■01 ヒフミヨイ
・幽霊とゾウの足音
幽霊を見たことがあるだろうか?
俺はある。
ちょうど1年前だ。戸地木蓮につき合ってお化け屋敷に行った。木蓮は白衣を着るとAVの女医コスプレにしか見えない、エロ偏差値高めのおっぱいメガネだ。俺と同じ大学の研究者で、彼女は音と脳の関係が専門だ。
「幽霊が出る場所には、耳に聞こえないような低い音が流れているらしいのよね」
極低周波ね、と木蓮は言った。
俺は薄いセーターから覗く木蓮の胸の谷間を眺めながら、春だなあと思った。
春の大学はサークルの新歓がまだ続いているのか、騒がしく落ち着かない。
俺たちは学食に併設した喫茶店にいた。うちの大学には、なぜスタバやタリーズが入らないのか。工科大だからか。オタクにスタバは早すぎるのか。
木蓮は65万円もするという周波数測定器をわざわざ持ってきて、椅子に座るなりテーブルに置いた。予算が多いことを暗に自慢しているのだ。脳研究、最近はブレインテックというが、木蓮のジャンルは資金が獲得しやすい。
木蓮が喫茶店の壁を走るダクトを指さした。
「エアコンの振動、セントラルヒーティングの配管、何でもいいんだけど機械の振動ね、地下鉄とかトンネルなんかもそうよね。そういう振動が原因で、耳には聞こえない超低い19ヘルツ前後の音が出るとそれが幽霊を見せるらしいのよ」
俺はテーブルに置かれた周波数測定器を前に首をひねった。俺は音響系はからっきしで、スピーカとアンプの違いもよくわからない。
「機械ってさ、洗濯機でも出んの、その低周波?」
俺の持っている洗濯機は、脱水する初めの時、発作が起きたみたいにガタガタ揺れるのだ。
「洗濯機? 出るんじゃない、たぶん」
「電子レンジは?」
「電子レンジはどうだろう。たしかにブーンって揺れるわよね」
木蓮はアイスクリームが少し溶けて、コーヒーに混ざるのがいいのだと手をつけずにいたコーヒーフロートに手を伸ばした。
俺は周波数測定器を手に取った。意外としっかりしている。さすが65万円だ。テスターにスポンジのフードのついたマイクがくっついた形で、大きな液晶画面がついている。この画面に音の波形が出るのだろう。
俺は周波数測定器をテーブルに戻した。
「19ヘルツと言われてもピンとこんのだけど、どのくらい低い音なの?」
木蓮がスプーンでアイスクリームをコーヒーに押し込んだ。
「アフリカゾウが足踏みで会話する音ぐらいかな」
「ゾウ?」
「ゾウさんはね、足の裏で仲間の出す極低周波の足踏みを聞くのよ。あの子たちが話をする時は足踏みなのよね」
「ゾウの会話はパオ―ンじゃないのか」
「ないのよ」
木蓮は心霊スポットで音を採取したいのだと言った。
「なんで幽霊?」
科学と幽霊は相性が悪い。論文を書いても不受理になる可能性が高い。木蓮もそこはわかっているのだろうが、わざわざ無駄骨を折ることもない。
「幽霊というか騒音問題なんだけどね」
木蓮によると、19ヘルツの極低周波で幽霊が出るというのは、木蓮のような音と脳の研究者には有名なのだそうだ。
「イギリスにビク・タンディーというエンジニアがいて、2009年に論文出したのね」
英コベントリー大学のビク・タンディーは、かつて医療機器メーカーの研究室で働いている時、奇妙な体験をした。なぜか寒いのに汗が出て、憂鬱で、ひどく不快な気分に襲われたのだ。そこでコーヒーを飲みに行って一息入れ、デスクに戻ってから再び仕事に取り掛かろうとした時のことだ。
「視界の隅に灰色の影が見えたんだって。タンディーは幽霊かと思った。おのれ、何やつ? と振り向くと影は消えたと。そういう話なのよ」
「何やつって。そう言ったのか、タンディーが?」
「言ったわね」
木蓮は時代劇が好きで、眠狂四郎を語り出すと止まらない。
「それでね、タンディーはエンジニアだから、とりあえず研究室を観察したわけ」
そこで金属片が揺れているのに気がついた。
「そういえば新しく洗浄機入れたなと思って、洗浄機のスイッチを切ったら不快感が消えたのよ」
「ほう」
「研究室に周波数測定器があったので測ったら、19ヘルツの、人間の耳にはまったく聞こえない極低周波が洗浄機から出たわけ」
幽霊の正体は音なのか。
「そうなのよ。ただこの人、音と幽霊で論文書いたんだけど、出した先が超心理学会の会報か何かでさ」
「ダメじゃん」
月刊ムーに記事が出たからといって、その内容が学術的に妥当であると思う人はいないだろう。超心理学の専門誌に論文が載ったということは、まあそういう扱いということだ。
「そうなの。それで別の人が検証したのね」
懐疑主義者で疑似科学バスターのクリストファー・フレンチと建築家のウスマン・ハクは、直径3メートルの円筒形の部屋を作り、壁に低周波の音と電磁波を発生させる装置(幽霊の原因には電磁波の異常説もある)を組み込んだ。中に入った人が幽霊を見る部屋を作ったのだ。
部屋に被験者が入ると、誰もがゾクゾクする不快な感じを覚え、自分の体を外から見る体外離脱現象を起こした人や何者かがいる気配を感じた人もいた。実に94パーセントの人が「何かを感じた」たという。
「実験は成功したように見えたのよ、最初はね。でもね、あとで被験者の心理プロフィールを調べたら、幽霊を見たとか体外離脱をしたという人には、てんかんの傾向が見られたの」
てんかんの発作は幻覚を見る率が非常に高い。元々見る人だけが幽霊を見たのでは、音が原因だとはとても言えない。
「ダメじゃん」
「そうなの、ダメなの」
