『第九章~ホークアイから指示が出てる、オールウェポンズフリーだ』
ボクシング部の部室は、高等部校舎の西、体育館の隣の運動部部室群の一角にあり、二階音楽室からは歩いて五分ほどだった。
方城のバスケ部の部室もこの辺りにあるのだが、久作が足を運ぶのはこれが始めてだった。部室に入ると、そこは想像よりも静かだった。久作の腕にあるデジタル時計はまだ十六時三十六分、部活動の時間帯だったが、人影は三つだけだった。
一人は顧問の伊達教師。残り二人はボクシング部部員らしいが、面識はない。二人ともサンドバッグを叩いていた。重い打撃音と雨音が部室に響いている。
「もっと血生臭いとこだと思ってたのだけど、案外と綺麗なのね?」
リカが辺りを見回して言った。と、伊達教師と目が合ったのか、一礼した。部員二人のそばにいた伊達が久作たちの立つ部室入り口に歩いてきた。
「ああ、速河。思ったより早かったな。で? 話というのは? 請求書の話だったらもう少し待ってくれ」
「そちらではありません。ちょっと、サンドバッグを叩かせてもらってもいいですか?」
「はあ? 速河? こんなときに何だ?」
方城が間の抜けた声を上げた。
「うん? まあ、それは構わんが……」
困惑している伊達に「どうも」と言うと、久作はサンドバッグが吊られた方に向かい、そこにいた二人に一礼、空いているサンドバックを適当にパシパシと叩いてみた。
「こんなに固いのか、イメージとは随分と違うなー」
ふっと息を吐き、久作はサンドバッグに向けて左手に構え、一拍置いてから右拳を素早く放った。
バン! と大袈裟な音がしたが、サンドバッグは軽く揺れる程度、殆ど動かなかった。
「伊達先生、どうでしょう? 僕にボクシングの素質はありますかね?」
バン! バン! 久作は二度、打った。
「え? そうだな、筋は悪くない……というより、かなりいい。それよりも速河。素人が素手でサンドバッグを叩くと拳が痛むから、そろそろ止めたほうがいいぞ?」
「時野さんの階級は何だったんです?」
「時野? あいつはウェルター級だったが?」
「ウェルター級というと、あそこの方城くらいでしたかね?」
伊達が、まだ入り口そばに立っている方城を見て、うなずいた。
「そうだ。方城、あの体格に身長なら、ウェルターかミドル、その辺りだな」
「方城がミドル級で、僕はフライ級かライトフライ級辺りで、時野さんはウェルター級。伊達先生はヘヴィー級……。もし僕と方城が戦ったら、どっちが勝ちますかね?」
方城が「はあ?」と再び間の抜けた声で言った。
「速河、確かにお前の筋はいいが、フライ級とミドル級、そもそも階級が違う。当然、方城の勝ちだ」
「僕と時野さんでも、同じくですかね?」
伊達は当然だ、とうなずいた。
「階級差もあるが、素質が違う。同じ階級だったとしても、時野には勝てないだろう。言っただろ? それほどの逸材だったと」
久作はデジタル時計を見た。十六時四十分……頃合だ。
突然、部室入り口扉が勢いよく開き、男性が入ってきた。どうやら部室の扉を蹴飛ばしたらしかった。
「おい! 伊達! さっきの金額……速河、久作? お前たちがどうしてここにいる? まあ、丁度いい。出来るだけ穏便にと思っていたんだが、全員、ここで始末するぞ」
スポーツウェア姿の男性が化学の相沢教師だと一目で解かった。手に木刀が握られていたからだ。
相沢は伊達よりも一回り小さかったが、それでも久作や方城との体格差は雲泥だった。身長こそ方城には及ばないが、むき出しの両腕は固く鍛えられており、視線だけでこちらを威圧している。
方城がリカ、レイコ、そして奈々岡を背後に回らせ対峙し、そこに木刀と鋭い眼光が向けられている。
「相沢……しかし」
「剣道部の連中を動かすのにいくらかかったと思ってるんだ! その上、三百万だと? 冗談じゃない!」
「やめてください!」
そう叫んだのは、奈々岡だった。
「私、もう時野くんの事件を追うのを止めますから! 口外もしませんから! 久作くんたちを巻き込むのはやめてください!」
