『第六章~ボギーワンはクイーンの涙に弱い、繰り返す』
1‐Cの三限目、数学の授業風景は、かなり奇妙なものだった。
年配の仲迫{なかさこ}教師、彼の生徒間でのよろしくない評判は、この一ヶ月で一転、なかなかのものになっていた。
先月の幾つかの授業で仲迫教師は、須賀とアヤからの凄まじい攻撃を受けて一度、木っ端微塵に爆散した。年功序列、生徒は単なる子供といった認識を覆された仲迫は以降、授業をやたらと難しくすることを止め、きちんと教科書どおりに進めるようになり、時折、生徒を褒めることさえあった。まだ慣れていないようでリカからはとてもぎこちなく見えるが、それでも以前の傲慢と粘着質が嘘のような気軽さを示す中迫は、本人の努力の分だけ好印象を与えた。
奇妙なのはそんな仲迫ではなく、リカの右耳にあるイヤホンから聞こえる会話、こちらだった。
「こちらHQ。ボキーワン、状況を知らせ」
「ボキーワンよりHQ。AKVウィザードまであとフタマル。天候は最悪、状況はクリア、どうぞ」
「HQ了解。回線はこのまま、警戒を厳に。交信終わり」
リカは、眼前のホワイトボードと、明るく振舞う仲迫を見て、ふうと大きな溜息を一つ、ロングヘアをかきあげた。アヤの言うように、深く関わるのは止めておいたほうがいいとリカも思った。理由はあのブラックメール。
アヤの説明どおりなら、危険どころではないからだ。それでもリカが強く反対できないのは、同じくブラックメールである。自分のケータイアドレスと住所が顔も知らない他人に知られている、これほど不快で不気味なことはない。自分も既にとても危険なのだろうとも解かる。だから今なら止めてもいいというアヤの意見に賛成したいところだが、久作と須賀は完全に逆の姿勢だった。
それが、もっとも危険な立場にある奈々岡を思ってのことだとは解かる。アヤはまあ一人で大丈夫だとして、自分とレイコも現時点では大丈夫かもしれない。アヤや久作、須賀に方城がいるからだ。それはつまり、奈々岡一人では危険であるという意味でもあり、既に知らない仲ではない彼女をそのままにしてはおけない。無理矢理考えを脱線させても、リカの結論は久作と須賀のそれと同じだった。だから、リカの耳にはイヤホンがあり、そこから奇妙な会話が聞こえているのだ。
「ボギーツーより全員。二問目が全く解からん。敵がこっちを見てる、ヘルプ」
「ボギースリーよりボキーツー。お前は撃墜されてしまえ」
「HQより各員へ。真面目にやれ。これはカンニングの装備じゃねーの、交信終わり」
窓寄り最前列に座るリカは、教室入り口近くの方城をにらんだ。こんなことがバレたら、態度を一新した仲迫先生だって怒る、と。リカは胸元のピンマイクに、はあと溜息を吐く。アヤのカバンから出てきた「間に合わせの装備」は、ケータイを使って全員を繋いでいた。頭痛だか腹痛だかと言って教室から姿を消した久作とも繋がっている。リカは最前部、仲迫教師のそばなので積極的に会話には入れないが、ぶつぶつとつぶやく程度でピンマイクは声を拾うらしく、ホワイトボードを向いたままでも会話ができた。
「こちら、えーと、ナントカ。HQ、ここまでやる必要があるのか凄く疑問」
「ナントカ? コールサインはグレイハウンドだ、忘れんな、オーバー」
「はいはい、こちらグレイハウンド。大袈裟すぎて逆にバカバカしく思えてきました。全員に授業を真面目に受けることを提案します」
最後にリカの溜息が入った。と、リカの耳にあるイヤホンが怒鳴った。
「こちらボギーワン、状況をアップデート! クイーンを発見! 更にクイーン周囲に識別不明機が二つ、いや三つ! 接触まで十秒!」
「なにー!」
アヤが大声を上げて立ち上がったので、教室がざわついた。
「うん? どうした橘? 解からないことがあれば遠慮なく質問していいぞ?」
仲迫教師がホワイトボードから振り返り、あまり似合わない笑顔でアヤに尋ねた。アヤはホワイトボードに並ぶ公式の一つを指差し、それがどうとか適当なことを言って座った。
「こちらグレイハウンド! 大丈夫なの?」
「ボギーワンよりグレイハウンド、識別不明機は交信に応えず。クイーンに危険があると判断、識別不明機を敵機に設定」
「こちらボキースリー、支援が必要か? 敵の装備が解かるか?」
