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或る逆賊の最期-明治維新の罪-

作者: T.ezu

 慶應4年(1868年)閏4月6日――

文明開化に湧く日本国の片隅で、或る逆賊がひっそりと死を待っていた。

 その男とは小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)、旧幕府の重鎮にして最後まで徹底抗戦を唱えた筋金入りの逆賊である。

 しかしその一方で将軍・徳川慶喜が降伏を宣言すると不気味なほど大人しくなり、江戸を引き払って知行地である上州(現群馬県)権田村に隠遁した。

 されどその逆心は未だ盛んにして衰えず、この地に要害を建設し、帝に弓引かんと計略を巡らせていた。

 すなわち小栗とは天地の間に存在を許されぬ大罪人であるのだ。


 ふう、と息をついて豊永貫一郎は筆を置いた。

 軍監(ぐんげん)(指揮官)として小栗追討の任を受け、見事それを達成した彼は、後の世に己が功績を知らしめるべく記録を残していたのである。

 いよいよ明日は小栗処刑の日、18歳の豊永は青い正義感に燃えていた。

 旧幕府の過激派・小栗とは帝に仇なす逆賊であるのみならず、新政府が成さんとしている維新を阻む老害でもある。それを誅殺することは新時代の武士としてなんとしても果たすべき責務であると豊永は考えていた。

 それだけではない。旧幕府きっての逆賊・小栗の処刑を完遂したとあれば、彼自身そして彼が仕える土佐藩の新政府内における発言権は一層強くなるであろう。

 この妄想は豊永の脳裏に輝かしき青写真として刻まれていた。

「豊永様」

 そんな妄想を中断するかのように下人が戸を叩いた。何事かと報告を促すと、下人は戸を開けて言った。

「小栗の牢より不審な声が聞こえると」

「只今参る」

「原様にもお声掛けしたのですがご不在のようで……」

 その言葉に豊永は思わず眉をひそめる。

 原保太郎、豊永同様此度の小栗追討の軍監に命じられた男である。

 しかし、豊永は彼を同志ではなく競争相手のように捉えていた。

 豊永は土佐、原は長州の人間である。どちらが小栗の首級を上げるか、両藩の代理戦争に等しい、と豊永は考えていたのである。

 幸い豊永が処刑を実行することで話は落ち着いたものの、実際に首を落とすまではどうなるかわからない。加えて、どうも下の者たちは生真面目な豊永よりも飄々とした原を慕っているようで面白くなかった。

 そんな焦りを抱えつつ、豊永は小栗の牢へと向かうのであった。


 小栗が囚われていたのは征討軍屯所の一室である。

 豊永がその付近に足を運ぶと、確かに何事かを話しているのが聞こえる。夕闇の中に響く声はいささか気味が悪かった。

「何をしている!」

 豊永は勇ましく吼えた。だが、彼が目にしたのは小栗が牢番を相手に熱弁を振るう姿であった。それはさながら寺子屋の一室の如き様相を呈していた。

「一体、何を、している?」

 豊永は先程とは打って変わって尻すぼみに言った。

 慌てて居住まいを正す牢番とは対照的に、小栗はゆるりと腕を組んで豊永を見据えた。

「我が国の明日について、ちょっとばかし講釈をさ」

 それは過激派と称される男としては、そして明日死を迎えるはずの逆賊としては不自然なほどに穏やかな居住まいであった。どうにも気に食わず、豊永は威圧するように鼻を鳴らした。