前に出ようとする奈々岡を方城が必死に押さえていたが、遂には腕を振り払って相沢に近付いた。
「お金はどうでもいいです! これ以上、誰かが死んだりするのはイヤです! だから――」
パン! と大きな音、相沢が奈々岡の頬を平手打ちした音だ。方城が怒鳴りながら奈々岡を引きずり戻した。久作の視線が相沢に飛んで突き刺さる。
「なんだ速河? 何か言いたそうだな? 今のうちに聞いておいてやる」
「今のうち? これだけの人数を全て口封じできると思ってるんですか?」
久作の思考が、止まった。
「ふん。知らないほうが幸せなこともある、前向きに生きろ。警告したのにお前たちは従わなかった」
「親切なアドバイザー? 言っていることはもっともですが、行動が伴っていない」
感情が揺れている、冷静になれ。
「最初の襲撃。あれが単なる脅しだったらこうなってはいなかった。木刀がリンさんに振り下ろされていなければ、ブラックメールなんて無視してもよかった」
「リンさん? ……奈々岡のことか? 少し入院するくらいの警告でなければ、奈々岡は止めんさ。報道部だか何だか知らんが、こいつはしつこいからな」
まだ揺れる、理性の器から感情が零れ落ちそうだ。
「伊達先生から伝わっていると思いますが、被害を倍にしたくなければ、引き返しておとなしくするのが懸命ですよ」
「誰かが通報したらしく、警備会社の連中がやってきた。そこから俺に繋がるまでに、余計な奴は潰しておかなければならん」
「そう。つまりそちらは形勢が圧倒的に不利なんですよ、既に。こちらにはまだ増援もある」
「増援? くくく。それはもしかして、須賀恭介と橘絢のことか? 残念だったな。あちらには剣道部の大将、副将、中堅を送ってある。結果は、二人がここにいない、そういうことだ」
奈々岡が小さく悲鳴をあげた。
「久作くん! 須賀くんとアヤちゃんが! 私のせいで!」
オレンジのハーフフレームから涙が溢れている。
朝、奈々岡が久作を「面白い人」と言った。
ケータイでも無線でもなく、脳から発する電波でリカと会話をしている久作が面白いと。久作は試しに、電波を発してみた。
「相沢、だったよな? アンタ。もしアヤにかすり傷一つでもあったら、まず俺がテメーを潰す! 財布の前にテメーの命を心配しとけ!」
方城に伝わった。
「奈々岡さん。須賀くんやアヤはフツーじゃないの、心配しなくても大丈夫。一流には一流、剣道部には剣道部で対応ってね」
リカにも伝わった。
「久作くんは、かくとーかで、正義の味方! スーパーコンセントレーションでアチョー!」
レイコは、まあ伝わっているか。
「はっ! 何だか知らんが、速河と奈々岡、まずはお前らから口封じだな」
相沢教師の木刀が久作にびしりと向く。と同時に扉が勢いよく開いた。
「こちらホークアイ! 状況をーアップデェェト! 全機臨戦態勢でオールウェポンズフリーだ!」
二つに束ねた金髪が相沢の前を素早く流れ、久作の背後に回った。
「アヤちゃん! 無事なの?」
「当たり前だぞ、リンリン。指揮官機が撃墜なんて、そんなショボい戦略組まねーって、あたしは。自分に護衛機つけずにウロウロする指揮官機なんてありえねー」
なあ? とアヤは久作に向けてから続けた。
「化学の相沢! 傭兵雇うならもっと人選しろ! 量じゃなくて質なんだよ、情報も人材もな!」
アヤに指差された相沢が、倍で怒鳴り返した。
「質? 剣道部の、大将と副将と中堅だぞ!」
「ボギースリー、到着。ほう、あれで大将だったのか。名乗らなかったので気付かなかった。まあ、名乗る暇もなかったんだがな」
「須賀、くん?」
方城に腕を掴れた奈々岡が、涙の合間から絞るように尋ねる。相変わらずしわくちゃの桜桃ブレザーの須賀がこちらも普段通りの口調で返す。
「もしあなたが時間より早く着いたなら、あなたは心配性である。もし遅れてきたら挑発家だ。時間通りに来れば強迫観念の持ち主で、もし来なかったら知恵遅れということになる……アンリ・ジャンソンの言葉だ。スズくん、遅れてすまない。E型装備での警視庁サイバーテロ課への自律ハッキングループプログラムのセッティングにアヤくんの護衛と、学園内をどたばたとして……む? 頬が腫れているぞ? 貴様の仕業か?」
