深海のはつこい
こんばんは。初投稿です!伊ノ原と申します。
どうか、優しい目で見守ってください。
※軽度の死ネタ、暗い描写があります。
「河邑さんの髪って、くらげみたいだね」
きみがそう言ってふふ、と笑った。色素の抜けた長い髪が波に漂うみたいにゆらり、と揺れる。
その笑顔はまるで出来たばかりのちいさな泡がふるえているみたいだった。そのとき、ぼくは確信した。ああ、この子から、離れられない。
***
あの日から、きみのことが知りたくてたまらなくなった。ぼくはただひとりで浮かんで、きみのいない深海をぐるっと見渡してはため息をつく。息を吐いたら海水がなだれ込んできて口の中の隙間を埋めていく。おおきな水の泡がごぼごぼ溢れる。苦しい。苦しい。でも呼吸はやめなかった。きみを追うのをやめられなかった。見えもしない水面にむかって手を伸ばすのをやめられなかった。きみはぼくに振り向いてくれないとわかっている。わかっているんだから、捨てずに大事に取っておいたちいさな希望をあてにすることくらい許してほしい。どうか───。
───そういうわけで、ぼくは今、きみの深海に『溺れている』。⋯⋯どういうわけで、なんて自分でもよくわからない。ただひとつはっきりしていることは、これがきみに向かった、何らかのこじれた感情であるということだけだ。憎しみとは違う。喜びとも違う。いまこうして感じているのは、少しばかりのあたたかさと、寒さと、息苦しさである。
「おはよー!また難しそうな本読んでるな」
「おはよ。好きなシリーズの新刊だよ」
「それはよかった」
ぼくの唯一の友達であり、やたら毎日話しかけてくる山本が、癖っ毛のポニーテールを揺らして去っていった。山本はいいやつだ。それに、山本と話しているときは心なしか息がしやすい。
はたから見れば、ぼくは澄ました顔で分厚い本を読む、ただの近寄りがたいやつに見えているようだった。たった一人の友達が以前そういっていたのだから間違いないと思う。こんなにぼくの肺には酸素がないような気がするのに? こんなに、ぼくには自分がへたに泳ぐちっぽけな魚にしか見えないのに?
きみが窓の外を眺めてぼうっとしているとき。きみが授業中にうとうとしているとき。きみがわからない問題を睨んでむむっと考え込んでいるとき。きみがあのときぼくにしてくれたみたいに、他の人に笑いかけているとき。すべての瞬間がこの深海の水を震わせて、そのたびにぼくは手足をじだばたさせてもがく。はやく楽になりたくてしかたがないのに、この苦しさだけがぼくを生かしているような気がして、心地よかった。
なにもできないまま数週間が経った。夏が始まってとっくに海開きもあったというのに、ぼくは未だに例の深海で泳ぐのが上手くなれない。嫌になってため息をついたら、また海水がなだれ込んできた。あ、溺れる。たぶん一生この現象には慣れないと思う。
明日から夏休みだ。予定など何もないのでどうでもいいけれど。楽しみなことといえば、本を読んで暇を潰せることくらいだ。気がかりなことといえば、しばらくきみが視界からいなくなることくらいだ。
内容もよく理解できないまま小説の文字を追っていると、とんとんっ、と軽やかに肩を叩かれた。
「くらげさん」
「⋯⋯はい!?」
きみだった。ぼくの座っている図書室の椅子の横に立っていた。あのときの笑顔だ!
