混乱
体調を維持し、無事に迎えた放課後。
教室の窓から見えたのは、あの時の女の人。
歩いて行く先には保健室がある。
目的地は他の場所なのだろうけど、彼女を保月先生が見つけたら、きっと声をかけるだろう。
私には向けない笑顔で。
「お。慶子さん、温室に行くのかな。」
声と同時。身近に居た大内先生に気付いて驚く。
気配が全く感じられなかった。それほど私は無心で彼女を見ていたのかな。
「大内先生、あの女性を知っているんですか?」
私の質問に、大内先生は何かを考えてから無言の笑み。
知りたい理由が保月先生に関係するのだと、先生には読まれたような気がする。
だとすると。慶子さんと保月先生は知り合いで、大内先生の知る仲。
どれ程の付き合いなのかは分からないけれど。
この答えは得られないような気がして、視線を机に置いた自分の荷物に向けた。
「ふふ。聞いていながら、冷たい反応をするのは大人びたようで、とても可愛いな。知りたいよね、本当は。」
大内先生は私の手を引き、距離を縮めて見下ろす。
意地悪な眼。普段とは違う先生の雰囲気。
分からない。私には大人の考えることが理解できない。
「前に、あの方と保月先生が話しているのを見ました。私には見せない保月先生の笑顔に嫉妬が芽生えたんです。大内先生、正直に答えました。教えて頂けますか?」
私は先生を見上げて、見つめたまま繋がれた手を振り払う。
「そうだね、君は俺にキスできる?情報料だよ。」
担任の先生が、生徒の私に情報料だと言ってキスを求める。
その理由は何だろうか。
「出来ません。あなたは私の信頼を裏切って、はぐらかした。」
遠回しに、私を試すような真似をして。大人って狡い。
睨んだ私に苦笑を見せて、窓の外に視線を移動させる。
「ごめん。彼女は大学での先輩だよ。俺と柚瑠……保月先生は同期だ。」
憂いある表情の横顔を見ていると、私の中に不安が生じる。
きっと大内先生は、あの女性が好きなんだ。そして保月先生と仲が良いことに嫉妬している。
私が感じたように……長い付き合いだからこそ、それ以上に不安なんだ。
「先生……」
話しかけたけれど言葉が続かない。
沈黙を破る様に、机に置いた携帯が着信を知らせた。
先生は私に視線を向けて苦笑。
待っていたお母さんからの連絡に、助けられたような気がする。
「私、母が迎えに来たので帰ります。先生、さようなら。」
「うん、気を付けて。さようなら。」
背を向け、逃げたのは私。
聞きたいけれど怖くて勇気が出ない。傷つきたくない。
保月先生に知られると終わってしまう私の恋は脆いから。
それからの私は、臆病にも保健室には近づかなくなった。
何を察したのか、大内先生は担任として気遣う程度で私に深くは尋ねない。
心は寂しさを増やしていくのに、体は弱さとは逆に安定を見せる。
病院での治療が効いているのか、薬が自分に合っているのかな。
本来なら喜ぶべきなのに、自分の気持ちが理解できずに戸惑う。
偶然は残酷にも、私に現実を見せつける。
あの女性と保月先生が廊下で談笑。
生徒が通り過ぎながら挨拶し、振り返って噂話。
先生たちがお似合いだと、聞こえる言葉に胸が痛んだ。
私には見せない笑顔。内容は分からないけれど、優しい声がする。
自分が弱った時に聞いたのと同じ。私の通常時では聞く事の出来ない声と笑顔を。
その場を離れ、淡い恋心を捨てようと決意した。
保月先生にとって、私は憎しみの対象でしかない。
かかわらずにいれば、あの人と穏やかに過ごせるのだから。
「岩端。保健室に行って、今までの記録を確認してくれるか?」
私が出した書類との照らし合わせに必要なのだと言うけれど。
「大丈夫、あいつは不在だから。」
……嘘つき。
そっと入った保健室。
物陰に潜んでいた保月先生に捕まったけれど、どこが不在なの?
怒りの見える表情。そんなの見たくなかったのに。
「先生は私が嫌い?」
掴んだ手を振りほどこうと抵抗するけど、びくともしない。
「今更だろ。」
苛立ちを伝える言葉。
腹が立っているのは私だって同じ。
「それなら何故、私に触れようとするの?」
保健室の小さな空間。
養護教諭という立場で生徒の私に特別な感情を示す。
それは愛情ではなく敵意。
私を通して見ている人に対する感情。
「嫌がらせだよ。アイツが大事にしている君を穢せば、どう思うのか考えただけで興奮する。君は俺を恨め。そして、こんな俺の身近に居ると知りながら何もしなかったアイツも憎めばいい。」