須賀が、手にした木刀……いや、日本刀を相沢に向けた。
「す、須賀恭介か! お前、あの三人を一人で倒したのか?」
相沢が素早く木刀を須賀に向ける。二人の距離は須賀の歩幅で五歩ほど。
「速河、話はもう終わったのか? 終わったのならこいつらをさっさと倒すぞ。でなければ俺が露草先生に怒鳴られてしまう。何でも今晩は用事があるらしい」
露草の用事。そういえば飲み会があるだとか言っていたな。久作は思い出して、伊達を見た。
「話は、まあ終わったかな。伊達先生が時野さんを殺害して、そこの相沢先生と一緒に首吊り自殺に偽装した。これが真相だよ」
久作の科白を聞いた奈々岡が方城の背後で崩れ落ちそうになるのを、リカとレイコがかろうじて支えていた。伊達が目を丸くして枯れた声で返す。
「何? あれは自殺で――」
「奈々岡さんは時野さんが自殺した動機を探していたけど、そんなものはない。ないものを探すなんて不可能で、人は動機もなしに自殺なんてしない。自殺でなければ、状況からして他殺だ」
「だが! 時野は遺書を!」
「退部届けでしょう? 誰が言ったか、疑うことは理解の第一歩でもある、と。書類の上下左右、どこかにある「退部届け」という部分と日付を切り取ってしまえば遺書とも読める、首吊りであの文面ならね。筆跡鑑定から警察もそう判断したんでしょう。あくまで想像ですが、最後のスパーリングだとか言って時野さんをリングに上げて殺害。それを自殺に偽装した。ここ、ボクシング部から中等部二階の音楽室までわざわざ運んで、吊り下げた。そちらの相沢先生と一緒にでしょうが、残酷で、悪趣味極まりない」
思考の揺らぎが収まりつつあった。オールクリアまであと僅か。伊達教師は沈黙し、それを木刀を構えた相沢教師が次ぐ。
「速河久作? 須賀恭介に劣らずの成績で賢いらしいが、それはお前の推測、いや、妄想じゃあないのか?」
「目の前の状況と手元にある情報を多角的に分析した上での推察、プロファイリングというあれですよ。退部届けが遺体にあった、これだけで充分ですが、ハッキングにメール傍受に盗聴。更に学園のセキュリティシステムまで乗っ取って、果ては剣道部員で襲撃。奈々岡さんは必死の警告だと言っていたけど、それにしてはやりすぎだ。そこまでして隠す、時野さんの死因がスパーリング中の事故だとはとても思えない。プロライセンスを持っていたヘヴィー級と、素質だけで素人のウェルター級。ヘッドギアもグローブもなしなら一撃で即死だ。プロライセンスを取得したのに実績を残せなかった伊達先生が、時野さんの才能をねたみ、憎しむ。動機はどうあれ、殺すことはない」
ゆれていた思考の地平線が、弧を描いて止まった。
「警察や探偵じゃああるまいし、犯罪がどうとか、そういうのは正直、僕にはどうでもいい。ミュージシャンの道だってボクサーに負けないくらい大変なものだ。成功するのはほんの一握り。それにチャレンジしようという時野さんにあれこれいう権利は誰にもない。当然、あなたにもだ。僕はそれに対して怒ってるんだ。成功するか失敗するかなんて考えるのは時間の無駄だ。才能だの資質だの、そんなことはどうだっていい。本当にやりたいことを、やりたいだけ、目一杯やる。それでいい」
久作は一歩踏み出し、伊達と真向かいになった。左足を前にしてかかとを浮かし、両拳を顎の高さで構える。
「過去を穿り返すとどういう目に合うのか、伊達! 全員潰すぞ!」
須賀と対峙している相沢が怒鳴ると、伊達が大きくうなずいた。
「一年の速河久作、だったな?」
棒立ちのまま伊達教師が言った。先ほどまでと違って声色が黒い。
「さっきのサンドバッグといい、そのファイティングポーズといい、只者ではない。噂で少し聞いたことはあるが、お前は格闘家か?」
「その質問には飽き飽きする。僕は格闘家じゃあない。どこにでもいる平凡な……」
久作の視線が、方城の後ろにいるレイコとぶつかった。
「正義の味方!」
「そんなところだ。須賀、話は終わった。ホークアイから指示が出てる、オールウェポンズフリーだ」
