砕け散った初恋の傍らで
『砕け散った初恋』の青年視点の話です。
対とするため、あえて人物に名前がありません。ご了承ください。
少しふわっとしています。
同じ侯爵家の嫡男とその友人が行く手から歩いてきた。
お互いに興味はないのでそのまますれ違う。
聞くともなく聞こえた話はどうやら婚約者の話のようだ。
婚約は政略的なもの。
お互いに気持ちはない。
事業提携のための婚約だ。
そこに愛だの恋だのを持ち出すのは馬鹿げている。
その点、婚約者はそのへんをきちんと弁えているから気楽なものだ。
そんなことを声を潜めることなく話している。
誰に聞かれても構わないということなのだろう。
場合によっては婚約者の立場を悪くするかもしれないなどと気づいていないようだ。
青年自身は気にしないし、そもそも彼らには興味はないので関わるつもりはない。
そう思っていたのにーー
何故気づいたのかはわからない。
少し先、植え込みの陰に誰かがいる。
さらには何故歩み寄ったのか。
気づかないふりをするのもマナーのはずだが、ふらりとそちらに向かっていた。
そこにいたのは、体を小さくするようにうずくまった少女が一人。
状況から見て彼女が先程の彼の婚約者だろう。
どうやら、政略結婚の相手だと思っているのは彼だけのようだ。
彼の目は節穴のようだ。
彼女のほうは恋の熱に浮かされていたのだろうか。
知らなかったのだろう、彼の本心を。
それを思いがけない形で知らされて動揺している。
いや、傷ついているのだ。
人の気持ちを察するのは苦手だ。
だが早く立ち去ってほしいと彼女が思っていることは伝わってきた。
そのまま彼女の意を汲んで、何も見なかったことにして立ち去るのが紳士的なのかもしれない。
だが、何故かできなかった。
誰にでも優しくする、そんな善人ではない。
それなのに、何故か、気づいたら声をかけていた。
「助けてあげましょうか」
と。
彼女が顔を上げた。
涙は一滴もこぼれていない。
泣いていたわけではなかったようだ。
ほっとしたような胸が痛むような複雑な感情を持った。
それを表に出すことなくいくつか年下であろう少女を見る。
春の空のような優しく柔らかい空色の瞳に木漏れ日のような淡いふわふわとした金髪を持つ可愛らしい顔立ちの少女だった。
何かの均衡が崩れてしまったのか、不意にその瞳が涙に潤む。
知らず息を呑んだ。
涙に濡れた瞳が宝石以上に綺麗だった。
ぽろりとこぼれた涙が、彼女の頬を滑り落ちていった。
*
彼女にとって婚約者は初恋なのだと言った。
初恋を失った。
彼にも覚えのある感覚だ。
色恋には疎い青年にでさえも初恋というものはどうしようもなく甘く苦い思い出がある。
青年の初恋も実らなかった。
少女の初恋のように無惨に砕け散りはしなかったが、静かにそっと役目を終えた。
だから、実らなかった初恋のつらさはわかる。
だからきっと、これは同情で、珍しく手を差し伸べたのも、ただの気まぐれだ。
そう、これはほんの気まぐれだ。
でも何故か彼女の涙に濡れた瞳が忘れられない。
その涙をぬぐってやりたいと手が動きかけたのは誰にも言えない秘密だ。
彼の傍にいるのはつらい。
自分の愚かさにいっそ消えたくなってしまう。
それでも婚約解消はできないのだと彼女は言った。
そんな自分の失恋くらいでそんなことはできない、と。
これは家同士の契約だから。
愛し合うことはなくとも、お互いを支え合うパートナーにはなれるはずだと。
痛みの残る瞳で微笑って見せた。
初恋とは潔癖なものだ。
砕け散ってしまえば元には戻らない。
それでいて砕けた破片は幾重にも心を傷つけ、簡単には忘れさせてはくれない。
婚約者の傍で笑顔の仮面を貼りつけ、何度でも彼女の心は傷つくのだろう。
「もし円満に婚約が解消され、双方の家に新たに契約相手が現れれば、どうですか?」
と訊いた自分は、普段の青年を知っている人間からしたら随分と情をかけているなと驚かれただろう。
自分でも驚いているのだから。
家に迷惑をかけないのであれば、婚約を解消したい。
彼女は消え入りそうな声で、だがはっきりと告げた。
父に相談してみないとどうなるかはわからないが。
その前に彼女に確認しておかなければならない。
「もし、私が新しい婚約者になるかもしれない、としたらどうですか?」
「それでは貴方に迷惑がかかってしまいます。貴方には何の利にもなりません」
「私のほうは構いません。幸いにして私には婚約者はいませんし、そろそろ相手を見つけねばなりませんでしたから」
ちょうどいいーーとは言えなかった。
その言葉は彼女を傷つける。
さすがにそれくらいはわかったし、そこまで無神経にはなれない。
「貴方がいいのでしたら私は構いません」
