人生のリズム
山野剛は、窓の外をぼんやり見つめていた。
もう何度目の失業だろう。手元に残ったのは、錆びついた小銭入れとスマートフォン。離婚した妻とはもう何ヶ月も連絡を取っていない。
かつては安定した電機メーカーの課長職。部下を束ね、会議室で指示を飛ばしていた自分が、今はこうして狭いアパートの一室で無為に時を過ごす日々を送っている。
ため息とともにベッドに沈み込む。
「このままじゃ、ダメだ……」
でも、何をどうすればいいのかわからない。
ある夕方、バイトの面接に落ちた帰り道、剛はふとした気まぐれで、町の小さな公民館のドアを押した。
そこで聞こえてきたのは、奇妙な掛け声だった。
「ズン! ズン! ズン! ズン!……ドコーーーー!!」
中から聞こえてくる音は、まるで祭りの太鼓のようにリズムを刻み、時折みんなで声を合わせて叫ぶ。
覗くと、数人の男女が汗をかきながら体を動かしていた。リーダーらしい老婆は金色のハチマキを締め、声を張り上げている。
「人生に迷ったか!なら、ズンドコしなさい!」
その言葉に、不思議な引力を感じた剛は、思わずドアを開けて足を踏み入れていた。
「ようこそ!さあ、タオル持ってズンドコ体操よ!」
老婆はそう笑って手を差し伸べた。
「私はドコ田きよの。ズンドコ教の会長だよ。馬鹿らしいと思うだろうけど、馬鹿になることが本当の勇気なんだ」
剛は半信半疑だった。ズンドコ教とは、まさに「ズン、ズン、ズン、ズン、ドコ!」という掛け声に合わせて太鼓を叩き、体を動かすだけの宗教。教典は『ズンの書』、内容は擬音語だらけ。
信者は約50人。多くは半分ジョークで付き合っていると言われている。
だが、剛は体操をやってみると、いつのまにか自分の心が少しだけ軽くなるのを感じていた。
誰も咎めず、誰も見下さず、ただ「ズンドコ」を繰り返すだけの空間。笑い声がこぼれ、汗とともに重たい気持ちが流れ出ていくようだった。
─
ズンドコ教の中に、未来という少女がいた。
17歳で不登校。学校にも家庭にも居場所を失っている。彼女はいつも無表情で、体操の後はイヤホンを耳に突っ込み、ひとり静かにしていた。
ある日、剛は未来に話しかけた。
「学校、行かないのか?」
未来は小さくうなずいた。
「行っても意味がない。ここだけ、まともに息ができる場所だから」
剛はその言葉に、自分の昔を思い出していた。かつての職場での孤立、妻とのすれ違い。
二人はゆっくりと心の距離を縮めていく。
未来は言った。
「ズンドコはバカみたいだけど、ここにいると自分を認められる気がする」
剛もまた、初めて「自分」を受け入れられた気がした。
ある朝、ズンドコ教の公民館にいつもよりも静かな空気が漂った。
ドコ田会長が倒れ、病院に緊急搬送されたのだ。
剛はその知らせを聞き、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気がした。
教団の「心臓」が止まったのだ。
ミチオは必死に信者たちをまとめようとしたが、彼のギャグは空回りし、信者たちは徐々に離れていった。
未来も来なくなった。
剛は一人、ズンドコ体操もできず、ただ虚ろに過ごした。
「ドコがいなければ、ズンドコは続けられないのか…」
そんな疑問が胸をよぎった。
─
数日が経った。
剛は公民館の明かりが消えたままのドアの前に立っていた。
中には誰もいない。ズンドコ教は、まるで凍りついたかのように静まり返っていた。
剛の胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような虚無感が広がった。
「ドコ田会長がいなければ、ズンドコは終わりなのか?」
そんな思いが日増しに強くなる。
未来の家を訪ねてみたが、彼女は玄関のドアを開けることもなく、カーテンの隙間から剛をちらりと見ただけだった。
「行かない。行けない」そんな言葉を思い浮かべるような彼女の目が、どこか怯えている。
剛は決心した。未来に、そしてズンドコ教にもう一度「ドコ」を取り戻させたいと。
ある夜、公園のベンチに座り、剛は独り言をつぶやきながら体操を始めた。
「ズン……ズン……ズン……ズン……」
身体はぎこちなく、声も震えていた。
しかし、最後の瞬間に力を振り絞り、空に向かって叫んだ。
「ドコォォォーーーーッ!!」
その声は風に乗り、公園の隅にいた一人の少女の耳に届いた。
未来だった。
彼女は一歩、二歩と剛に近づき、ついには隣に立ち、ぎこちなくも同じ動きを始めた。
「こんなにバカみたいなこと、もうやめようと思ってた。でも……」
未来は小さな声でつぶやく。
「ズンドコが、あの日の私を助けてくれたから。だから、また……」
剛はその言葉を聞いて涙があふれそうになった。
次第に、公園にミチオやほかのかつての信者たちが集まり始めた。
彼らは誰もが不安を抱えていたが、ズンドコのリズムに合わせて心を少しずつ解きほぐしていった。
「ズン……ズン……ズン……ズン……ドコ!!」
声は大きくなり、輪は広がっていった。
それは失われかけたリズムの再生だった。
─
数週間後、退院したドコ田会長が公民館に戻ると、そこには以前よりも活気あるズンドコ教があった。
未来は笑顔で跳ね、剛はすっかり自信を取り戻していた。
彼は近くの工場に就職が決まった。
会長は剛に言った。
「ズンドコはただの掛け声じゃない。生き直す合図なんだよ」
剛は微笑みながら答えた。
「これからも続けます。ズンドコは、心の筋トレですから」
ズン、ズン、ズン、ズン、ドコ。
笑いながら涙をこぼし、人生のリズムを取り戻した人々の物語は、ここからまた続いていく。