「了解だ、ボギーワン。相沢、可愛い部員の下に送ってやるから感謝しろ。近所の病院だ」
ガン! 相沢の木刀と須賀の日本刀の鞘{さや}が激突した。
「須賀恭介! 俺の初太刀をさばく生徒など剣道部にもいない! どうして中等部で辞めた! 一年で全国四位、それで満足したか!」
相沢は木刀を引き、小手の軌道で須賀の腰を狙うが、須賀の鞘がそれを受け弾いた。下を向いた須賀の鞘がすくい上げられ相沢の顎を狙うが、木刀で阻まれる。
「ブランクがあってこの鋭さ! 部員が倒されるのも当然か! 何故続けない! そんな模造刀を振り回してチャンバラごっこが楽しいか!」
「何ともやかましい奴だな。俺がなにをしようと俺の勝手だろうが。辞めた理由は単純だ。アヤくん?」
「リカちゃん! 預けてたカバン、それ! 須賀恭介!」
アヤが、リカの持つ黒いカバンから持ち出したそれを須賀に投げ、須賀が器用に受け取った。
「ボギースリーの特殊兵装、これが理由だ」
相沢の木刀の先端が中段でぴたりと止まり、目が見開かれた。表情は驚いているようにも、困っているようにも見える。
「……二刀流?」
「二天一流、「五輪書{ごりんのしょ}」の宮本武蔵だ。お前が剣道部顧問なら知っているだろう、高校生以下で二刀流は禁止だとな」
二つの日本刀を構えた須賀が、当たり前だという風に吐き捨てた。
「速河、どうした? かかってこないのか?」
久作越しに相沢と須賀を見ている伊達が、低く潰した声を発する。構えていないが、強烈な威圧感が吹き出ている。
「受けてやるから殴ってみせろ、と? 素人のライトフライ級と、元プロのヘヴィー級なら、まあそうでしょうね。とりあえず右ストレートを出してみます。リンさん?」
奈々岡がぴくりと跳ねた。奈々岡はかつてのボーイフレンドが自殺ではなく他殺だったこと、その犯人が目の前にいること、とにかく全てが信じられないという状態で、うつろだった。混乱しているのか、感情が処理能力を超えているのか、呆然である。リカから一眼レフを渡されたことに気付くのにしばらくかかった。一眼レフはリカの持つカバンから出てきた、奈々岡自身のものである。
「リンさん!」
再び久作が言うと、どうにかハーフフレームが久作を向いた。リカが優しく肩を叩いて、奈々岡に一言。
「ジャーナリスト、なんでしょ?」
奈々岡は首から下げられた一眼レフに視線を落とし、間を置いてから「あっ!」と小さく叫び、構えた。ファインダーに、ファイティングポーズの久作と、二刀の須賀があった。
「八十対七十七、三点差で負けてる。残り時間四十秒で体力ゼロ。俺は気合で引っくり返すけど、リンならどうすんだよ?」
方城は二人のボクシング部員を警戒しているが、仕掛けてくる様子はない。
バシャッ! バシャッ! 二度のフラッシュが久作と、須賀を捉えた。久作はリカに「ありがとう」と電波を送り、全体重を右腕に乗せ、伊達の頬に叩き付けた。が、伊達は少し揺れた程度だった。
「……速河。さっきはいい筋だといったが、違った。お前は時野と同じ素質がある。フォームから何から、ほぼ完璧だ。こういう状況でなければ、俺はお前をボクシング部に誘うだろう」
「なにー!」
叫んだのは、方城の後ろに回っていたアヤだった。
「速河久作の一撃でビクともしないって、ありえねー!」
二つに束ねた金髪がぴょんぴょんと跳ねている。久作は、当然だ、と電波を送った。体重差と筋力差。どれだけ完璧なストレートを打ったところで、目の前の伊達は倒せない。先ほどの右ストレートは、久作から時野氏へのレクイエムなのだ。
ボクシングスタイルでは勝負にならないことなど、最初から解かっている。それでも、どうしても、この一撃だけは放っておきたかった。
ダメージは全くないが、伊達の歪んだ顔は奈々岡の一眼レフに収まった。自分に出来ることはここまでだ。久作はファイティングポーズを解き、伊達をにらんだ。
「素質と言われて喜べないのは、最悪な前例があるからです。あなたの言葉は真実かもしれないが、それを判断するのは聞いている僕だ」