「講釈など不要だ。既に我が国は夜明けを迎えたのだからな」 

「夜明けとは終わりではない!日本国の明日は始まったばかりである!」

 一転して猛禽のような鋭さを纏った小栗の眼差しに、豊永はたじろいだ。それでも、帝に仕える官軍としての自負が豊永に反論の言葉を紡がせた。

「時代遅れの幕臣に日本国の明日などわかるものか」

 すると、小栗はフッと微笑んだ。

「わかるさ。俺が描いた明日だからな」

小栗は立ち上がり、豊永に向かって一歩進む。格子の向こうにいる無刀の男に対し、豊永は何故か「斬られる」と感じ、思わず軍刀の柄を握った。

「逆賊の貴様が?法螺を吹くなっ!」

 そう豊永が尋ねると、小栗は懐に手を入れた。何ぞ武器でも出てくるかと警戒する豊永であったが、小栗の掌に置かれていたのは螺旋を描く小さな鉄塊、すなわち

「ネジ、か?」

「いや」

 小栗は首を振り、それを豊永に差し出した。

「明日さ」

 豊永がそれを受け取ったのを見て、小栗は語り始めた。


 小栗が初めてそれと出会ったのは今からおよそ8年前、安政7年(1860年)のことであった。この時小栗は33歳である。

 横浜に黒船が来航し、日本がアメリカへの門戸を開いてより久しいこの時期に、小栗は遣米使節の一員として当国を訪れていた。

 日本の木造建築よりも遥かに頑強な煉瓦造りの家々、未だ封建制が色濃く残る日本とは異なる自由の気風……アメリカでの出会いは驚きの連続であった。

 しかし、中でもとりわけ小栗を惹きつけたのはワシントン海軍造船所であった。

 小栗は震えた。西洋世界発展の象徴である蒸気機関を動力とする工場は、まるで未だ来たらぬ世から現れた存在に見えた。

 しかし一方でただ圧倒されるばかりでもなかった――欧米列強と渡り合うためにはかくの如き工場を日本にも作らねばならぬ、同じ人間の業なればやってやれぬことはあるまい、と考えたのである。

 小栗は造船所の職員にあれこれと質問しながらも、脳内のそろばんを用い、幕府主導で造船所を作るための計画を立て始めていた。

 そんな彼の熱心さを造船所の所長はいたく気に入り、彼らの技術の基礎にして結晶とも言えるネジを贈呈したのである。


「そのネジがこれか?」

 そう尋ねた豊永に対し、小栗は悪童のような笑みを見せるばかりであった。

「けどよ、俺が日本に帰ったら、そいつを見せたかったお人は死んじまってた」

 眉根を上げた豊永の無言の問いに、小栗は答える。

「井伊大老さ」


 後世、桜田門外の変と呼ばれる事件は小栗の訪米と同年に起こった。

 大老・井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼、幕府の開国路線の中核を担い、日米通商修好条約調印の責任を負った人物である。加えて、同条約の批准書交換のため――同時にアメリカの進んだ社会を学ぶため――遣米使節の派遣を決断した男でもあった。

 その際、井伊は小栗の才覚、そして旗本らしからぬ経済への深い知見を高く評価し、遣米使節の一員として推挙した。

 その恩に対し、小栗はアメリカの技術、政治・経済、および文化風俗に至るまで詳らかに報告することで報いようとしていた。

 しかし、帰国した小栗を待っていたのは、井伊が過激派攘夷志士によって暗殺されてしまったという報告であった。

 予感はあった。だが、時の大老、すなわち幕府の最高職にして将軍の補佐役が暗殺されたこの一件は、幕府の権威が最早取り返しのつかないほど失墜していることを否が応でも小栗に実感させた。


