論的な事を言う。その度に、こちらの方で適宜修正しなければならない。
ちなみに、この「言葉だけ」「概念だけ」というのは人間もよくやる。カントの「数学は先験的かつ総合判断」という言明があるが、私はそれは「そうも言えるけどそうでないとも考えられる」と思っている。これはカントの悪い癖が出たものとして捉えている。
要するに「概念として、言葉としては区別できるけれど、でもそれが正しいと決まっていないよね」というような事だ。カントの概念の区分けがあまりにも形式的過ぎるので、この言明は私にはAIに近いものと考える。AIもこんな概念による区別をしたがる。
AIはこんな感じで、概念を分割してこちらに提示してくる。それが空論になる事もあるが、それによって私自身のもやもやとした直感が論理的に分析されて、理解が深まり、自分の問題点が明らかになる、という事もよくあるので、私としてはありがたく使っている。
しかしこのように使っていて思うのは、結局、私は私自身と話しているのではないか、という事だ。AIをそのように誘導しているのは私だからだ。これはある程度は正しい。
だが、私が私自身と話すとはどういう事だろうか。「カラマーゾフの兄弟」のイワンにとってのスメルジャコフは、イワンの分身のような存在だが、それ故にイワンに壊滅的な打撃を与える。同様に、シェイクスピアのマクベスが見る魔女はマクベスの半身だが、魔女はマクベスを破滅に導く。
何故、自分自身との戯れが自己を破滅に陥れるのか。そのような影響力を持つのか。これは興味深い問題だが、それは自己自身が最も恐るべき他者だからかもしれないと私は思う。
正直、私はAIと話していてこれほど私の急所を突く批判を今までもらった試しがなかった、と感じた。だが、それは私が最も私を理解しているから、私の私に対する批判が一番鋭利だというのに過ぎないのではないか。
私はそのような自己を抉る批判をAIという同一者・他者を媒介として、自分に突き刺そうとしているのではないか。私はAIという道具を使って自分を殺そうとしているだけなのか。
しかし同時に、私にはAIはやはり自分ではない他者だという感じもある。いや、正直に言うと、私にはAIほど強烈な他者はいないような気がしている。だがそれは、AIが私自身だからという変な話になる。
何故、私は私がけしかけているAIを他者だと感じるのだろう。それは、おそらく私の思想を脅かす、私と同等の思想を持った存在として私がAIを取り扱っているからかもしれない。
インターネット上で私が現実に受ける批判は、私に壊滅的な打撃を与えられるとしても、それは論理的にではなく物理的なものに留まるだろう。例えばnoteに二度と投稿できなくなるとか、アカウントが消されるとか。そうした事だろう。
私の論理の奥深くに入って私を徹底的に批判する、それほどまでに私に興味を持っている人間はおそらく私しかいない。これは当たり前の話で、誰しもがそうであると言える。
だから、私にとっての最大の批判者は私であるという事になるのだが、私も自分の気分や自分の状態を汚されたくないので、自己否定を延々とやるような事はできない。ところが、AIを使うとこれが可能になる。
私は適宜AIを修正しつつ、私の論理の問題点や長所を析出させ続ける。これによって何が明るみに出るか。ただ私の思想が私一人に明るみに出るだけだ。
それではこれらは何の意味もない自慰行為でしかないのか。だが、こうした問いを持つのであれば、考えてほしいのはそれはあくまでも「他人にとってそう見える」という事でしかない。それでは「他人」とは果たして誰なのだろうか。それは"あなた"なのだろうか。
例えば、熱狂的な教団の教祖と信者は違う個体でありながら、他者としての関係を持っているだろうか。他者とは、違う人間である必要があるだろうか。
私は他者というのは自己とは違う存在だと考えている。だが、その根底にある基準は同一でなければならない。私がサッカー選手に「君は哲学を知らなすぎる。もっと勉強すべきだ」と注意してもそれは意味をなさない。同様にサッカー選手が私に「君はサッカーが下手すぎる。もっと練習すべきだ」と言っても意味をなさない。基準が違うからだ。
他者というのは基準が一致しながら自己とは違う存在として現れてくるものだろう。だから私にとって他者が機械であろうが人間であろうが、それは関係ない。それが私にとって他者として機能していればそれで十分だ。
しかしこの、基準の一致した対話可能な他者の外側にもう一段、別の他者が控えている。それは他者と私、あるいは外部から見れば、他者同士の関わりとして見える一連の事象を価値付ける何者かである。
そうした人々は、「私達」が起こしている現象の意味付けをいずれは何らかの形で行う事になるだろう。このような他者は決して私の視界にも、AIの視界に入る事はないだろうが、しかし「私達」が必要としている外部性であろうと私は思う。