「それで、どうする? 俺はお前を殺すだろう。その後、方城とその後ろの連中がどうなるか、解かるだろう?」
「方城があなたを倒す」
「速河! 期待を裏切るようで悪いが、俺はそいつに勝てる自信がねえ! 俺はどうなってもいいが、アヤとかリンだ!」
久作の平坦な思考の上を、方城の言葉が滑っていった。
「伊達先生……僕はもう満足しました。時野さんはスパーリング中の事故死で、自殺偽装はその隠ぺい工作、これでいいです」
「おいおい! 何だ速河! いきなりどうしちまったんだ? 事故死って、そいつはお前を殺すって言ってて、それってもう自供だろう? 完璧に犯人じゃねーか!」
「だったら自首すればいい。言っただろう? 僕は警察でも、探偵でも、ない」
久作はゆっくりと口に出し、それを自分で噛み締める。伊達の顔をわずかに歪めた右ストレートは奈々岡の一眼レフに収まった。久作が時野氏に対して出きることはそれで全てだった。今更だが、須賀の言った通りだ。
音楽室でストラトをかきむしって、ここでレクイエムの右ストレートを放った久作には、廊下ですれ違ったかもしれない、教室で喋ったかもしれない、今は亡き同級生に対して出来ることはもう何も思い浮かばなかった。
ガガン! 激しい打撃音に方城は、須賀と相沢を見た。奈々岡のファインダーもそれを追う。相沢の木刀と、須賀の左の日本刀が激突していた。右が風を切り相沢の脇腹を捉えた。ドン! と派手な音がして、相沢がよろめいた。
「須賀恭介! 二刀は飾りじゃない!」
「当たり前だ。誰が冗談で二天一流などやるものか。貴様の打ち込みは大したものだが、太刀筋に魂がない。スズくんを襲わせるような剣道など、俺の敵ではない」
言い終わった直後、須賀の左が相沢の木刀を打ち落とし、右先端が頭頂部を打った。鈍い打撃音で相沢の意識は消え、その場に崩れ落ちた。
「やった! 須賀くん!」
リカが笑顔になったが、振り向いた須賀の表情は険しかった。久作への言葉も、どこか険しい。
「速河、お前の口癖だったな、「僕は格闘家じゃあない」と。そこで満足して止まる、そういった結論に達する、それもいいだろう。剣道をかじった、武道家の端くれの俺には理解できないがな」
須賀の言葉もまた、方城のそれと同じく久作の思考の上をひらひらと飛んでいった。久作の両目は伊達を向いているが、見てはいなかった。伊達をすり抜けた先、もっと奥の、それこそ時野雄一の背中を探しているかのようで、焦点が定まっていない。
一転した久作の様子にもっとも驚いたのは、奈々岡だった。事態の二転三転で感情が完全にパンクしているが、かすかに残った理性で、豹変した久作にファインダーを向けてシャッターを押すことができた、が。
「奈々岡ぁ!」
辺りを震わす怒声の直後、左フックが奈々岡を襲った。久作の目の前にいたはずの伊達が、後方、奈々岡たちの前にいた。飛んで奈々岡の前に割り込んだ方城の胸元を、伊達の左フック、巨大な拳がえぐり、数ミリ、へこませた。派手な音をたてて方城が墜落する。
「ゲフッ! 何だそのクソ重たいパンチは! また、あばらがイっちまったぞ! 殺す気かよ!」
咳き込み、激痛を抑えつつ、方城は奈々岡をリカたちに向けて突き飛ばした。荒い呼吸に異音が混じっている。床から体を起こし両膝をついて見上げた先に、伊達の柔らかい笑顔があった。音楽室での接見以来、始めてみる表情に方城は舌打ちした。
「ああ、そうか! マジでヤるってんだな? よーし! やってやろうじゃねーか! 桜桃バスケ部のスコアリングマシーンをナメんな! 最大MAXドライヴのスピンムーブ! 喰らっえ!」
全身のバネを伸縮させた方城の、渾身の回転ローキックが伊達の太股を捉えた。が、伊達は微動だにしなかった。
「えーー! 方城護の必殺スピンムーブが効いてないって? ありえねー!」
レイコの背中に飛び乗って肩車状態のアヤが、信じられない、と叫ぶ。リカは呆然とし、突き飛ばされて安全圏にいた奈々岡もまた同じくだった。
「木人かテメーは! ふざけるのもいい加減にしやがっ!」