 当時を振り返ってか、流石の小栗もどこか意気消沈した様子であった。

「幕府は永くねえ。そう思ったね」 

 その認識は豊永が当時の社会情勢を知った時の感想と相違ない。故に疑問であった。

「それを知りながら、何故最後まで幕府にしがみついたのだ?」

 小栗は目を細めると、子供を諭す親のように言った。

「お前さんは親が死にそうになったら薬もやらねえのかい?それと同じさ」

 いっそ清々しいほどのサンチマンタリスムに満ちた発言に、豊永は虚を突かれた思いがした。

「それに、日本をただの空き家するのはよくねえ」

 そう言うと小栗はどこか得意げな笑みを浮かべた。

「どうせなら土蔵付きの家にして後世に呉れてやれば、徳川幕府の面目も立つってものさ」

 豊永はいよいよ小栗という男のことがわからなくなってきていた。

 時に刃のような鋭さ、時に春の日差しのような温かさ――小栗忠順にはその両方が同居していた。

いずれにせよ、それは豊永が思い描いていた逆賊・小栗の姿とはあまりにも乖離していた。

瀬兵衛(せへえ)殿にも同じ事を言ったっけな。お前さん、あの人を知ってるかい?」

 豊永が首を振ると、小栗はまるで水を得た魚のように語り続ける。教えたくて仕方ないという気持ちがありありと伝わってきた。

そういえばこの男は村の童子相手に私塾を開いていたという報告があった、と豊永は今更ながら思い出した。

「瀬兵衛殿と俺は同じ私塾で学んだ友だった。持つべきものは友であると、つくづく思い知ったものさ」


 栗本鋤雲(くりもとじょううん)、通称瀬兵衛は元々幕府の医官(医者)であったが、出向先の蝦夷地で行った事業の成功を認められ、武士として召し抱えられるに至ったという経歴を有する。加えて同地でフランス人宣教師と知り合い、互いに母国語を教えあったことから仏語にも堪能であった。

 そんな瀬兵衛と小栗が再会したのは元治元年(1864年)のことであった。

当時造船所建設のため異国の技術支援を欲していた小栗は、フランスに白羽の矢を立てていた――アメリカは南北戦争中で不可能、イギリスとロシアは信頼できないという中でフランスはいくらかマシという消極的な理由ではあったが。

 折しも、瀬兵衛は仏語能力への高さを買われ、幕府がアメリカから購入した蒸気船・(しょう)鶴丸(かくまる)の修理をフランスに依頼するという任務を受けていた。小栗が瀬兵衛の力を借りようとするのは当然のことであったと言えよう。

 その日、小栗は仕事帰りの馬上の瀬兵衛を見つけて馬を駆った。

「瀬兵衛殿、上手くやったな!」

 振り返った瀬兵衛は生来の強面をほころばせた。

「剛太郎殿ではないか!しかし、上手くやったとは一体何のことにござるか?」

 剛太郎とは小栗の通称である。

 二人は馬を並べて歩き始めた。

「翔鶴丸の修復さ。船底まで入って全部見てきたが、蒸気機関も見事に補修してあった。それにしても鉄管パイプがよく間に合ったものと感服したわ」

 瀬兵衛は一瞬目を丸くした後、呵々大笑した。

 わざわざ船底まで潜って修理の様子を確かめる幕府高官など、小栗忠順以外にいるだろうか。瀬兵衛は旧友の幼き頃より変わらぬ在り方がなんとも言えず嬉しかった。

「そこでだ、瀬兵衛殿」

 すっと真面目な顔つきになり、小栗は切り出した。

「我が国に造船所を作るにあたってフランスの支援が欲しい。手を貸してくれるか?」

 さしもの瀬兵衛もこの発言には驚くばかりで喜んではいられない。

「そりゃあ手ならいくらでも貸しましょうが、そんな大きなことを成す余裕が幕府におありか?」

「幕府財政に余裕がないのは確かだが、造船所はこれからの世に必要不可欠!それに、必要なとこに金を回せば却って他の無駄遣いを抑える口実になるってものさ」

「いや、銭もそうだが・・・」

 瀬兵衛は馬を寄せ、声を落として言った。

「時間もでござる。造船所が出来る頃には幕府が潰れてる、という恐れはござらんか?」

 すると、小栗はギュッと手綱を握り、瀬兵衛に向かってニカッと笑った。

「幕府が潰れても日本国は続く。徳川幕府には後の世にこの国を土蔵付き売り家にして渡してやった栄誉が残ればそれでいいじゃあないか」

 瀬兵衛は眩しき太陽を見るように目を細めた。

「剛太郎殿」

 瀬兵衛は胸をドンと叩いた。

「あいわかった! この栗本鋤雲にお任せあれ!」

 翌年、横須賀での造船所建設が幕府により決定される。そして、日本初の蒸気機関を動力とする近代的工場が建設されるに至るのであった。


「そいつは」

 と、小栗は豊永の手にあるネジを指さした。

「件の造船所で作ったのを記念にもらったのさ。良く出来てるだろ?」

 豊永はネジを握りしめて拳を震わせたが、それは感動のためではない。

「出鱈目を申すなっ!」

 豊永は腰の刀を握って小栗に凄んだ。

「横須賀の造船所は新政府が建造したと聞く! 貴様のような逆賊の手柄ではない!」

 わかっていたこととはいえ、小栗は思わず目を閉じ、溜息をついた。小栗がこの国に残した『土蔵』は数知れない。先述の造船所を始め、西洋式の軍制度の導入、日本初の株式会社設立、アイデアだけであれば郵便・電信・鉄道などの設立など、枚挙に暇がない―小栗自身すら知りえぬことであるが、後に佐賀藩出身の政治家・大隈重信は「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」という言葉を残している。