「装備は木刀、支援の必要はない。HQ、交戦許可を求む」
リカ、須賀、そして方城が、教室中央のアヤを見る。中迫からは、先ほどのアヤの絶叫の余韻のように見えたであろう。
「HQよりボギーワン。交戦は許可できない。繰り返す、交戦は許可できない。クイーンの安全が最優先。ウィザードへ退避せよ」
「何!」
ボギースリーこと須賀が通信と教室を震わせた。
「……ボギーワン、了解。努力してみる」
「グッドラック、交信終わり」
「終わっていいのか? えー、こちらボギーツー」
方城への返事はなく、交信は一旦終わった。
1‐Cから歩いて二分ほどの廊下に久作と奈々岡。その周囲に三人。久作はそのどの顔にも見覚えはない。
「久作くん! こんなところで何を? 今は授業中よ?」
奈々岡は冷静を装っていたが、語気が荒い。
「その質問はそこの三人にだよ。奈々岡さんがどうしてこんなところにいるのかはいいとして、だんまりを決め込んだ三人――」
すっと上段に構えられた木刀が、予想以上の速度で振り下ろされる。奈々岡の肩の辺りを狙っている。奈々岡の前に素早く滑った久作は、木刀を右肘で横に払った。ゴン! と鈍い音が廊下に響く。
「問答無用でいきなり木刀。当たり所が悪ければ病院だと解かっててやってる。ちなみにリンさん、この連中に見覚えは?」
「け、剣道部。名前は……ごめんなさい、覚えていないわ」
もう一人が奈々岡に木刀を振った。横一文字のそれを久作は飛んで左鉤手{かぎて}で打ち払う。狙いはあくまで奈々岡だけらしい。先に久作が防いだい上段が、再び奈々岡に振り下ろされる。
「さあ、どうする? 速河久作!」
アクセル全開、久作の思考が一瞬でフルスロットル、法定速度を超えた。
木刀の先端がゆっくりと奈々岡に迫る。XLの速度では間に合わない。航空支配戦闘機、F‐22・ラプターのエンジン点火。マッハ1.58の超音速巡航……木刀が止まった。これが速河久作の最大最強の武器、「桁外れの集中力」である。音速を超える思考で、世界が止まるのだ。奈々岡を狙った木刀は、それが剣道部のものといっても止まっているのでどうにでもなる。
解からないのは、アヤが交戦を許可しなかったことだ。
HQ、最高司令部にアヤを置いたのは、当然アヤがもっとも情報戦に優れているからである。まだ桜桃新聞の奈々岡の記事さえ読んでいないだろうアヤを指揮系統のトップに置いたのも、情報戦能力がゆえである。自覚はあるが、久作は、奈々岡に対してかなり感情的になっている。
危険だと知りつつ手を貸したいというのが、同情の類であることはいうまでもない。感情と理性を瞬時にスイッチする自信は久作にはあったし、須賀もそれは出来るだろう。しかし、全貌が見えない段階だからこそ万全で挑むべきで、完璧に感情を排してブラックメールの危険性や、それから想定される状況を推測できるアヤに、指揮系統をまかせたのだ。
久作からの通信で、久作がクイーンこと奈々岡鈴と三限目の教室の外で遭遇したことと、そこに剣道部らしき三人が現れたことを知ったアヤ。取り囲む三人の腕前がどれほどかは知らないが、三人ならばどうにかなる、それをアヤが知らないはずはない。しかし交戦するなと言い、AKV(航空機運搬艦)ウィザード、保健室の露草葵のところに急げと言った。
奈々岡を保健室の露草に預けるのはいいとして、しかし交戦は許可できない……つまり、倒すなと、そういうことだ。
……まずはここまで。久作は向かって左上、奈々岡に迫る木刀を、発勁{はっけい}の拳で粉々に砕いた。
バン! と盛大な音が廊下に響き、バラバラの木片が散らばる。久作は通常思考に戻った。
「何? 久作くん! 木刀が折れた、いえ、粉々に? 何者なのアナタ?」
そうか、と久作は思った。単なる力技のパンチならば、普通、木刀は折れるのか、と。気を練った勁{けい}を打ち込んだので通常とは違う力の伝わり方のしたのかもしれない。
木刀でもカーボン素材のものがあったはずだが、それだとどうなるか。さすがに粉々にはならないだろう。先ほどバラバラにした木刀の材質は知らないが、同じく素性を知らない剣道部らしき三人には、ほどほどの威嚇にはなっただろう。
「剣道部が相手なら、僕じゃなくて須賀だな。少なくとも今の僕に戦闘の意思はない。警告は一度きりだ、引け!」