木蓮には、音関係の話がよく持ち込まれる。多いのが騒音問題だ。騒音規制の基準はクリアしても、騒音がすると抗議をする人が必ずいる。それが思い込みなのか本当に騒音が聞こえているのかを判別することができず、ゼネコンは精神的苦痛という名目で示談金を渡してけりをつけている。
耳には聞こえない極低周波がそうしたトラブルの原因なら、対応も変わってくだろう。 木蓮の研究室には音響実験室があるので、木蓮は実地で体験してみたのだそうだ。
「19ヘルツを流しっぱで、1時間ぐらい中にいたわけ」
「おお、体張ってるな」
「そしたらさ、ホントに嫌な感じなのよ。なんていうのかな、全身がゾクゾクするっていうの?」
木蓮が両手で自分の肩を抱いて震えて見せた。
「無理やり鳥肌立たせるような」
「不愉快にはなるんだな、幽霊は置いといて」
まあそうね、と言いながら、木蓮はスマフォを取り出した。
「それで実地で調べたいわけ。幽霊を見る人がいて、そこで19ヘルツを採取できたら、音が原因だって言えるし。どこか確実に音が採れる場所を探してたんだけどね、」
木蓮はスマフォの画面を俺に見せた。
「たぶんここが一番、安定して幽霊が出るみたいなのよね」
見せられた画面には「365日怖さサスティナブル! 呪われた少女編 怪奇学園」と書かれたサイトが表示されていた。リングの貞子を小さくしたみたいな女の子の、暗いイラストが嫌な感じだ。
俺は目を細めた。
「これってお化け屋敷?」
「うん」
俺はスマフォの画面と木蓮を交互に見た。
「あのさ、木蓮、」
俺は腕組みをした。
「幽霊が出る場所を探しているんだろう?」
ストローをくわえた木蓮がうなづいた。
「それでお化け屋敷で幽霊って矛盾してないか? 本物いるなら、お化け屋敷いらないだろ」
俺がそう言うと、木蓮は俺から目をそらし、ふっと口元だけで笑った。
あ、バカにした。
俺が言い返そうとすると木蓮は遮った。
「あのね、訊いたの、運営しているユーレイさんに」
「ユーレイさん?」
「運営している会社の社長さん」
「ユーレイが苗字?」
「苗字は堀田」
「苗字あるんだ」
「堀田ユーレイさん」
木蓮は声を潜めた。
「カメラがあるのね、お化け屋敷の中に。そのカメラに女性のお客さんが腿のあたりをこう払っているのが映っているんだって」
木蓮は座ったまま、自分の腿のあたりを手で払って見せた。
「カップルがいちゃついてただけじゃねえの?」
俺は残ったコーヒーを飲んだ。いつもここでコーヒーを頼むのはやめようと思うのだが、気がついたら頼んでいる。もしかしたら俺はこの煮過ぎた麦茶みたいなコーヒーが好きなのかもしれない。
木蓮は俺を無視して話をつづけた。
「ユーレイさんによると子どもの幽霊がいるらしいのね。子どもだからお母さんが恋しいのかな、女の人にスッと抱きつくの。でも子どもは背が低いでしょう。それで足にだきつく、女の人はびっくりして、腿のあたりを手で払うのよ、でもカメラには何も映ってない。女の人は何もないところを手で払っている」
子どもの幽霊? 学校がモチーフのお化け屋敷で?
木蓮は怖い話をしているつもりらしかったが、俺は白けた。客寄せにでっち上げた話にしか思えない。
「お化け屋敷は季節ごとにテーマを替えるんだって。その時は内装もやり替えるから、泊まりになるらしいのね。そういう時、事務室で仮眠していると、展示の中からバタバタ子どもたちの走る音や笑い声が聞こえるんだって。事務室はお化け屋敷の中二階みたいなところにあってね、下の音が」
あのさ、と俺は喫茶店のダクトを指さした。
「それってどっかの声が配管伝って聞こえてるんじゃないの?」
「閉館後の商業ビルなのよ? 子どもは当然いないし、他に警備の人以外、誰もいないの」
真面目に答える木蓮に、俺は納得がいかなかった。
幽霊?
「19Hzが原因でも、見えるのは幻覚なんだろ、ようするに」
木蓮はそうよと澄ました顔をした。
「じゃあ幽霊がいるって、言い方からしておかしくないか?」
「でもね、脳が感じたら、それは現実」
脳は脳をジャッジメントできないんだから、と木蓮は澄ましている。
・木蘭は脳みそをいじり回したい
木蓮はイカレている。
生物工学に進んだ理由を聞いたら、
「脳をいじり回したかったから」
と真顔で答えた。
きっかけは、中学生の時にスティモシーバの映像を見たからだという。
「闘牛がさ、全力で突進してたのに、こっちでボタンを押すと、あれ? ボク、どうしたんだろ、何で走ってたんだろって足止めるのよ! 信じられないでしょう?」
どこでそんなものを見たんだと思ったが、今どきは海外のドキュメンタリーチャンネルで何でも流している。
「牛はね、気を取り直して闘牛士を刺す気マンマンで走り出すんだけど、ボタンを押すと、やっぱ今日は気分じゃないですって再び急停止するのよ。牛を無線で操作できるの。すごくない?」
木蓮はメガネ越しに大きな目をキラキラさせた。
「そんなボタン、あったら押したいよね? ね?」
スティモシーバと聞いて、あ~あれね! とわかる人は、日本ではムーの読者か……ムーの読者ぐらいだ。ムー民ならわかるだろう、わかるよな? ちなみにムーの読者をムー民と呼ぶ。
人間を無線で操る、そんな研究が1950年代に行われていた。
脳の中に張り巡らされた神経ネットワークには、電気が流れている。その電気が脳の各所に指令を送り、意識や感情を生み出している。
ということは、と米国エール大学のホセ・デルガド博士は考えた。
脳に電気を流せば、人間をコントロールできるのか?