次、伊達のフックは方城には見えなかった。肝臓{レバー}を強打されて、全身から力が抜け、両膝を突いてからしばらくして激痛が走り、そして、倒れた。
「ふっ、怯えてすくみ上がった自称格闘家に、球遊びのスポーツマンか。こんな奴らに翻弄されていた自分を情けなく思うな」
「ぎゃー! 方城護が死んだー!」
レイコに肩車のアヤが、リカと奈々岡に向けて叫ぶ。奈々岡が卒倒しそうになり、同じくのリカがかろうじて支えたが、すぐに揃って床に座り込んだ。
「レーコ! 方城護の仇討ちだ! 当たって砕けろの鳳凰の構え! 二段ヴァージョン!」
「アッチョーー!」
「待てコラ! ゴホッ! 勝手に殺す、なぁー!」
アヤの号令で走り出そうとしていたレイコの細い足首を、方城が間一髪で捕まえた。
「速河! お前のことはそれなりに知ってるつもりだ! この程度で速河がビビるかよ! お前は「敵」とじゃなきゃ戦えない、そうだろ? こいつが犯罪者か悪人かなんて俺にだって解かんねーよ。でもな!」
レイコの足首をがっしと握り、方城は立ち上がろうとするが、浮いた膝がすぐに落ちる。
「足にキてやがる! 見えてるか? 速河! 俺でこうだ! パンチがたったの二つだ! もう一発喰らったら、次はアヤとレイコで、リカにリンだ! スコアラーの俺はな、相討ち玉砕覚悟なんて博打みてーな一発勝負はガラじゃねーんだ! そんなもんは勝負でも試合でもねぇ! っつーか! この野郎はどっから見ても敵だろうが! 何でもいいからさっさと気付け!」
方城の怒声に、久作の思考は爆発した。
……敵?
世界史の教師である伊達。元プロボクサーが? 何だ? だいたい、どうして方城が倒れてる? おかしい。事件は解決したはずだ。犯人は伊達、そして倒れている相沢。犯人? 事件? 待て、どこからそんな話になった?
奈々岡が時野雄一というピアノマンの自殺を独自に追っていて、その試合の助っ人としてリカが方城を投入、違う! 助っ人は僕だ! だったら方城が倒れているのは尚更おかしい。試合には勝利した、奈々岡の希望通りに。それなのに、どうして奈々岡はまた泣いている? どうしてアヤは絶叫している?
ピアノマンはこれでは満足しないのか? 何が希望だ! 時野雄一!
「速河、迷うなよ。スズくんにも言ったが、何をしても死者は蘇らず、また、喜びも悲しみもしない。俺の剣は活殺、人を生かすためのものだ。ここに相沢が倒れているのは、時野氏のためではない。スズくんやリカくん、皆のためだ。速河……お前は誰だ?」
「コンセトレィション!」
須賀の最後の一言、「お前は誰だ?」が久作の思考を強引に加速させ、突然の加速Gのブレをレイコの科白が修正した。
僕は誰だ? 名前は、速河久作。
ホンダXL50Sという古いオフロードバイクを愛車にして、いつか保健室の露草葵のカフェレーサー・ラベルダ750SFCくらいの強烈に魅力のあるバイクに乗りたいと思っている、高等部1‐Cの男子生徒だ。成績はまあ良い。アヤや奈々岡によると、見た目や評判もそう悪くはないらしい。
実は少しだけ格闘技が使えるが、これはあくまで緊急時のもの。
例えば、リカ、アヤ、レイコの「リカちゃん軍団」や、方城や須賀が危険に晒されたりしたときにだけ、少し使う程度。つまり、危険でなければ全く誰の目にも触れられない、あってもなくてもいいようなもの。
伊達がスーツの上着を脱いで、シャツの腕をまくりあげている。鋭い目がにらんでいる。誰を? 僕、速河久作をだ。何故だ? 自分が時野氏の殺害に気付いたからか?
ヘヴィー級のファイティングポーズは、それだけで迫力がある。相手は元プロボクサー、当然か。伊達がファイティングポーズなのは、僕が時野氏殺害の全容を、犯人である伊達に告げたからだ。そうすれば相手がこちらに牙をむくとわかっていて告げたのは、伊達と相沢と剣道部員による電子戦と襲撃が、奈々岡の精神を追い詰めたからだ。まずはそのお返しをしたかったから、三百万の請求書なんていう話もした。勿論、ピアノマン・時野氏の無念もある。伊達が跳ねるように左右に揺れている。そのフットワークから、低い左フックが出た。
とんでもない速さだ!
