それにさわるもの 1
世界はシャボン玉で出来ている。
ビルも信号も街灯も舗装された道路も何もかも――当たり前の存在であり、当然のように振る舞っている。空を泳ぐ物、陸を走る物、人も動物も植物も例に漏れない。有機物だからではない。無機物だからでもない。世界のひとつひとつがシャボン玉であり、またその全てがシャボン玉なのだと思い知らされる。
そう思うのは何故か――"そう見える"としか言い表せない。空中に浮遊していたり、地面や建物に固着していたり、時には周囲を被ったり、物そのものだったり……微生物から永い時を経て生物へ進化したように、目に映る存在は実は、シャボン玉由来なのではないかと考えてしまう程――それは、どこにでもあるし、どこまでも溢れ返っている。
大小様々なシャボン玉が陽の光に照らされ、世界に色彩を与え影を生む。人工物では決して届かない表情を見せる超自然的なシャボン玉。そんな存在に対して、月並みの言葉しか浮かんでこないことに、忸怩たる思いで腹が膨れてしまいそうになる。「プライドがあっても飯は食えない」と先人から伝え聞いているが、恥じ入る気持ちなら空腹を満たせるのかもしれないと、実に愚かなことを考えてしまうばかりだ。
超自然的なシャボン玉――神秘を帯び泡沫の夢と錯覚すらさせるもの。超常現象では生温い存在感を放つもの。人間の処理能力では測れない情報量をもつもの。どこにでもあるしどこにもないもの。そこにあってそこにはないもの。見えていても見えないもの。触れているようで触れないもの。ありのままでありあるがままのもの。
――世界はシャボン玉で出来ている。
「呆けていないで、行きますよ」
意識の扉を勢い良く叩かれる音が鳴る。入室確認では決してない、居座っている俺をすぐにでも外に出そうという強い意思を感じさせる。
「ホラホラッ!ボサッとしてたら遅れますよ!」
体をユサユサと左右に揺さぶられる。一度受け止めた音波が外耳道を行き来しているようだ。天岩戸でももう少し知恵を絞っていたのではないだろうか。
「そんなに揺らさなくても聞こえているさ」
瞼を開き外界情報を取得する。チカチカと複数の光に先導されるように、位置情報や時刻に至るまで、ゆっくりと意識とリンクしていくのが分かる。精神世界に揺蕩う俺の邪魔をしたであろう犯人の呆れた表情を除いて。
「サッサと行きましょうよ!遅刻して怒られるのはオレなんですからね!」
「委細承知しましたよ」
皮肉混じりの言葉が功を奏したのか、体を揺らす為に置かれていた両手を離すことには成功した。未だに怪訝そうな顔でこちらを覗いていることを除けば。
「じゃあ……行きますか」
「はい!車はもう事務所の前に付けているんで!」
「準備が良いな、流石だよ」
「それ程でもないですよ」
表情もようやく明るさを取り戻したようで何より。
ヨイショと掛け声を出し体に活を入れる。その勢いで椅子から立ち上がり、玄関の方へと歩き出す。開かれた扉から差し込む陽の光が線となり心臓を狙う――誰にでも平等に、全方位へと目を光らせている。貫かれて既に逆光に染められた相棒は、いつものように足取り軽く車へ向かっている。足音からルンルンと音符が飛び跳ねているようだ……ピクニックへ出掛ける小学生でもあるまいし。
「あまり力み過ぎるなよ、アキ」
「分かってますよ、ソラさん!」
俺たちは互いの足並みを揃える――任務前のお決まりであり、始まりの儀式。わざわざ言わなくても理解していることでもあるのだが、その多くは「分かっていたはずなのに……」と、後悔への振りにもなり得る。どれだけ経験を重ねても、どれ程の時を積んでも疎かにしてはいけないことだってあると思う。初志貫徹までの決意は無いが、初発心ぐらいは片隅に置いておくことも悪くはない。
相棒であるアキと共に、車に乗り込み目的地へと向かう。
「今回の場所は?」
「道が混んでなければ30分程度で着きますよ」
車を走らせて数分、俺の質問に地図アプリをチラチラと覗きながらアキが答える。
「他に分かっていることは?」
「どこにでもある住宅街の一画に建てられた民家のようです」
「民家……敷地一帯か?」
「いや、庭先に気配を感じたそうです。ただ"規模拡大"がどうやら早いようで」