脳の中に意識や感情が納められた場所を見つけ出し、そこにリモートで電気を流したらどうだろうか? 遠隔操作で脳神経に強制的に電流を流せば、人間に狙った行動させたり感情を操作することができるんじゃないか。
ようするに本物のやる気スイッチである。やる気スイッチを脳の中に探し出し、そこに針を刺しておく。
テスト勉強やりたくねえ~マンガ読みてえ~という時は、ビビッと電気を流す。するとみるみるやる気があふれ、楽しい~数学楽しい~英語もスラスラ~となる。
そんなに便利な、ドラえもんグッズみたいなもんがあるかよと思うかもしれないが、デルガド博士は作ってしまった。それがスティモシーバだ。
スティモシーバのスティモは刺激(=スティミュラス)の意味だ。刺激を受け取る(=レシーブ)装置だからスティモシーバ。
スティモシーバは脳に挿すための電針とコントロール用のチップでできている。米国産のサプリメントぐらいの円筒形の管に通信機とバッテリが詰め込まれ、そこから針が伸びている。横から見ると細長いピペットのようだ。
大丈夫か、こんな武骨なものを脳に挿して? と思うが、痛くないから大丈夫。脳に痛みの感覚はないのだ。
脳の機能を詳しく調べるには、組織に傷がつかないような細い針を深く挿し、脳の深部を刺激する方法が一般的だった。
デルカドが活躍した50年代には、脳の手術に合わせて、そうした実験が行われていた。脳の機能を調べるため、開頭手術の最中、脳に学者が細い針を挿したのだ。挿す場所によって、患者は手を握られているように感じたリ、急に忘れていた幼いころの風景を鮮明に思い出したりといったことが起きた。針を挿した場所だけがピンポイントで機能したのだ。
ちなみに脳には痛みの感覚はないので、患者は部分麻酔のみ。頭蓋骨を外した脳むき出しでも、バリバリに意識はある。そこで研究者は脳むき出しの患者本人相手に、脳に針を挿しては「今何か見えます? どんな気分です?」と聞いたらしい。
映画「ハンニバル」に、縛り付けらられ、脳をむき出しにされた青年とレクター博士が会話するシーンが出てくるが、あれはドキュメンタリーだったわけだ。まあ、レクター博士はその後で脳をソテーにして食っちまうけども。
デルカドのように脳に針を挿していじり倒すために大学に入った木蓮は、専門課程に上がるなり研究室の教授に
「戸地くん、ヒトはダメだよ、今どきはサルも猫も実験に使えなくて、マウスかラットだよ」
と言われた。デルカドの時代と違い、今は治療目的以外で脳に針を挿すことは倫理的な面から基本禁止である。
ショックを受けた木蓮は、思わず叫んだ。
「脳だけですよ? 脳だけでも挿しちゃダメなんですか!」
……何で先っぽだけしか入れないから! みたいなことを言っているのだ。ダメに決まってるだろ。
デルガドはスティモシーバを猫やサルの脳にぶっ挿した。脳の部位ごとに電流を流して、どのような反応が起きるかを観察した。
体の動きをコントロールする運動皮質(正確には赤核という場所)に挿してスイッチを押すと、サルはどうなったか?
当時のニュース記事によれば、
「頭を右に向け、二本足で立ちあがり、右に旋回、ポールに登ってから再び下りた」
のだそうだ。スイッチを入れるたびに、サルは同じことを繰り返したという。
ボタンを押すとサルがポールダンスを始めたのだ。すごくないか?
デルガドが行った有名な実験がある。
闘牛場の牛にスティモシーバを埋め込んだのだ。スイッチを入れない時の牛は、闘牛士に向かって突進していく。闘牛だから当たり前だ。牛が闘牛士を角で突く! というシーンでデルガドがポチっとスティモシーバのスイッチを入れると……猛スピードで走っていた牛は急にその場で足を止めてしまったのだ。牛は何度も走りだそうとしたが、その度にデルカドがボタンを押し、その度に牛は混乱したように走るのをやめて、その場で足踏みをした。
木蓮が、牛牛牛と言っていたのはこの実験のことだ。
牛の突進を止めるよりも、もっとすごいことがスティモシーバにはできた。
脳の脇の部分、側頭葉という場所をスティモシーバで刺激すると、動物たちはいきなり恐怖に襲われたのだ。
やる気スイッチじゃなくて恐怖スイッチだ。
動物たちが仲間とじゃれていたり、ぬいぐるみで遊んでいる時、デルガド博士がスティモシーバのスイッチを押す。すると、スティモシーバを埋め込まれた動物は、数秒前まで仲良しだった仲間やぬいぐるみに向かって毛を逆立て歯をむき出した。突然の恐怖に突き動かされ、急に仲間のことが怖くなって威嚇したのだ。
デルカドはこれを「恐怖の幻想」と呼んだ。
脳から感情を自在に引き出せるのか? ということは……惚れ薬ならぬ惚れボタンもある? 相手にもしてくれなかった女の子が目を潤ませて、みたいな? あるいは……エロ漫画に出てくるような、相手を性欲の塊にするエロエロ欲情スイッチもありえる?