くらげさん、だって。ぼくはきみにとってくらげなのだ。きみにつられて口角が勝手に上がる。深海がぼくを押し出してどこかに飛ばしそうなくらい強くうねる。ひどい水圧に目が回る。
きみがそっと息を吸い込んで、口をひらいた。
「八月三十一日の夜、海でまってるね」
「えっ?」
しん、と深海が静かになった。
思わず顔を上げる。水族館の大水槽みたいに鮮やかなきみの瞳に、ぼくのまぬけな困り顔がうつっていた。
「海、に、きてってこと、ですか?」
「うん。さいごの日だから」
きみはにっこりする。たしかに、八月三十一日は夏休みの最終日だ。
海でなにをするのかなんてわからないが、ぼくは単純なので、きみとの約束に舞い上がった。その証拠に、深海の水がゆりかごみたいにゆらゆら揺れている。
「⋯⋯いきます」
「よかった。ありがとう」
じゃ、と手を振ってきみは図書室から出ていった。髪がふわふわとなびく。ぼくの広がったボブカットをくらげみたいだなんて言うけれど、きみの髪は海面に反射して輝く月の光より、何倍もきれいだった。
「⋯⋯⋯⋯あ」
時間を訊き忘れたことに気がついたが、きみはもういなかった。
***
八月三十日。
夏休みはたいへん味気なかった。毎日、本を読んで宿題をしてごはんを食べて寝て、の繰り返しだった。山本が入部している吹奏楽部は大会に向けて毎日練習があったようで、せめてなにか部活をしていればもう少し充実していたのかもしれないと、ほんのすこしだけ後悔した。
深海は、ゆらゆらゆらゆら、テンポ52ぐらいでずーっと揺れていた。なんだかきみが呼吸してるみたいだなあ、と思った。ぼくも、なんとなく息がしやすい。
明日は、きみに会える。
***
八月三十一日。
朝六時、起床。目覚まし時計なしですっきり起きられたのは人生で初めてだった。早起きした意味は特にない。昨日からまるで遊園地を楽しみにする子供みたいにそわそわしていたから、すぐに目が覚めてしまったのだ。
きみの言う『夜』がいつなのかわからなかったから、日中はずっと落ち着かずに部屋をぐるぐる歩き回っていた。十七時ごろにはっと我に返り、そうだ、準備をしなきゃと立ち上がった。
鼻歌混じりにクローゼットを開いたが、さっと顔が青ざめた。きみに見せられるまともな私服など持っていない。部屋着で出かけるわけにもいかないし──結局、いつものセーラー服に袖を通した。
海ってことは、泳ぐのだろうか? ということは水着を持っていくべきだろうか? でもきみが水泳の授業を受けているのを見たことがなかった。きみはいつも独りでプールサイドのベンチに座り、退屈そうに足をぶらぶらさせているだけだった。
とりあえず、学校指定の水着をかばんにつっこんで部屋を飛び出す。
足音をたてないように廊下を進んだが、家には誰もいないみたいだった。助かった。ペンで書きなぐった置き手紙をのこして、靴をほこりを払ってから丁寧に履いて、玄関のドアをぐいっと押して、
「詩乃、どこへ行くの?」
「⋯⋯っ、あ、」
ドアの先にいた人影に、名前を呼ばれた。
母だ。
体が強張って、顔が上げられなくなる。
「どこへ行くのって、訊いているでしょう」
「⋯⋯海。友達と、約束してて」
「友達?⋯⋯どうせまた想像上の、でしょう?」
鼻で笑ったその声は、冷たい。真冬の山奥にひとりぼっちで放り出された気分だった。
母は淡々と続ける。
「仮に本当だとしても非常識な子ね、こんな時間から呼び出すなんて。あなた、からかわれているのよ」
ぼくは唇を、噛む。
「あなたみたいな子に近づくなんて、まともじゃないわ」
「──あの子のこと悪く言わないで!」
母を押しのけてぼくは走り出した。母がなにか言っているけれど、耳をふさいで拒否する。ぼくのことなんてどう言われてもいい。ただきみを否定する言葉だけは、許せなかった。
母に反抗するのはやっぱり怖かったようで、足が震えてうまく動かなかった。
深海は、凍っていた。
***
海岸が見えてきたころにはすっかり日が暮れて、もちろんビーチに遊びに来ている観光客なんていなかった。たくさん走ったから肺が痛い。汗が背中を伝って、喉からひゅーひゅーとへんな音がする。
きみは、どこ?
「くらげさーんっ!」
「⋯⋯あっ!」
きみはごつごつした岩場に立って、おーいとおおきく手を振っていた。真っ白なワンピースを着ていて、ああ、世界で一番ワンピースが似合う女の子だな、と思った。
ぼくも同じように岩の上にぴょんぴょん跳び乗って、駆け寄る。
「⋯⋯凪、さん」
「うれしい、きてくれて」
「あの、ごめんなさい、遅くなって⋯⋯」
「ううん、だいじょうぶだよ」
一生分の勇気を出して、凪さんって、きみの名前を呼んでみた。でもきみは相変わらずにこにこしていた。果たして呼んでよかったのかどうか、わからなかった。
「あの、きょうはなんで…⋯誘って?くれた、んですか」
「さいごの日だから」
「?」
「くらげさんにね、会いたかったの」
「⋯⋯⋯⋯へっ」
ざばん!と音を立てて、氷に覆われていた深海がとつぜん荒れ始めた。ひどい目眩がした。同時に心臓がどくどく動いて、海の底に飲み込まれてしまいそうなのを必死でこらえた。
「そ、それって、どういう」
ぼくはきみの言うことがわからなくて、尋ねることしかできない。
きみはえへへ、と言ったけれども、きょうのきみの笑顔はいつもとちょっとだけ違った。いつもの、優しいのにぴかぴか輝いてる笑顔とは違う。きみはただ、静かに揺れる海面を見つめて、ふにゃりと困ったように笑っていた。
まだ蒸し暑い夜なのに、つめたい風がふたりのあいだをひゅうっと抜けていく。
心がざわざわした。なにかこの先よくないことが起こるみたいな。そんなはず、ないのに。
「もう夏がおわるでしょ?だからわたしも、もうおわりなの」
「⋯⋯え」
きみが、もうおわり?