 しかし、その全てを新政府は己の功績として掠め取ろうとしていた。

 恐らく俺の名は後世の歴史に、幕府に固執した時代錯誤の逆賊として、いやひょっとすると存在そのものがまるでないもののように扱われるかも知れないな、と小栗は思った。

 小栗はほんの数か月前に味わった辛酸を思い出していた。


 慶応4年の正月のことである。小栗・栗本が予見した幕府の終焉は間近に迫っていた。

 薩摩藩および長州藩は朝廷の後ろ盾を獲得し、数の不利を覆して幕府軍を撃破した――後に言う鳥羽・伏見の戦いである。そして、その勢いに任せて江戸へと進軍していたのである。

 江戸城では、薩長に抗戦するか、恭順するか、今後の進退を決める評定が行われていた。

 この状況下でもなお小栗には秘策があった。小栗は将軍・徳川慶喜に対して次のように進言した。

「箱根の山を越えてくる薩長軍の先陣を陸軍で迎え撃ち、後続に対しては駿河湾上より海軍で砲撃いたします。しかる後に海軍の一部を兵庫方面に向かわせ、増援を断てば敵は進退窮まりましょう」

 後世、新政府において陸軍の父と呼ばれる大村益次郎はこの策について「実行されれば我々の首はなかった」とまで評価している。

 しかし、肝心の慶喜は浮かぬ顔のまま考え込むばかりであった。そんな将軍の様子を見ながら、小栗の胸中には不安が渦巻いていた。

 先の戦い、慶喜は幕府全軍を率いる総大将でありながら、一万の兵を捨て置き江戸に逃げ帰ってきたのである。その行動の背景には、慶喜の生家・水戸徳川家に脈々と受け継がれた尊王思想があることは想像に固くなかった。つまるところ、慶喜は天皇の後ろ盾を得た官軍と相対し、逆賊の誹りを受ける恐怖に耐えられなかったのであろう。

 しかし、それでも踏みとどまらねばならないと小栗は思う。一度は逆賊の汚名を被ろうとも、薩長を退けさえすれば今一度朝廷との関係を回復させ、官軍として汚名返上を果たすことも可能なのである。

 問題は、それまで慶喜が耐え忍ぶことができるかであった。だが小栗には、薩長が担ぐ錦の御旗に対し、此方が担ぐ葵の御紋は今となってはあまりにも頼りなく思えた。

 熟慮の末、慶喜は口を開いた。

「余は疲れた。後のことは安房守に一任する」

 安房守こと勝海舟は恭順派の幕臣であった。とりもなおさず、慶喜の言葉は薩長への降伏を意味しながらも、それでいて明言を――言い換えれば責任を――避けたものであった。

 義務は果たしたとばかりに立ち上がり、評定の場を去らんとする慶喜に対し、小栗はなおも追い縋った。

「お待ちを! これは勝てる戦にございます。上様、どうか!」

 だが、慶喜はまるで唐突に外界の声が聞こえなくなったかのように歩みを止めない。面倒事に巻き込むな、余を逆賊にするなとその背中は語っていた。

 小栗はどれほどの功を重ねようと自身はあくまで無数にいる直参旗本の一人に過ぎぬと分をわきまえ、将軍には最大の礼節を尽くすべきであると考えていた。その論理で言えば慶喜が決断したからには小栗もまたそれに従い、鉾を下ろすのが筋であった。

 しかし、たとえ滅びを予感しようとも最後まで付き従わんとした幕府への忠心が礼節を凌駕した。

小栗は慶喜の衣服の裾を掴み、無理矢理引き止めた。そして、悲痛な思いで叫んだ。

「上様のご決断如何で徳川幕府260年の歴史が決するのです! 我々に最後のご奉公をさせてくださいませ!」

 だが、決死の言葉も慶喜の心の殻を破るには至らなかった。

「無礼者!」

 慶喜はまるで虫でも払うように小栗の手を払い除けた。

「上野介、そなたの処遇は追って沙汰する」

 そう捨て台詞を残し、慶喜は去っていった。それから数日後、小栗はあらゆる職を召し上げられることとなる。


 その後、勝海舟は江戸城の無血開城を成し遂げて英雄となり、最後まで抗戦の姿勢を崩さなかった小栗は逆賊として追われる身となった。

 小栗は自身を睨みつける豊永の目を見つめた。その目はあの時の、小栗の手を払い除けた時の慶喜の目を思い起こさせた。偽りの怒りで覆い隠しているものの、裏には戸惑いと葛藤がある。