あります! そのスイッチは、あります!
脳には報酬系という快楽の仕組みがある。おいしいものを食べると、うっとりした気分になるだろう。好きな人といっしょに面白い映画を見た後にはとても満足する。そうした満足感や気分の良さが報酬系の働きだ。
デルカドはスティモシーバを報酬系の脳神経に挿しこみ、作動スイッチを動物でも押せる単純なレバーにつないだ。動物が自分でスティモシーバのスイッチを押させるようにしたわけだ。
哀れな動物たちは延々とレバーを押し続けた。スイッチを押すと気持ちが良くなるから、止められないのだ。同様の実験で、針と電極を埋め込まれたラットは1時間に1000回もレバーを押し続けたという。オナニーを覚えたサル状態である。
人間でも同じことが起きた。
てんかんで苦しむ30才の女性は、デルカドの手で右側頭葉にスティモシーバを挿入された。側頭葉の奥にある扁桃体は報酬系につながっているため、分泌する生理物質が痛みを緩和し、てんかんの発作を抑えるためだ。
スティモシーバのスイッチを入れると、女性は初めて会った男性看護師の手にキスをし、抱きついた。スイッチを切ると、女性は目が覚めたかのように落ち着いた状態に戻ったという。同様の手術を受けた患者全員に同じことが起きた。電気刺激により、突然に湧き出る親愛の感情。デカルドは脳に恋愛スイッチを見つけたのだ。
エクスタシーを感じる部位もある。
デルガド以降も、多くの研究者により針と電流を使った脳の深部刺激の実験は続けられ、その中に海馬の刺激でオルガズムを感じた、側坐核の刺激でエクスタシーを感じたという女性てんかん患者の報告がある。
2006年、ノースカロライナ州臨床研究センターのスチュアート・メロイは32~60 才の健康な11人の女性の脊髄末端に電気刺激を行うデバイスを埋め込んだ。
このデバイスは自分でボタンを押して脊髄に電流を流すことができた。スティモシーバの脊髄版だ。
結果は? 性交頻度が増え、満足感が上がり、不感症の女性はオルガズムを迎えることができたのだそうだ。メロイはこの技術をNeurally Augmented Sex Function (NASF)=神経刺激による性機能増強と呼んだ。
エロエロ欲情スイッチは脳なら海馬や側坐核のあたり、脊髄なら末端にあるらしい。
デルガドはCIAが秘密裏に進めていた、洗脳技術開発プロジェクト「MKウルトラ」に関わったことでアメリカを追われるのだが、そんなデルガド博士が木蓮の心の師なのだ。
・私の夢は人間を意のままに操ること
「なんでイーロン・マスクは良くて、私はダメなわけ?」
木蓮は手酌で注いでいたビール瓶をどんとカウンターに置いた。
「そりゃ向こうは身銭で、お前は税金だからだろ」
俺が言うと木蘭は不服そうにピザをつまみ上げた。
木蓮はビールばかりを底なしに飲んだ。たしか渋谷で飲んでいたと思う。30分も経たずに俺の前にハートランドの緑の空瓶がドンドンドンと並んだ。
速射砲が薬包を排出するような勢いに、俺は気圧された。
なんなんだこいつは。
俺も酒飲みだが、木蓮は次元が違う。ゴミバケツに流し込むようにビールを飲む木蓮に、違う意味でドキドキした。骨をかじるライオンの横で飲んでいる気分だ。
木蓮がイーロン・マスクに怒っているのは、イーロン・マスクが自分より先に脳チップの臨床試験を始めたためだ。
イーロン・マスクいわく、進化し続けるAIはいずれ人類の敵となる。AIと対抗するには、人間も人間を超えた人間=トランスヒューマン(超越人類)になるしかない。
そこで手術で頭蓋骨を開けて、脳に通信機能を持つコンピュータチップを挿し、人間の意識をクラウドにアップロードして、全人類の意識をひとつにしてAIの超知性に対抗する!