「わかりました。しばらくつらいでしょうけど我慢してください。向こうからの婚約解消を持ちかけさせてみせます」
「はい」
「貴女を余計に傷つけてしまうことを先に謝っておきます」
「大丈夫です。貴方は優しい方ですね」
「初めて言われましたよ」
そんなことを言われたことは人生の中で一度もない。
彼女は不思議そうな顔をした。
とにかく彼女から許可をもらったので動き出す。
彼女の婚約者の女性の趣味を調べて、理想的な相手と自然な形で会わせた。
もちろんハニートラップなんて使わない。
目指すのは彼女の円満な婚約破棄だから。
彼らはお互いに興味を持ち、少しずつ距離が縮まっていく。
きっと彼女にとってその光景はつらいだけのものだろう。
望んだ光景なのに、その相手は自分ではないのだから。
それでもぐっと耐えている。
無事に婚約が解消されるまでは近寄ることはしない。
変な勘繰りをされるわけにはいかない。
その間にもう一つやることがある。
彼女の婚約者の侯爵家と似た事業を展開できる、もっと利のある家も探してそれとなく双方に情報を流した。
もともと事業提携のための婚約なのだ。
もっと利のある家があればあっさりと移るだろう。
息子も今の婚約に不満を持つようになってきた今なら婚約解消される風向きになるだろう。
あとは彼女の家のほうにも利になる取引先を宛てがえばいい。
彼女の瑕疵にならないように。
家族への負い目にならないように。
その候補として父に相談した。
幸いにして父も彼女の家との業務提携に乗り気だ。
「いいよ。お前が人に興味を持つのは珍しいから。それに、あの子爵家には興味があったんだ」
そう言って水面下で動いてくれた。
感謝しかない。
「お兄様、何だか楽しそうですね」
妹の言葉に目をしばたたかせる。
「あら、自覚はありませんでしたか?」
思わず自分の頬から顎にかけて撫でた。
「なかったな」
「そんなふうに生き生きとしているお兄様を見られただけでも彼女には感謝したいですね」
苦笑する。
「そんなにつまらなそうな顔をして生きていたか?」
「あら、自覚がありませんでしたか?」
どうやら彼女に感謝しなければならないようだ。
彼女にとっては不本意だろうが。
目論見はうまく行き、彼女の婚約者は彼女とは別の女性と恋に落ち、婚約者の家は青年の見つけた家と事業提携をすることにしたようだ。
無事に婚約は解消され、事業提携も白紙になった。
そして今、彼女は青年の婚約者だ。
父がすぐに動いてくれたのだ。
彼女の家との事業提携をまとめ、同時に婚約も調えた。
それと同時に噂をされる前にこちらから噂をまいてくれた。
お陰で婚約解消からさほど経っていない婚約でもうるさく言ってくる者はあまりいなかった。
これ以上彼女を傷つけたくはなかったからほっとした。
今度は堂々と婚約者としての日々を重ねていく。
いろいろなところに連れ出した。
令嬢の間で流行っている劇を見に行ったり、有名な画家の絵を見に行ったり。
公園をただ散歩したり、見事な花の庭園でお茶を楽しんだこともあった。
贈り物もたくさんした。
一般的な令嬢が好む宝飾品や花から始まり、街で見かけたお菓子やちょっとした小物など。
少しでも気晴らしになればいいと思って。
少しずつ彼女のことがわかってくる。
彼女は高価な宝石よりも花や菓子を好んだ。
それも大輪の薔薇やチョコレートよりも小さく控えめな花や素朴な焼き菓子のほうを好んだ。
濃い色よりは淡い色。イメージ的にはピンクだが、緑系が好きらしい。
彼女からは毎回お礼状が必ず送られてきた。
こちらを気遣う言葉が必ず添えられている。
それにくすぐったいような感情を覚える。
だけど、悪くない。
そう、悪くないのだ。
手紙のやりとりも頻繁にした。
自分でも筆まめなほうではないと自覚していた。
それでも彼女との手紙のやりとりは不思議と間を置かずに続いていた。
彼女は控えめに日常のことを記しており、最後には必ずこちらを案じるような一文が記してあった。
押しつけず、返事がなくても構わないような内容だ。
それが心地よい。
だから同じように日常のささいなことを書いて送った。
読んでいてつまらないだろうと思う。
それでも彼女は毎回律儀に内容に触れて返事を書いてくれる。
それが思いの外、嬉しかった。
控えめな刺繍の施されたハンカチを贈られたこともある。
気づけば肌身離さず持ち歩いていた。
家族や友人に向けられるふんわりとした温かい柔らかな笑顔。
春の空の色を瞳に持つ彼女には相応しいあの暖かく柔らかい笑顔。
あの笑顔を向けられたい。
いつしかそう思うようになっていた。
青年より先にあの笑顔を向けられるようになったのは両親や妹だった。
それにもやもやとしてしまう自分に戸惑う。
自分は一体どうしてしまったのか?