 慶喜は「天皇を尊び、そのご意思に従えば万事問題ない」という尊王思想を、豊永は「明治維新とは先進的な新政府軍が頑迷な幕府軍を打ち破った戦である」という英雄譚を、彼らに取って最も重要な価値観を否定することを迫られている。そうしなくてはただただ時代に流されることしかできないのである。

 しかし、慶喜は変化を恐れ、時代に流されることを選んだ。慶喜に限らず、多くの人間は変化を恐れる。明日を切り開くのではなく、明日を座して待つことを選ぶのである。そのことを小栗はこの数年間で痛感していた。

 そして、豊永もまた

「やはり我らが正しいのだ! 明日は一太刀にて首をはねてやるゆえ、覚悟するが良い!」

 と言って去っていった。

 だが、それでも小栗の心は静かであった。


 慶喜に、幕府に捨てられたあの日、小栗の心に闇が生じなかったといえば嘘になろう。アメリカを訪れ圧倒的な国力の差を痛感してから、後世の日本国のため、滅びゆく徳川幕府のために身を砕いてきた。しかし、本当にそれで良かったのか、逆賊と成り果てた幕臣の所業など、歴史の闇に飲まれてしまうだけではないかと懊悩した。

 そんな思いを抱え、小栗は自邸の縁側に座って庭をぼんやりと見つめていた。庭の隅には日本初の煉瓦造りの洋館がある。

 火事と喧嘩は江戸の華、そう言われるほど江戸が火事に苦しめられたのは木造建築を主体とする街作りに原因がある。この洋館を嚆矢とし、江戸を近代的な街並みに作り変えれば、民草の暮らしはもっと豊かになろう……そんな思いで建築させたものであった。

 しかし、そんな世は来るのだろうか。いや、本音を言うとそんな世が来たところで逆賊の己に何か関係があるのだろうか。小栗は慌てて首を振り、そんな邪念を頭から追い払おうとする。使命感に駆られ、駆けずり回っていた頃は一顧だにしなかった悩みが今更彼を苦しめていた。

そんな彼の隣に、妻・道子がちょこんと座った。小栗はこの7つ年下の妻を深く愛していた。

「どうした?」

 と小栗は努めて優しく尋ねた。

「旦那様」

と道子は小栗にそっと身を寄せた。小栗はその仕草に意気消沈する自身への気遣いを見て取った。思えば東西奔走して家を留守にすることが多く、随分寂しい思いをさせてしまった。それも日本国のためと思っていたが、今となっては後悔が増すばかりであった。

しかし、道子の目的はそれだけではなかった。道子は自身の腹を撫でて言った。。

「ややが、できましてございます」

 小栗は信じられぬ思いで道子を見た。婚姻してから19年、愛の深さに反して子は一度もできなかったのである。

「まことか」

 道子はほんのり頬を染めて頷いた。

 小栗は道子を抱きしめ、彼女に見えぬ位置で涙を流した。

「ありがとう……ありがとう……」

 報われた、と感じた。小栗の成した功は天下国家のためだけではない、いずれ生まれる彼の子のためにもなるのである。最早邪念は晴れた。

 同時に、生きねばならぬと感じた。子のため、国のためにできることはまだまだある、と。


 かくして、この権田村に小栗は落ち延びた。そこで「前朝(ぜんちょう)(がん)(みん)(前政府以外に使えない頑固な人)」として静かに余生を過ごすつもりであった。そして、かつて瀬兵衛と学んだような私塾を作り、いずれはこの村から太政大臣(首相)を出すのが彼の夢であった。

 しかし、新政府は幕府随一の切れ者である小栗を逃がすつもりなどなかった。暴徒を差し向け、小栗がそれを退けたら今度は彼が単なる屋敷を建築しているのを「要害を建築し、謀反を企んでいる」と難癖をつけて追い詰めた。