「そうか……」
場所と規模――重要なファクターであり、それ次第で難易度が段違いに変わってくる。
「それにしても玉仕の皆さんも大変ですよね……担当地域を監視して、発見次第にオレたちに依頼するって、なかなかの範囲ですからね」
「そうだな。だからこそ依頼を請けたら、精一杯頑張るのが俺たちの役目さ」
「そうですね!」
助手席に座る俺に見えるように、大袈裟にガッツポーズをするアキだが、片手を離したせいでハンドル操作が所々覚束なくなっている。到着する前に事故ったら本末転倒だぞ、前を見ろ、前を。
「そろそろ運転ぐらい慣れたらどうだ?」
「何故でしょう……未だに身体にフィットしないんですよ。もしかして、オレって向いてないんですかね?」
行動を共にするようになってから約2年――ほぼ毎回と言って良い程に車での移動が伴う。アキにハンドルをその都度握らせている。だが、なかなかどうして……運動神経は良いはずなんだが、ままならないものだ。
「早急にフィットさせてくれ」
「あっ、ソラさんは『さっきゅう』って読むんですね!」
「……どういうことだ?」
「本来の読みは『さっきゅう』で合ってるんですけど、現在では『そうきゅう』読みが慣用的に認められつつあるんですよ!」
「まぁ、読めなくはないが……」
「元々の意味や読み方より、『聞こえが良い』や『字面的に合ってそう』という、感覚的な認識の方が取っ付きやすいですからね」
「そういうこともある、か……」
「言語なんてそんなものですよ」
時代変化で失われるものがあるように、新たに生み出され発展を遂げることも自然の摂理ではある。文化や習慣、言語……それに概念までも。
「それについては反論の余地もないが、アキの運転技術の向上を有耶無耶にするつもりはないぞ?」
「華麗な話題逸らしを披露したと思ったのですが……もちろん分かってますよ!あっ、たまにはソラさんが運転してくれても良いんですよ?」
俺を試すようにニヤニヤと笑みを向ける。だから前を見ろ、前を。
「俺が運転……その選択肢はない」
「何故です?」
「怖いから」
「なら、助手席で黙ってて下さい。チャチャ入れ禁止!」
「善処するさ」
バイクの割り込みや自転車の巻き込み、前後からの煽り運転など……注意しなければならないことも多いし、車移動は危険に溢れている。そんなリスクはとても容認出来ない。
車内から見る景色は、湿度の低いカラっとした表情のまま――雪こそないが冬晴れの代名詞というような天候だ。彩雲煌めく空の下、澄んだ空気に背中を押されている気分に浸る……大いなる存在に招かれているかのように。
――ただ、それが単なる思い込みであり、気分を紛らわせる自己暗示でしかないことも知っている。
歓迎なんて以ての外――受容も迎合もありはしない。甘受なんて生優しいこともない。拒絶や峻拒すら持ち合わせてはいないだろう。誰の為でも何の為でもない、もちろん待ち伏せの意図もない。ただ、当然のように存在するのみ。
自然の理にも当然反していない。偶然の産物ではなく必然の賜物。人間が呼吸するのと同じ、食事するのと同じ、睡眠するのと同じ、本能として子孫を残すのと同じ――DNAで定義された行動指針と何も変わらない。
絶対的で普遍的な存在であり、神秘的で超常的な概念――"それ"は、ただそこにあるのみ。
「着きましたよ」
到着を告げる声に、意識の扉を再度叩かれる。
「あぁ、分かった」
目的地付近のパーキングに停車後、アキは黒のキャップを深々と被り、トランクから作業道具の入ったバッグを手に取る。そのまま二人は揃って"それ"に近付いていく。
「……」
「……」
会話は無い――言葉にしなくても、お互いに理解している。
「……ふぅ、ここか」
「……そうみたいですね」
目的地である民家のエントランス前に立ち、一呼吸を入れる――もう、すぐそばに。
先程まで漂っていた気持ちの良い風は鳴りを潜めている。閑散とした住宅街の一画に重苦しい静寂が包む。
「よし、行こうか」
「はい!」
"境界"に、お還りいただこうか。
――世界は"境界(シャボン玉)"で溢れている。
次話は3/28 18:00投稿予定です。