木刀をバラバラにされた一人が久作をにらんでいる。警告に従うとは思っていなかったのだが、三人は目で合図をしてから廊下を駆け出し、階段を上がって消えた。
「ボギーワンよりHQ。敵機をロスト。こちらの損害はゼロ、クイーンは健在。これよりウィザードへ向かう。なお、敵は剣道部とのこと、オーバー」
「……ねえ、久作くん? さっきからだけど、何を独りでぶつぶつと言ってるの? クイーンだとか敵機だとか」
「ああ、これ? IFDL、イン・フライト・データ・リンク。編隊と司令部にリアルタイム相互通信。戦況情報を共有することで臨機応変に戦術が組みかえられる。ラプターが無敵な理由の一つさ」
久作はヘッドセットを指差して説明した。リカや須賀、方城はイヤホンとピンマイクだったが、アヤの手持ちに人数分がなかったので、久作とアヤはヘッドセットを装備していた。
自動車の運転中などに使われるもので、アヤは授業のカムフラージュのために、ヘッドセットに黄色いリボンをつけ、カチューシャか何かに見えるようにしていた。久作のヘッドセットはケータイに接続されており、1‐Cの全員のケータイはずっと通話状態なのだ。
「こちらHQ、状況終了。バッテリー温存のために通常回線に切り替え。ボギーワン、ウィザードによろしく、オーバー」
ぷつっと音がして通話が切れた。
「イン・フライト? 凄いわね? いえ、アヤちゃんが言っていたわね。それくらいの装備ナシじゃあ話にもならないって」
「そうだね。間に合わせでデータリンクを構築だなんて、アヤちゃんじゃなきゃ無理だよ。ところでリンさん。授業中にこんなところで何を?」
久作が保健室に向かって歩いていたので、奈々岡もそれに続いた。保健室までは一分ほどだった。ノックを数度、中から返事があったので、久作と奈々岡は保健室に入った。迎えたのは露草葵のさかさまの顔、久作は少し驚いた。
「なんや? リンと速河かいな」
煙草をくわえたまま、事務椅子で目一杯のけぞっているのだ。
「けったいな組み合わせやな? クラス違うかったやろ? 言っとくけど、ここはデート場所やないで? そういうんは図書室とか情報室とか、そーいうとこでやりや?」
「でも、図書室にはベッドがありませんよ? 先生?」
……ん? 何だ? 奈々岡の科白に、久作は首をかしげる。
「リン、そういうんはゼータクいうんやで? 第一、ここ使われたら、ウチの居場所あらへん」
「職員室には喫煙コーナーはないんですか?」
何となく久作は質問してみた。
「あるで? せやけど、そないな話ちゃうやろ? んで、いちおう聞いとくけど、具合悪いとかやったら先に言いや?」
かちり、と音がした。露草の煙草の先端がオレンジに光る。奈々岡がベッドに座ったので、つられるように久作も座った。
「具合が悪くなりそうです。久作くんに助けられましたけど、ついさっき、そこの廊下で剣道部らしき三人組に襲われました」
紫のわっかが三つ、ゆらゆらと漂う。
「剣道部が三人? 難儀な話やなー、それは。それで、速河はその三人をぶっ倒したんか?」
「いえ、久作くんは一人の木刀をバラバラの粉々にして一喝。それで相手は逃げました」
「木刀を粉々? 相変わらず仙人みたいなやっちゃなー……リン!」
いきなり奈々岡がベッドに倒れたので、露草は大声で事務椅子を蹴り飛ばした。奈々岡をベッドにきちんと寝かせた露草は首筋に手を当て、脈を取る。ベッドの端に座る久作には状況が飲み込めない。
「過度のストレスやな。そらまー、木刀の三人に囲まれたらこないなるわ。リン、アンタは気ぃ張りすぎや。前にも言うたやろ? リラックスや、リラックス」
「死んでしまったら、リラックスも何もありません。私は……」
奈々岡の言葉はそこで止まり、しばらく待っても続きは出なかった。オレンジのハーフフレームが枕の横に置かれ、奈々岡は両腕で顔を覆った。
「速河。リンはな、何ていうんか、不器用な奴やねん」
露草が言ったが、意味が解からなかった。奈々岡ほど器用な人間はいないだろうに、そう思ったからだ。業物の会話しかり、一眼レフしかり、新聞記事しかり。須賀と同等に会話が出来て、事件はともかく文章力もある。つまり、相当の頭脳の持ち主だ。出会って二日目だとはとても思えないほど皆と親しくできる。少なくとも学園生活で不自由はないだろう。