妄想だか中2病だかよくわからないが、恐ろしいことにマスクは超がつく金持ちなので、金にあかせて脳チップを本当に作ってしまった。そして現在、市販化に向けて臨床試験を繰り返している。
「私も挿したい」
どうしても木蓮は脳に針を挿したいのだ。挿したいあまり、脳腫瘍のじいさんを説得して、おそらくじいさんは木蓮のおっぱいを前にスケベ心全開でよくわかってなかったとは思うが、一応は本人の承諾を取ったわけだ。ところが、寸前で病院側にバレてストップがかかった。
「腫瘍を切る時に、ちょっと混ぜてと言ってるだけなのよ? たかが針挿すぐらいで倫理委員会がどうの、学部会がどうの、バカなんじゃないの? 患者が良いって言ってるなら良いじゃない?」
「だから挿すなよ。挿そうとするから怒られるんだろ」
木蓮は口をとがらせた。
「なによ、ニュートンは自分の目に針を挿したのよ? 視神経を刺激したら色やなんかが見えると考えたのよ? 18世紀によ?」
「だから?」
「ニュートンはすごいって話よ」
「あのな」
俺は木蓮の頭を指さした。
「自分の脳でやれよ。ニュートンは自分の目でやったから、怒られなかったんだろう。自分の脳に針挿せば、怒られない」
「そんなのはとっくに申請したわよ」
「あ、そうなの」
「めっちゃ説教されたわ」
俺はウイスキーソーダのお代わりを頼み、木蓮を振り向いた。
「もしかしてお前、まだ防衛予算をあきらめてないの?」
以前、木蓮は防衛省から洗脳技術の開発で競争的資金を取ろうとして、申請したものの失敗しているのだ。
「当り前じゃない。ハダカデバネズミみたいに、痛みを感じなくて忠実で全員が特攻隊員みたいな軍隊を作れるのよ?」
ハダカデバネズミは土の中に住む裸のネズミだ。巨大な前歯がつき出した胎児のような姿で、ビックリするほど醜い。
一匹の女王を中心に十数匹から多い場合は数百匹のオスが集まる逆ハーレムを作る。メスに群がる無数のオスの姿は、もう本当に、人間の美的センスとは相いれない。
そんな彼らは、ほぼ痛みを感じず、ガンにすらかからないほど病気に強い。さらに蛇のような天敵に襲われると、オスは食べられるために蛇に突っ込み、自分たちを蛇に食べさせる。群れを守るために自分を食わせるのだ。
彼らのような軍隊があったら、怖いほど強いだろうとは思う。
「物騒なこと言うね、君も」
「結局、きれいごと並べたってよ、連中は他人に自分の言うこと聞かせたいわけじゃない? そうでしょ?」
またビールが空いた。酔ってうなじまで赤くなった木蓮は相当にエロい。
「いいなあ~中国!」
いきなり木蓮が大きな声を出した。
「中国なら、法輪功を切ろうがウイグルを挿そうが」
「コラッ!」
脳の研究者がなんてことを言うのだ。
俺が周りに中国人がいないかを見回す間に、木蓮は手を上げ、お兄さん、これ、と空のビール瓶を指さした。
「まだ飲むのか」
うんざりした俺の顔を木蓮が覗き込んだ。
「飲むわよ」
木蓮はいきなり俺の眉間を指さした。
「あのね、武器と武器の戦いなんて、とっくに終わってるの。今や制脳権なの、脳を制したものが勝者なの、知ってる?」
木蓮はそう言うと、置かれた新しいビール瓶に手を伸ばした。
「まあ、あなたは知ってるよね、専門家だもんね。それでね、中国なのよ! 脳波で動かすパソコンで、脳波でちゃちゃっと計算する、そういう世界大会をやってんのよ! 中国人しか参加していないのよ? それで何が世界大会よ! どうなのよ、共産党!」
制脳権は俺の専門外だが、話には聞く。
通常戦力でも核戦力でも、中国はアメリカに勝てない。しかし新しい技術の新しいパラダイムになれば、どうなるかはわからない。
脳を使った戦争を彼らは考えている。人民解放軍はそれを「制脳権」と呼んでいる。脳の特殊な使い方をマスターした軍人による、脳波戦争だ。
「空母の時代じゃないの。F35だか36だかよう知らんけど、防衛省はさ、空母の前に、まずあたしに予算をくれるべきなのよね……くれるべき? 違うわ、あの人たちは貢ぐべきなのよ、あたしにね」
あっ! と叫んで木蓮は椅子をひっくり返す勢いで立ち上がった。
「どうした?」
おしっこ行ってきます、と木蓮は優雅に微笑んだ。
この半年ほど後、木蓮は、じゃあ針挿さなきゃいいのよね、とばかりに論文を漁り、たどり着いたのが超音波だった。超音波を使うと針を挿すスティモシーバと違い、脳を傷つけることもなく、人間でも実験できる。
現在の木蓮は音波と脳の専門家だ。音が脳にどのような影響を与えるのかを調べるため、研究室の学部生やボランティアの脳を、超音波を使っていじり倒している。
・恐怖がサスティナブルな幽霊屋敷
「365日怖さサスティナブル! 呪われた少女編 怪奇学園」は、俺の知っているお化け屋敷とは別物だった。
一般的なお化け屋敷というのは、決まったコースを歩いていくと、ところどころ機械式のギミックでバーンと棺桶が開いたり、天井からびょーんと人形が落ちてきたり、そういうものだろう。そしてヒュードロドロとかキャーとかグワッとか怖い音楽と叫び声が流れ、男女がキャーキャーひっついてうっとうしい、そういう感じだろう。
怪奇学園は、真っ暗な中を懐中電灯頼りに進む、ただそれだけだ。
血だらけの人形はあるし、使い古された小学校のロッカーや机、掃除箱にぬいぐるみ、何もかもボロボロで生理的に怖いのだが、脅かすギミックは何もない。廃校を散策する感覚だ。何が怖いんだろうと思うかもしれないが、それが怖いなんてもんじゃないのだ。
本当の暗闇は、驚くほど怖い。
入る時に懐中電灯を渡され、暗いから気を付けてくださいと言われた。
暗幕を持ち上げて中に入ると暗いとか暗くないとかの次元ではなく、何も見えない。真っ暗闇だ。
恐る恐る歩きながら、よくよく目を凝らすと、かろうじて見えた。薄暗い中に壁に貼られた血まみれの授業予定や読み取れない文字の書かれた傾いた黒板がある。
廃校の教室のイメージだ。よくできている。
ギシギシと足の下で床板がきしんだ。
クシュ。何かを踏んだ。
紙?
なんか書いて……お札?