ゆっくり時間をかけて、言葉をのみこんだ。でも、意味はわからなかった。──そして、ある予感にたどりつく。
「⋯⋯な、凪さん。まさか、と、飛び込んで死ぬつもりなんじゃ⋯」
「そんなこと、ないよぉ」
きみはまた困ったように笑った。口では否定しているけれど、その目はどこか遠くをみていて本心はわからない。
ぼくたちの周りの音が、ぎゅっと固まってどこかに落ちてしまった。同時にぼくの頭の中も真っ白でからっぽになる。
「⋯⋯だめ!自分から死んじゃうなんてぜったいだめ!⋯やめて、凪さん⋯⋯」
「ほんとに、ちがうってば」
思わずきみの細い腕をつかむ。冷や汗をぼたぼた落としながら懇願するぼくとは裏腹に、きみは笑うだけ。
じゃあ、その寂しそうな顔はどうして?
「わたし、もういかなきゃ。さよなら、くらげさん」
きみは青い靴をおもむろに脱いで、海に捨てた。それで、靴が沈んでどこかへいってしまうのをぼんやり見届けていた。
もうきみは笑っていなかった。
「待って、凪さん⋯⋯!」
どれだけ呼んでも声は届かない。きみは何かに引き寄せられるみたいに、ばらばらに並んだ岩の先頭まで歩いていく。
深海はふるふる小刻みに震えている。ぼくとおんなじ。海水も怖がるんだねって深海に話しかけてみるけれど、返事はなかった。
裸足になってワンピースだけを纏ったきみは皮肉にも綺麗だった。背中で揺れるうねった髪。透き通るような肌。
──いや、ほんとうに、きみは透けていた。
きみが脚を動かすたびに、向こう側にある波が見え隠れしている。そして、きみの脚、それから腕は、うっすらと発光していた。
まるで街灯と月と星の光があつまって、その身体を囲んでいるみたいだった。ぼくはつい見惚れてしまう。⋯⋯きみが今にも消えてしまいそうだというのに。
きみは岩に座り込んで、爪先を水面につけて────ぱしゃん。
「凪さん!」
きみはいなくなった。ぴょんと、いとも簡単に飛び込んでしまったのだ。
反射的にぼくは手を伸ばして、きみを追いかけた。水面にはもう人の気配がない。でも、きみが、死んじゃう⋯⋯!
必死に岩の上を飛び移って走る。ごつごつした岩場は走りにくくて、何回も足がもつれる。それでもなんとか走った。凪さん。凪さん。
いかないで!
「────わあっ!」
つぎの岩へ跳ぼうと地面を蹴った拍子に、岩場から足を滑らせてしまった。視界がぐらりと傾く。目をぎゅっと瞑る。身体がこわばる。
ばしゃん!
水が弾ける音がして、全身が一気に冷たくなった。しゅうしゅう泡の音がして、やっと自分が海に落ちたのだとわかった。
目をうすくあけて、息を無理やり止めながらきみの気配をさがす。でもきみはどこにもいない。海の中は寒くて、酸素がなくて、だんだん視界がぼやけてくる。この感覚は、よく似ていた。ぼくが何度も溺れた、あの深海に。
いよいよ息が苦しくなってきて、ぼくは泣きたくなった。うまく泳げないし自分の体は沈んでくばかりだから息継ぎもできないし、きみの姿もぜんぜん見つけられない。なんにもできない自分が嫌だった。きみはどこまでいったんだろう。もしかしたら、遠い遠い海の底に行ってしまったのかもしれない。まっくらな深海でひとりぼっちのきみを想像して心臓がぎゅうっと痛くなる。
きみを失うのが、怖くなる。
なぎさん。
薄れゆく意識とともに、目を閉じた。
***
──Here is love vast as the ocean──
遠くから、子どもたちの歌声がきこえる。
──Loving-kindness as the flood──
息ができる。あたたかい。しあわせ!