「解からんやろな、速河でも。リンは感情のコントロールが達者なんや。んで、達者すぎるから、ほれ、今もこんなや。怖かったら泣いて叫べて言うても、頭ん中で処理しようとする。感情を外に吐き出す、いうんが出来んのや。他人に迷惑かけるとか何やとかあれこれ理屈並べてな。気丈夫いうんは案外モロいもんで、そこんとこをウチは心配してるんやけど、リンは強情やからな」
「冷静でなければダメなんです! 死んでしまったら何もできないんです!」
顔を隠した奈々岡が叫んだ。
「冷静言うといて、理性と感情がごっちゃになっとるやないか。どないするかなー?」
うーむと唸る露草の視線はしばらく保健室を漂い、久作に止まった。
「単純いうんか安直いうんか、まあええわ。速河、ちょいと右に移動せい、そそ、そこでええわ。リン、速河の胸におでこ付けてみ?」
露草の言うまま、久作は移動して、奈々岡はうつむいたままベッドから起き上がり、久作の胸に頭頂部を当てた。
「リン? 速河に礼したか? アンタはさっき、剣道部に囲まれたんやろ? 木刀の三人組からアンタを守れる男子が、桜桃の知り合いに何人おる? 昔のボーイフレンドも大切やろうけど、速河に礼するんが先や、違うか?」
「露草先生、僕は別にお礼をされるほどでもないですよ?」
「……ありがとう」
頭を胸に付けたまま、奈々岡が小さく言った。
「いいよ別に。偶然通りかかった、運が良かったってだけさ」
「リンのクラスにも腕っ節のいいのがおるやろうけど、相手が剣道部で木刀で三人やったら、悲惨な状態で病院直行やで? 速河やから、かすり傷の一つもないんや」
のんびりした調子で露草は言った。まあそうだろうと久作はうなずいた。須賀や方城ならともかく、三対一でしかも有段者の木刀。確実に入院だろう。
「私……ごめんなさい! 久作くん! 私はまた!」
後は言葉にならなかった。久作に抱きついた奈々岡が大声で泣き叫び、久作を締め上げたからだ。
涙がばたばたと久作の太股に落ち、外と同じく梅雨の如くであった。三限目終了を知らせるチャイムは奈々岡の泣き声でかき消され、上手く聞き取れない。
露草が「リンは不器用だ」と言っていた。感情コントロールが達者だとも。
常に冷静であれ、というのは奈々岡のジャーナリズムの一つかもしれない。自分は、と久作は考える。多分、冷静なほうだと思う。感情コントロールに関しても自信はある。というより、その二つは久作の武器でもある。しかし、とてつもなく悲しいことがあったとして、自分は奈々岡のように上手に泣けるだろうか? 正直、解からなかった。そういった経験がないからだ。
剣道部の木刀は久作にはどうでもいい程度のものだったが、奈々岡にとっては違う。授業中の廊下で白昼堂々と襲撃する。された側にしてみればとんでもない話だ。露草が、自分だからこそ対応できたと言っている、その通りだろう。
須賀や方城でも対応できただろうが、つまりは、久作、須賀、方城くらいでなければ対応できなかったと、そうなる。あの場面で奈々岡が一人だったとしたら、仮に保健室にいるにしても、救急車を待つ状態に違いない。奈々岡の涙は止まらない。当たり前だ。それでも露草に言われるまで冷静でいた。いや、冷静さを強引にキープしていた。
奈々岡は確かに不器用だ。相当に危険な状態に晒された直後にあれだけ冷静に、イン・フライト・データ・リンクの話。普通ならできるはずがない。背中に回された奈々岡の腕に力が入る。大声で泣いている。おそらく奈々岡はそういった姿を誰かに見せたくないのだろうが、露草はそうしろと言った。露草がスクールカウンセラーで臨床心理士、精神に関するスペシャリストだから奈々岡は泣いている、泣けているのだ。
襲撃された恐怖とは別のものも含まれているのだろう。自身で書いた新聞記事だとかで。
不器用な奈々岡に対して久作が出来ることといえば、その肩にそっと手を置く、それくらいだ。アヤが名づけた「速河流八極拳」。しかしその奥義には、奈々岡の涙を止める技など一つもない。「桁外れの集中力」と「速河流八極拳」を取り去ると、久作にはアルカイックスマイルくらいしか残らない。何か気の聞いた、奈々岡を和らげる科白でも、と思案したが、不要だと追い払った。