俺は前を歩く木蓮の手をつかみ、彼女の持つ懐中電灯で床を照らした。懐中電灯は1本だけ、木蓮にしか渡されなかった。
光の輪が床を照らした。
床一面にお札が撒いてあった。
「うわあああ」
俺は叫んで木蘭にしがみついた。木蓮がひやああ! と叫び、俺の肩をつかむと自分の前に押し出した。
木蓮が振り回す懐中電灯の光の先に、ボロボロのフランス人形が浮かび上がった。
人形のガラスの目玉が動いたように見えた。
あぎゃ、と変な声が出た。俺は後ずさりし、木蓮が慌てて俺の背中を押し返した。ずりずりと木蓮に押されながら、俺は吐き捨てた。
「ふざけんな! なんなんだよ、人を怖がらせて何がうれしいんだよ!」
なんというか……それがお化け屋敷です。
あまりに怖いと、人間は腹が立つのだとわかった。
それぐらい怖かった。
名刺交換の後、堀田社長が俺と木蓮に全体のコンセプトを説明してくれた。
堀田社長は怪談師なのだそうである。
俺は怪談師という仕事を知らなかったが、いろいろな人の怖い体験談を聞き取って、ステージで上手に話す人のことだという。落語のようなものか?
「たまたま群馬県で廃小学校があることがわかりまして」
最初は怪談のネタとして取材に行ったのだが、
「その学校がめちゃくちゃ怖かったんですよ。幽霊が出るという話もあったし、なんとかこの怖さを伝えられないかと思って、いろいろ話を持って回ったら、ある自治体の方が興味を持たれて、町おこしにお化け屋敷ができないかと。それがきっかけですね」
紆余曲折を経て、現在の場所で常設することになったのが6年前。
お化け屋敷は学校の構内を模してあり、その中を回りながら、指定の場所にお札を置いていくアドベンチャーゲーム形式だ。
「怖がらせるような仕掛けは何もないです。小学校から持ってきた机や跳び箱なんかが置いてあるだけで。ただ真っ暗なので、その中を懐中電灯ひとつで歩くとそれだけでめちゃくちゃ怖いんですよ」
子どもの頃に行ったお化け屋敷を思い出しながら、俺は尋ねた。
「スタッフの方が隠れて脅かしたりとかは? あるじゃないですか、着物着た血だらけの人がにゅっと出たり、首にコンニャク押し付けたり」
基本的にはないですと堀田社長は笑った。
「そこまで人件費がないので、お客様にお任せしています。バックヤードで監視カメラは見ていますが、それだけですね。あとは受付と案内係で、平日はだいたいスタッフ3人で回しています」
木蓮が堀田氏の広げたお化け屋敷の案内図をのぞき込んだ。
「幽霊はどのあたりに出るんですか?」
そうですね、と堀田氏が図面を指さした。
「この最初のゾーンで見たという話は聞きません。うちではお客様が感想を短冊に書いて、出口に貼ることになっているんですが、この教室ゾーンで見たという感想はないですね」
教室を抜けて廊下を渡り、音楽室へ行く。
「ここはピアノが置いてあるんですが、このピアノを弾こうとして手をつかまれた人は何人かいます。この渡り廊下ですね、ここで童謡が聞こえるみたいです。女性はほぼ全員聞くという話です」
木蓮がうれしそうに俺を振り向いた。
「よかったな」
俺は木蓮に言い、堀田氏に何の曲かと聞いた。
「通りゃんせが多いみたいですが、場内はスピーカをセットしてないし、音楽は流しませんしね」
この次です、と堀田氏がどん詰まりの壁を指先で叩いた。
「ここに男の子がいます」
「います?」
「かなりの確率で出ます」
「何してるんです?」
「体育座りでじっとしているみたいですね」
「いつも同じ子どもなんですか?」
木蓮が疑わし気に聞くと
「たぶん。うちのスタッフも何度か見ていますが、毎回、坊主頭で半ズボンらしいので」
堀田氏は当たり前のように言ったが、俺は首をひねった。
違う人が違う時に同じイメージの幻覚を見る?
「スタッフの方以外も? 見た人がいるんですか?」
「直接、窓口に迷子がいたと言いに来た人もいらっしゃいましたね。声をかけると逃げちゃうみたいです」
野良猫かよ。
「上はエアコンですか?」
木蓮が聞くと堀田社長がうなづいた。
「そうです、ここに空調があって、その真下ですね」
木蓮はバックから周波数測定器を取り出し、堀田社長の前で電源を入れた。液晶画面にグギザギザした波のグラフが表れる。俺たちの会話を波形で表示しているのだ。
「この装置で周波数測定を行いたいのですが、」
木蓮は実験の趣旨を説明し始めた。
・幽霊と魂と霊と
幽霊を見る人は大変に多い。
知り合いの桜木さんは幽霊を見たという。桜木さんは大学に機材の納品に来る、理化学機器メーカーの課長さんだ。
大学のそばの居酒屋で飲んだ帰り、桜木さんたちは何人かで連れだって、駅へ向かって歩いていた。
途中、桜木さんは飲み物を買おうと自動販売機に小銭を入れ、ボタンを押した。
ガチャンと飲み物が取り出し口に落ちる。桜木さんは友達としゃべりながら、ペットボトルを取ろうと少し屈んで手を伸ばし、地面に視線を落としたら目が合った。
自動販売機の下から仰向けになった男の顔が目のあたりまで出ていて、桜木さんを見上げていた。桜木さんは数秒間、まばたきも忘れて男と見つめ合い、我に返ってまばたきしたら、男は足を引っ張られるようにして自動販売機の下に消えたという。