アクセル全開フルスロットル! 全く間に合わない! ラプター、超音速巡航! マッハ1.58! まだダメだ! アフターバーナー点火! マッハ1.7、ラプターの最大速度! ブレているが左フックの軌道が解かった。狙いはこちらの脇腹だ。着弾まで、0.2秒。重心を落とし、右足を前に。左フックは素手だ。まずは防御。気を練り、右肘の化勁{かけい}で左フックを左側に打ち流す。
バン! 久作は通常思考に戻った。
「何! 何だ! ガードするでもなく、俺のフックが……どうなった?」
「ったく、やっとこで全開か、遅せーよ! 痛ってぇ!」
「よっしゃ! 速河久作ホンキモード! リンリン! 写真撮ったか?」
レイコに肩車のアヤが奈々岡の頭をバンバンと叩いて跳ね、方城が激痛のなかでニヤリと笑む。
「い、いちおうシャッターは切ったけれど、撮れたかどうかは解からないわ。だって……速過ぎるもの!」
奈々岡は唖然としていたが、アヤは「当然だ!」と何故か自慢げだった。
「速河流八極拳は無敵なんだよ、なー、レーコ?」
「アチョチョチョー!」
レイコの拳が素早く数発、突き出された。
「八極拳? そんな得たいの知れないものに!」
伊達の再度のファイティングポーズに、久作は構えない。速河流八極拳に構えはないのだ。次はもっと強烈なのが来る。
アクセル全開から、いきなりアフターバーナー点火。一秒で思考がマッハ1.7に達する。伊達は左ジャブを出したが、これは次の右ストレートのためのけん制だ。けん制だが、速過ぎる! 素手の拳の先端がブレてよく見えない。
次が右ストレートなら……考える暇がない。
重心を右足にかけて右肘の化勁でジャブをすくい上げる。コンビネーションの右ストレートが飛んでくるが、軌道は、変わっていない! 顔面を狙っている。ならば、左掌の化勁で真横に打ち払う。とんでもなく重たく、軌道は五センチほどしか変わらないが、首を傾ければかわせる。
ブンと風を切る音がして、再び通常思考。伊達は一旦離れた。
「やれやれ、スロースターターかと思えば毎回そんなだな、速河は。お前の定石破りのSFっぷりには慣れていたつもりだが、相手がボクシングなら、せめてブロックでもしてやるのが情けだというものを。元プロボクサーに残っていたガラスのプライドが砕ける音が聞こえるぞ?」
意識のない剣道部相沢の横に立つ須賀が、含み笑いでつぶやいている。
「……そんなバカな話があるか! 俺の右ストレートを、かわした?」
当たり前だ。あんなものを喰らったら一発で即死だ、かわすに決まってる。スーパークルーズ!
伊達はヘヴィー級の元プロボクサーで、年齢は露草よりはかなり上に見える。三十代半ばといったところだろうか。パンチは左も右も速くて重い。化勁でも受け流すのが精一杯だ。
そういえば、誰かがボクサーは目が命といっていた。
伊達の拳がブレて見えないということは、動体視力が追いついていないということだ。右ストレートは軌道は読めたが、拳は見えなかった。肌色の塊が顔の真横を通り過ぎた、ただそれだけだ。音速の動体視力でも追いつけない。
「さあ、どうする? 速河久作?」
自分で自分に問う。音速で追いつけないなら……加速だ!