もしかして、ここは、天国?
おそるおそる、目を開けてみる。
そこはまだ海だった。それも、もう水面が見えないほど深い海。けれども海の中は陽だまりのように明るくて、丸い光の粒がいくつも見える。
さわやかな歌声は海中に反響しながら、止むことなく続く。たしかこの曲、讃美歌だ。──曲名は、『海のような愛』。
ぼくはその心地よさに、しばらくぼんやりと浮かんでいた。
「くらげさん」
だれ?
「ここまでついてきてくれたんだね」
なつかしい声。ゆっくり振り返ると、ぼくが大好きな、あの笑顔のきみがいた。
「凪さんっ!怪我は⋯⋯」
「へいきだよ」
それでもきみの脚や腕はやはり透明で、そして柔らかくてちいさな光の粒に包まれながら、ふわふわ浮かんでいる。
「凪さん、ここは、どこなんですか⋯⋯?」
ずっと疑問に思っていたことを、尋ねてみる。
きみは両手を胸にあてて、そっと口をひらいた。
「ここはね、わたしのふるさとなの」
「ふるさと⋯?」
きょろきょろと辺りを見てみるけれど、いくつもの光の粒のほかには何も見つからない。
きみが人さし指をたてると、光の粒は集まってきて指の周りをくるくる回った。まるできみを歓迎しているみたいだった。よく見ると、それはみんな、ちいさなくらげだった。傘を一生懸命うごかして、ふわふわと泳いでいる。
「⋯⋯くらげ、だ」
「うん、みんな、わたしのなかまだよ」
きみはくらげのいっぴきいっぴきを大切に導き、仲間が集まっているところへ行かせてやった。ぼくの不安げにゆれる目と、きみの星屑をあつめたみたいな目が合う。そして聖母のような笑顔で、きみはいった。
「わたしね、人間じゃないんだよ。くらげなの」
「⋯⋯」
「くらげは死ぬとき、海に溶けて消えちゃうんだよ」
「⋯⋯」
「くらげの寿命は一年。夏にうまれたら、秋にはおとなになって、必死に冬を越して、あったかい春がきて、つぎの夏のころには、泡になって溶けちゃうの」
「⋯⋯⋯⋯」
ぼくは俯いてなにもいえなかった。
きみがこれからどうなるのか、ぜんぶわかってしまったから。
「ねえ、くらげさん。わたしのこと、さいごまで見届けてくれるよね?」
ぼくの顔をのぞきこんで言うきみの表情は苦しいぐらいやさしくて、ぼくまでくらげの仲間になった気分だった。
それでもきみの瞳には静かな覚悟が見えて、ぼくは怯む。
その身体は、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく透けているけれど。
ぼくは、うなずくしかなかった。
「ありがとうねぇ」
きみは照れたように笑いながら、ゆっくりゆっくり、まるで空に還るように、上へと泳いでいった。
光の粒がどんどん増えて、讃美歌が少しずつおおきくなる。歌っていたのはくらげたちだったのだ。歌声が海中に響いて、水がヴェールみたいにゆらゆら、波打つ。
──No love is higher No love is wider──
「くらげさん、わたしねぇ」
──No love is deeper No love is truer──
「あなたに会うために、うまれてきたのかも」
きみの瞳から大粒の涙がこぼれた。涙はまるい泡となって、ぽこぽこ昇っていく。きみの言葉を大げさだなんて、まったく思わなかった。だって、きみはうまれてたった一年で、死⋯⋯
「凪さん、なぎさん⋯!まって⋯⋯!」
まだ、伝えていないことがあった。きみへの気持ち。そして、やっとわかったあの深海の正体。
「凪さん、ぼく、初恋でした!」
ぼくはきみをまっすぐ見つめて言った。きみは瞳をすこし見開いたあと、やわらかくほほえんだ。
「しってる」
泣きながら笑うきみ。この世界のきれいなものを全部集めたみたい。愛しい手が、ぼくの手をそっとにぎった。
「だからあなたのこと、よんだんだよ。河邑詩乃さん」
きみがぼくの名前をよぶ。なんとなく、きみに名前を呼ばれるのはこれが最後なんだろうな、と思った。
きみは花嫁のように幸せそうに、きらきら光っている。この時間が永遠に続けばいいのに。けれどそんなことが叶うはずもなく、きみは無慈悲にも、透明になっていく。