桜木さんはその場で尻餅をついた。生まれて初めて腰を抜かしたのだ。
「そりゃモグラたたきの霊ですね」
俺が茶化すと桜木さんは苦笑いをし、道路の側溝にいた変態の話を始めた。側溝に隠れて、女が自分の上をまたいでいく瞬間をひたすら待つらしい。クモかよ。
男は逮捕されるが、刑務所から出てすぐに側溝に隠れたという。性癖は治らないのだ。
3度目に捕まった時、男は「生まれ変わったら道になりたい」と言ったという。
もうね、ポエムだよ、と桜木さんは笑い、昼飯ついでにいっしょにその自動販売機を見に行った。
「こんな狭いところに人間は入れないよなあ」
と桜木さんは靴の先で自動販売機と地面のすき間を蹴った。
すき間は10センチほどしかなかった。
幽霊を見る人が多いことイコール幽霊がいるとはならない。
人間はいい加減だ。いい加減だから幽霊を見るのだ。
幽霊を見たという話のほとんどは、見間違えや思い込み、錯覚だろう。もしかしたら強迫神経症、あるいは統合失調症、てんかんなど幻覚を伴う精神病かもしれないし、病気とまでは言えないまでも、近い精神状態の可能性もある。
桜木さんの場合、本人が
「酒の飲みすぎだな」
と言っていたので、すっかりアル中ですね、と答えておいた。
俺の母親は、俺が病気になると医者より先に霊能者を呼ぶような人だった。子どもの頃、やたらに病気がちだった俺は、母がスピリチュアルに引き寄せられた一因ではあっただろう。しかしだ。スピにも限度ってもんがある。
尿道炎はわかるだろうか。チンチンにバイ菌が入る病気だ。子どもだったので、どうせ汚れた手でチンチンに触ったか何かしたのだろう、4才児の俺は猛烈なかゆみに襲われた。
まったく覚えていないが、電車の中でパンチを脱いでかきまくっていたらしい。俺はクレヨンしんちゃんか。
普通、そういう場合は小児科から泌尿器科へ回され、抗生物質で完治のはずだが、俺のかゆがり方が常軌を逸していたらしく、なぜか母は思った。
この子、憑りつかれている。
後々、この話を聞いた俺は頭を抱えた。
憑りつかれた? チンチンが? 何に?
そういうわけで小児科へも泌尿器科へも行かず、連れて行かれたのは占い師のところで、またその占い師の家というのが怖かった。ボロボロの木造一軒家、部屋が猫臭く魚臭く、障子もふすまも猫がひっかいてボロボロだった。そして蒲田のドンキで見るような、汚れたピンクのトレーナーを着たおばさんが仏壇の前で盛大に線香を炊きながら言ったのだ。
「あんたのダンナしゃんね、蛇に因縁があるっちゃね」
母はゾッとした。蛇を殺したのか? 俺の父親は父親で、何かあると山籠もりするような変わった人だったので、蛇を殺すぐらい平気だ。なんなら食べていてもおかしくない。するとブツブツなにやら唱えてから、数珠を何振りかすると占い師は言った。
「蛇にな、小便ばかけとるけんね」
……。
父親が蛇に小便をかけたら、怒った蛇の怒りで息子のチンチンが祟られた?
「すぐに白蛇様に卵と酒を1合、持っていきんしゃい」
その夜、自宅で父が母に責められていた。
「あんたがおしっこばかけたけん、たーくんがこげんことになっとうとよ!」
父は母の剣幕に言い返すこともできず、大きな背中を丸めてやり過ごそうとしていた。
安心してくれ、お父さん、尿道炎だから。蛇は1ミリも関係ないから。
翌日、俺の尿道から大量の膿が出て、慌てて医者に連れて行かれた。白蛇神社へ母が行く前でよかった。神社に行った後だったら、蛇のおかげで云々と面倒なことになっただろう。
そういう家で育ったので、幽霊を見る人たちのメンタリティは多少とも理解できる。特別でありたいのだ。その証拠が幽霊であり、幽霊を見る能力なのだ。下町の飲み屋で、祖先が源氏や東條英機の親戚のオヤジがホッピー飲んでいるのと同じだ。誰だって何者かでありたい。
そして本人がそう思うのは勝手だが、たいていは俺のチンチンに取りついた蛇の祟りみたいなものだ。蛇の祟りは抗生物質が祓ってくれる。
幽霊を信じる信じないとよくいう。あれは幽霊を見た人の話を信じるか信じないかということだろう。
幽霊を信じるということは、見たというあなたの話はとにかく信じます、目の錯覚だのだのお疲れですねとは言いません、ということだ。
話を信じる信じないが前提って、ネットワークビジネスの勧誘かよ、と俺は思う。絶対儲かるから、俺を信じて、というやつの話ぐらい信じられない話はない。
では自分が見た場合は? 自分が幽霊を見た場合、それが幻覚だ、頭の中で起きたことだとわかるものなのか。見間違いであれ何であれ、外にあるものだと判断できるものなのか。その時、俺は俺を信じられるのか。
・よく来たな、と幽霊は言った
暗い中では、なぜかヒソヒソ声になる。俺は後ろの木蘭にささやいた。
「お前、前行けよ」
「嫌よ」
「じゃあ懐中電灯寄こせ」
「嫌」
グダグダである。大の大人がお化け屋敷で、どっちが前を歩くかでもめたていた。並んで歩くには通路は狭く、怖いから前を歩きたくないのだ。
「こんなに怖いなら来なかったよ」
「私も」
俺たちは恐る恐る音楽室を抜け、通路に出た。この突き当りに坊主頭の少年の霊が……いない。
「なんだよ、いないじゃんか」