しばらくはその気持ちが何なのかわからなかった。
だが、ある日、不意に気づいた。
いつの間にか彼女に惹かれている。
もっと言ってしまえば恋に落ちていた。
初恋は随分と遠ざかり、それ以降、誰かに心惹かれることがなかった。
だから気づくのが遅れたのだ。
気づいた時はうろたえたが、すぐに悪くないと思った。
自覚してしまえば、惹かれていく一方だ。
想いはどこまでも彼女のほうに落ちていく。
ささいな変化にも気づけるようになった。
声から緊張が抜けていく。
青年と一緒に過ごすのが自然になったようで嬉しい。
少しずつ彼女の表情が柔らかくなっていく。
うつむき気味だったのが真っ直ぐに顔を上げている。
少しずつ心を開いてくれている。
それでも彼女は慎重に距離を置こうとする。
政略結婚の相手としての適切な距離を必死に守ろうとしているようだ。
元婚約者の言葉がそうさせるのだろう。
あと少し。
初恋が終わった時の痛みが、彼女を臆病にさせている。
心を寄せるのを躊躇わせる。
焦るな。
自分に言い聞かせることが増えた。
ここで焦ってしまえば少しずつ心を許してくれているのにまた閉ざされかねない。
繊細な彼女は、そうなれば二度と心を開いてくれなくなるだろう。
慎重に、慎重に。
欲しいのは、その心だ。
「どうかしましたか?」
小首を傾げて気遣わし気に見てくるのが可愛い。
できるだけ穏やかに見えるように微笑む。
貴女の心が欲しいのですーーそう言えたらどれぼどいいか。
だけどまだ早い。
この恋を砕け散らしたくはない。
だから当たり障りのない返事をする。
「いいえ、何でもありません」
いつか、きちんと伝えたい。
でもそれは今ではないのだ。
ゆっくりゆっくり時間をかけて彼女の心に寄り添いーーついにその時が訪れた。
ふわりと彼女が柔らかく微笑う。
焦がれてずっと向けられたかった笑顔だ。
舞い上がった。
「好きです。貴女がどうしようもなく愛おしい」
ぽろりと言ってしまった。
彼女が目を丸くする。
それからまたふわりと微笑う。
その微笑みを見て覚悟が決まった。
「聞いてくれますか?」
「はい」
一つ深呼吸をして彼女を真っ直ぐに見る。
「最初は貴女に恋情など持ち合わせていませんでした。手を差し伸べたのもただの気まぐれです」
「知っていました」
少女の笑みは崩れない。
「でも、今は貴女を愛しています」
「私も、貴方が大好きです」
青年は破顔した。幸せいっぱいの顔で笑う。
大好き、というのが彼女らしい。
愛していると言われるより大好きと言われたほうがずっと愛されている気がする。
「やっと、気持ちが追いついてくれたのですね」
「はい。お待たせしました」
堪らず彼女を抱き締めた。
「もう離しません」
「私もずっと一緒にいたいです」
春のような温かいその笑顔の傍らに。
ずっとーー。
読んでいただき、ありがとうございました。
少女の笑顔はあえて「温かい」ではなく「暖かい」と表記しています。
誤字ではありません。
よろしくお願いします。
後日、完全版と言いますか、きちんと名前を出して少女、青年、両方からのを書きたいと思っています。
まだほんの少ししかできていないので、少し先になってしまいそうですが、よろしければそちらのほうもよろしくお願いします。