今は六月、梅雨の真っ只中だが、雲の上は快晴。そこをラプターは飛び回る。
伊達の右ストレートはラプターでも捉えるのが難しい。空の遥か上は宇宙。ジェットインテークを閉じてロケットブースター点火、加速して成層圏を突破、加速Gと伊達が迫る。
強烈な左ジャブだが、超加速思考ならそのジャブはくっきりと見える。
丸太のような腕の先にごつごつとした拳。伊達の顎の下にある右の拳も同じくで、左ジャブが引くのを待っている。左ジャブが引く反動であの重たい右ストレートが突き出てくる。ワン・ツーの単純なコンビネーションだ、かわしてもいいし、受け流してもいい。
が、あの右ストレートは時野という同級生ピアノマンの命を奪ったものだ。おそらく左も。
ワン・ツーのコンビネーションでピアノマンは脳挫傷か何かで死んだのかもしれない。司法解剖に回されていないので死因は首吊りによる窒息死となっているが、頭をあの凶器が打ったのは間違いない。内臓破裂ならうっ血があり、科捜研がそこから他殺という結論を出すだろう。テンプルを狙えば顎が外れ、顔面なら鼻の骨が折れ、どちらも外傷・他殺と繋がる。ならば、ワン・ツーの拳は側頭部を狙ったのだろう。
ワン、今、迫っている左で頭を横に向かせて、そこにツー、右ストレート……殆ど曲芸だ。凶器による曲芸。
目が命というが、まずはその拳を砕かせてもらう。
指揮官機ホークアイからの命令を復唱。「オールウェポンズフリー」、要するに「手加減ナシ」だ。
左ジャブがやっと来た。右足を前に、左足を後ろから回して、気を練った左肘の発勁{はっけい}を左ジャブの中指に突き刺す。背中を向けている状態だ。右ストレートの軌道は解かっているからかわしてもいいが、あれは絶対に破壊しておかなければならない。
突き刺した左肘を軸に身体をもう半回転。伊達の右側、向こうからは左に位置した。右ストレートは……妙な位置にある。いちおう出しました、というような中途半端な位置だ。
強く握られていたはずの左拳は歪んで砕けている、こちらにもう用事はない。右拳とは距離がある、どうする? こういうのはどうだろう。
まず邪魔な左ジャブの残骸をくぐり、右足を大きく一歩踏み出し、床に打ち付ける。伊達の真正面、密着するような位置だ。ここから目の前にある凶器の右拳に向かって右肘の発勁!
手応えあり。親指が折れて、他の指の骨も全部砕いた。伊達の顔が歪んでいる。そういえば、あの顔にまともな一撃を入れていない。レクイエムの右だけだ。この位置からなら、左肩だ。重心を下げて左足を床に打ちつけ、方城へのお返し、最大級の発勁の左肩を顔面に、放つ!
背中越しに伊達が吹き飛ぶのが見えた。八極の大爆発は伊達の頭を胴体からもぎ取らんばかりに炸裂、鼻だった部分と上顎が陥没して、赤黒い血と歯と骨の欠片が吹き出した。
バシャッ! シャッター音がして、久作は通常思考に戻った。
超加速思考が長かったので、頭が朦朧としている。
伊達の二つの拳は砕いたはずだ。顔面にも大きな一撃を入れた。もう危険ではないだろう、そこまでしか解からない。奈々岡が何か言っているが上手く聞き取れない。ありがとう? そんな感じの言葉だ。アヤとレイコが抱き合っている。喜んでいるらしい。方城も何か言っている。ガッツポーズで、凄いだとか。まあ、かなり頑張った。
リカと須賀も笑顔だ。先月の事件以降の公認カップル、その隣に露草の姿があった。
いつからいたのか知らないが、ややこしい事後処理は露草先生にお任せ、いつものパターンだ。露草は呆れていた。そして、少し怒ってもいた。そうか、今夜は飲み会があるといっていたが、制服の警察官が数人入ってきている。飲み会はキャンセルだ、申し訳ない。
とにかく頭が回らない。いや、ぐるぐる回っている? どっちだろう。
冷静ではあるし、感情が乱れているということもない。ただ、今は保健室のベッドで眠らせて欲しい、それだけだ。あと、身体に負担がかかったようなので、肩を貸して欲しい。
そんなことを言ってみたら、奈々岡とアヤが両脇から頭を出した。アヤちゃんでは小さいと言ったら、怒られて、レイコが顔を出した。奈々岡とレイコの体型は殆ど一緒なのでバランスがいい。疲れているので、体重の半分を両脇に預けた。二人とも、何だかとても柔らかい。
ダメだ、意識が飛びそうだ。秘密兵器の超高速思考は諸刃の剣、使い捨てのロケットブースター、そんなものだ。
……もう保健室だ。歩いていたつもりだが、どうやら途中で意識が飛んだらしい。
どうでもいい、今はベッドだ。
リングブーツを脱ぎ捨て、上着を脱いで横になる。身体が楽だった。眠りに付くまではほんの数秒。誰かに何かを言いたかったような気がしたけど、思い出せない。
そして、おやすみ……。