「こんどこそ、さよならだね」
きみの出す光がだんだん強くなる。そしてその光はやがて幾つもの泡になって、しゅわしゅわ海に溶けていく。きみが泡になりはじめているんだ。讃美歌がわっと大きくなった。反響で頭が割れそうだった。
「凪さんっ」
「⋯⋯⋯⋯」
きみは笑う。
きみの口が動いたけれど、もう、声はきこえなかった。
きみは、消えた。
それは呆気なかった。まばたきをしたほんの一瞬の間で、きみはいなくなった。きみがいたところには、まん丸の泡がひとつだけ。
「なぎさん」
讃美歌も止んで、くらげたちもどこかへ隠れて、水の中は静寂に包まれる。ぼくの心臓と息の音だけが、ただ静かに、響いていた。
***
「⋯⋯」
ざざーん、ざざーん。
波の音で、ぼくは目を覚ました。
ぼくは砂浜にひとり横たわっていた。変に星が綺麗な夜だ。星空をみていると、さっきのはぜんぶ悪い夢だったんじゃないか、本当はきみは消えてなんかいないんじゃないか、という気持ちになる。
でも海をなんとなく眺めていると、きみの青い靴が波の上で漂っていて、ぼくは、ああ、と思った。
ふと時計をみると、海に着いたときからたった二分しか経っていなかった。まるできみを見送ったあの時間がなかったことにされたみたいだった。
もう、ぼくは苦しくない。
いつのまにか、深海は、消えていた。
***
「突然の連絡ですが、凪 海月さんは、家の都合で転校しました」
夏休みが明けたばかりのホームルームで、クラスがざわついた。
かわいい凪さんのことが大好きだった女子たちは、驚いて固まったり、泣いたりしている。
ぼくはみんなの様子を眺めて、ひとり、冷めていた。凪さんは、転校なんかしていない。凪さんは、泡になって消えちゃったんだよ。今すぐにみんなに知らせたくなって手を挙げかけたけれど、やめた。どうせ、ぼくの言うことなんてだれも信じない。
「だいじょーぶ?」
「え?」
「今日、ずっとぼーっとしてるじゃん」
顔を上げると、山本が心配そうにぼくをみていた。
「あ、うん、大丈夫」
「もしかして、海月ちゃんのこと?⋯⋯詩乃、仲良かったっけ?」
「⋯⋯うん」
嘘だ。ぼくはきみと仲良くなんてなかった。きみにとってぼくは、友だちでもなんでもなく、くらげなんだから。
あの出来事のあと、ぼくは、とぼとぼ歩いて帰った。なぜか制服も髪も濡れていなくて、家に帰ったのもすぐだったから、母はこちらを横目で見ただけでなにも言わなかった。
レトルトカレーを食べながらきみのことを考える。ぼくの初恋は、終わった。泡みたいに。初恋は叶わないなんてどこかの本に書いてあったけれど、ほんとうだったみたいだ。
つぎの日曜日。ぶあついクラゲ図鑑を両腕でかかえて、ぼくは再びあの海へ行った。夜明けみたいな微笑みが、波のように揺れる髪が、深い深い海を宿した瞳が、どうしても忘れられなくて。
溶けたくらげは海に還って、プランクトンの栄養になるらしい。
砂浜に、ちいさなちいさなくらげが、いっぴき打ち上げられていた。きっと、あの泡───凪さんが消えちゃったところにあった泡、からうまれた命だ。こいつももうすこし大きくなったら、凪さんみたいに、だれかに秘密を教えるんだろう。
秋風が、相変わらずくらげみたいなぼくの髪をゆらす。
ぼくはもう溺れないけれど、深海でりっぱに育ったはつこいは、まだ心のなかでぷかぷか浮かんでいる。
だからぼくの将来の夢は、くらげだ。
《おわり》
引用 海のような愛(Here is Love)
作曲 Robert Lowry
作詞 William Rees
初めまして。読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。
この小説は、「クラゲは死ぬと溶ける」という情報を聞いて、衝動的に書き上げたお話です。
読者のみなさまの心に、少しでもなにか残るものがあればうれしいなと思います。
親バカですが、凪さんが大好きです。笑
改めまして。最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