俺はほっとして、握りしめていた木蓮の手を離した。木蓮は肩から下げているトートバッグから、周波数測定器を取り出した。
「暗いわね。照らしてもらっていい?」
木蓮から懐中電灯を渡され、俺は木蓮の手元を照らした。
モノクロの液晶画面を波形が動いていく。
「出てる?」
俺が聞くと木蘭は首を傾げた。
「15ヘルツや17ヘルツあたりの低周波は若干出てるけど……どうかな」
木蓮は壁に向かって背伸びしたり屈んだりして、低周波を拾おうとした。
「平さん、これ持って天井の方に手を伸ばしてもらえる?」
俺は測定器を片手で持ち、壁と天井の境目あたりに向かってマイクを向けた。木蓮が懐中電灯で測定器を照らした。彼女は目を細めて画面を見上げている。見やすいように傾けると
「出てるけど出てない」
と木蓮はガッカリしたように言った。
「瞬間的には出てるけど、持続しない」
俺は木蓮に測定器を渡した。
「音ってどこ通るかわからないんだろ? 床とか反対側とか測ってみたら?」
そうね、と彼女は言うとその場でしゃがみ、通路の壁際にそって音を測り始めた。ジーンズがずれてハイレグのショーツとお尻の割れ目が見えた。
このゴムはカルバンクライン。
暗くてもそういうところだけは暗視カメラのように見えるのが男の性だ。
「いろんな周波数が混ざってる。超音波出てるけど、なんで?」
ブツブツ言いながらあちこちに測定器のマイクを向ける木蘭のお尻を眺めていたら、急に木蓮が立ち上がり、振り向いた。俺も何ごともないかのように言った。
「採れた?」
「出てるけど、最低30分は続かないと幽霊を見る効果はない」
なんでここでみんな見るんだろうね、と木蓮は不思議そうな顔だ。
「ちょっと待て。30分?」
「そうよ?」
「ここで?」
「ここで」
あのさあ、と俺は言った。
「この場所に30分、じっとするやつがいるか? 入り口から出口までで30分かからんぞ」
「あ」
「あ、じゃねえよ」
極低周波で幽霊を見るのなら、お化け屋敷の滞在時間が短すぎる。
「低周波は意外と遠くまで届くから」
「じゃあ入り口で測れてないとおかしいだろ」
「入り口は何も出てなかった」
「低周波が出るタイミングがあるってことか?」
「ボイラーとか?」
ボソボソと言い合いながら、木蓮がビニールをめくりかけた。体育倉庫の設定の部屋が最後だった。通路との間は、屋台のように半透明の厚手のビニールシートで区切られていた。俺は手を伸ばし、垂れるビニールを押さえようとした。
その時。
(何か変だ)
「ちょっと待て」
俺は木蓮の肩に手をかけて止め、彼女の前に出た。
この感じ、
覚えている。
天狗だ、と思った。
小学校1~2年の時だったが、月に1度、俺は母親に連れられて山へ行った。母からは遠足だ、ハイキングだと言われたが、そうじゃないことぐらいわかる。白衣に白袴で十数人、多い時は三十人あまりが連なり、山を歩くのだ。俺以外の子どももよく参加していた。当時の母は、修験道のひとつで古神道に依った宗派にかぶれていたのだ。
子どもの足に合わせてみんなゆっくり山道を歩いた。歩くうちに、目に見えないエリアに入ることがあった。
うるさいほど鳴いていた鳥が急に鳴き止め、風のそよぎと葉擦れの音が消え、カサコソと茂みを揺らしたトカゲや蛇の気配が消えた。
音量を急にゼロにしたような静寂が訪れる。
心なしか風景から色が消えた気がする。青みがかったモノクロームの中に俺たちは立っている。
ほんのわずかな時間、そういうことが起きた。
大抵は大人が先に気がつき、後ろを歩く俺たちに低い声で言った。
「止まりんしゃい」
そしてその場で周りをうかがった。
やがて音が戻ると母は
「天狗様が通りんしゃった」
と言ったが、何かしら強く静かな意志のようなものが場を支配する感じは。子どもながらに俺も感じた。自然と手を合わせたくなる感じだ。
霊があるのだすれば、あれが霊なのだろう。生死をまたぐ強い意志だ。
シンと音が地面に落ちてしまった静寂。
木蓮も気づいたのか、俺の後ろで黙って息を潜めている。
俺たちは目くばせし、そっとシートを持ち上げ、倉庫の中へ入った。青灰色の薄暗くも跳び箱やボール入れのカゴが見て取れる明るさで、感度の低いフィルムで撮ったようなざらついた空気。
真正面に女の子が立っていた。
小学生ぐらいだろうか、やせた白い服の女の子だ。怪奇学園のポスターに書かれた、気味の悪い女の子とまったくいっしょだ。
なんで?
あまりのことに声も出ず、目が少女にくぎ付けになったまま、俺も木蘭も思わず後ずさりし、互いの手を握った。
薄暗さに色が抜け、服の色もあやふやだが、女の子だ。あきらかに人だ。
怖いが、これは
(子役?)
わざわざ仕込んだのか、堀田社長?
最初の恐怖の波が数秒で過ぎると、急に頭が回り出した。大学の教師だと思っておどかしてやろうと思ったのだろう。
(いたずらが過ぎる)
女の子がさっと走ってきた。
バカにするな、怖くないぞ。
女の子は俺の脇を走り抜けた。手を伸ばせば簡単に届く。腰のあたりを頭が通り過ぎる。触ってやろうか、と思った瞬間だ。
耳元で声がした。
「よく来たな」
男の低い声だった。
俺と木蓮は、同時に女の子の方を振り向いた。どこへ消えたのか、女の子の姿はどこにもなかった。