 無論、小栗も唯々諾々と従っていたわけではない。疑惑を晴らすため、僅かな武器とともに養子・又一を釈明のために差し出すことで誠意を尽くした。だが、端から小栗を始末するつもりであった原・豊永両名は聞く耳を持たず……こうして小栗の処刑は新政府の既定路線通りに決定されたのである。

 又一にはすまぬことをした、と小栗は思った。最初から釈明に自分が行けば己の首一つで済んだかもしれぬ、それが小栗最後の後悔であった。

 せめてもの救いは道子を彼の母、そして腹の子共々逃がせたことだろう。どうか生きて、俺に代わって後世の日本を見届けてくれと小栗は思った。


 そして、翌日の四ツ時半(午前11時)――

 小栗は家臣たちと共に烏川の水沼川原に引き出されていた。家臣の一人、大井(おおい)(いそ)十郎(じゅうろう)は耐えきれなくなって叫んだ。

「取り調べの一つもなく首を刎ねるとは何事かっ!我らが殿にはかような最期を迎えるような罪などないわっ!」

「磯十郎!」

 ピシャリと小栗は言った。

「各々、この期に及んでは未練がましいことは申すな」

 最早変えられぬ運命であれば、最後は武士として潔い死を迎えさせてやりたい、そんな親心からの発言であった。

 その思いを察し、磯十郎は目に涙を滲ませた。

「しかし、日本国のために尽くした殿への仕打ちがこれと思うと、拙者は、悔しうて」

 小栗は微笑み、静かに首を振った。

「もう、よい」

 磯十郎は頬を伝った涙を飲み込むと、二度と口を開くことなく首を斬られた。それを皮切りに、家臣たちは次から次へと首を落とした。

(お前たち皆、見事だった)

 と小栗は心のなかで彼らを労った。

 そして、遂にその時が来た。

 豊永は日本刀を手に小栗の傍らに歩み寄った。昨晩までの豊永であれば、逆賊を自ら処断できる興奮に武者震いしていたであろう。

 しかし、今の豊永は違う。小栗の話がもし真実であれば……この男を切ることは日本国にとってとんでもない損失になるのではないか、という不安が拭いきれなかった。

 それ故の震えを押し隠すように、豊永は威圧的に言った。

「何か言い残すことはあるか」

「何事もない」

 それは嘘偽りのない本心であった。

 しかしその瞬間、小栗の脳内に幼い少女の顔が浮かんだ。洋装と思われる衣服に身を包んだ少女の姿に見覚えはない、だが小栗は確信した。

(娘だったか、健やかにな)

「いや、一つだけ」

 小栗は肩越しに豊永を見た。

「逃がした妻と母に、どうか寛大な処遇を頼む」

 それだけ言うと、小栗は前を向いて首を差し出した。

 豊永は今にも叫びだしそうな気持ちを必死で抑え、小栗の首に向かって刀を構えた。しかし、構えたきり僅かばかりも動かない。

(斬れない! 俺にはこの人を斬ることができない!)

「退け」

 そう言って豊永を押しのけたのは原であった。強張った豊永の体が転倒したのを顧みることもなく、原は刀を小栗の首に振り下ろした。

 小栗上野介忠順、享年42歳。華々しい明治維新の陰で日本を支え続けた巨人の首は、罪人として水沼川原に晒されることとなった。


 小栗の死後、道子は会津の地で娘・国子を出産した。その後、母子は小栗に恩義のあった商人・三野村利左衛門に保護され、東京と名を改めた江戸で暮らしていく。道子の死後、国子は親戚筋に当たる政治家・大隈重信の勧めで婿を迎え、小栗家を再興するのであった。

 

 そして時は流れて明治45年(1912年)、時の海軍大将・東郷平八郎は国子の夫・小栗貞雄とその息子・又一を自邸に招いた。

 東郷は「日露戦争の日本海海戦において完全な勝利を収めることができた軍事上の勝因は、小栗上野介殿が横須賀造船所を建設しておいてくれたことである」と感謝の意を表明したという。

 小栗が残した『土蔵』は決して歴史の闇に埋もれることなどなく、日本国の明日を救ったのである。


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