「こうやって大声で泣くことで解決することも、世の中にはあるのかもしれない。だったら目一杯泣けばいい、単純な話だ」
「そういうことや。速河は鈍感やと思うとったけど、女心いうんを少しは勉強したみたいやな?」
無意識で口に出た言葉に、露草が妙な相槌を打った。そんなものか? 久作は露草の言葉を反すうしてみるが、特にこれという結論は出なかった。ブレザーのポケット、ケータイを通話状態にして、ヘッドセットを装着した。
「ボギーワンより各機。クイーンと共に、無事、ウィザードに着艦。ボギーワンはクイーンの涙に弱い、繰り返す、ボギーワンはクイーンの涙に弱い、オーバー」
データリンクに乗せる情報かどうかはともかくとして、状況を共有するのがそもそもこの装備の役目である。
「ボギースリー、了解。クイーンはまかせる」
「ボギーツー、同じくだ! 交戦許可を求める!」
「プラウラー! コンセントレーションでアチョー!」
「グレイハウンド、ボギースリーに同意。ボギーツーは却下、プラウラーは無視。焦りは禁物よ?」
通信をコールサインにしているのは、盗聴の恐れがあるというアヤの提案からだった。コールサイン設定は久作によるもので、それぞれが戦闘航空機のものである。レイコのプラウラー(うろつくもの)は大型の電子戦用戦闘機、リカのグレイハウンドは大型貨物輸送機。しばらくの間があり、司令部から通信が入った。
「こちらHQ、状況をアップデート。以降、コールサインをホークアイ(鷹の目)に変更。クイーンのソースを全て真実だと仮定した場合に想定される敵の正体を、ボギースリーと検討……終了。敵影補足、ワン・ツーのコンビネーション。ボギーワンはそのままスクランブル待機。合流はヒトロクマルマル、ポイントE2M。ただし、現時点では交戦は許可できない、繰り返す、交戦は許可できない」
今は、三限目の終わり、休憩時間だが、アヤと須賀が何かをつかんだらしい。すぐに教室に戻りたいところだが、奈々岡の涙は止まっていない。第一、スクランブル待機だと命じられている。何もせずで十六時まで保健室というのはさすがにタイムロスだろう。ならばここでやれること、ここでしか出来ないことをやればいい。そう、ここにはウィザード、無敵の航空母艦、露草葵がいる。
「露草先生、ワン・ツーのコンビネーションというと、何を連想します?」
「なんやソレ? ボクシングかいな? 速河は八極拳やろう?」
奈々岡の記事には「暴行の形跡」とあり「体罰はなかった」ともあった。科捜研の鑑定結果が「大人か、大人と同じ体格の人物」と絞っている。全てを正しいと仮定すれば、状況は単純だ。つまり、体罰はなかった。
暴行の痕跡が運動部部活動によるものだとすれば、それはあっても不思議ではない。単なる打身などではないことは、暴行の痕跡という警察の見解からの推測で、ならばそれは意図的なものということだ。意図的な暴力痕が生じる部活動といえば、格闘関連となり、刺し傷などではないらしいから、素手によるもの、剣道部やフェンシング部は除外できる。柔道ではあからさまな打撃痕はまずないだろう。空手部はあり得るが桜桃学園の空手部はフルコンタクトではない。残るのはボクシング部。空手部とボクシング部に絞れば、「暴行の痕跡」と「体罰はなかった」は両立できる。
しかしだ。そこから自殺には遠すぎる。須賀がピアノマンとも言っていた。そして、ブラックメールと剣道部による襲撃……。
「ダメか。全部が推測なのに、そもそも情報が少なすぎる。解かっていることといえば、剣道部らしき三人の襲撃、これだけだ。顔を隠すでもなくそんな真似をする、尋常じゃあない。素性がバレてもいいということか? いや、待てよ。あの三人が三限目の途中にここに通じる廊下でリンさんを襲う、奇妙どころじゃあない。そんなことはリンさんを監視でもしてなければ、いや、リンさんのクラスメイトなら……。もう一つあった。あのブラックメールには確か「我々」とあった。ブラフ(脅し)かもしれないけど、少なくとも単独でないことは間違いない。……参ったな、考えると規模がどんどん大きくなる」
久作は再びデータリンク、ケータイを通話状態にした。
「こちらボギーワン。クイーン周囲にスパイがいる可能性。T撃墜と先の襲撃が繋がらない」
「ホークアイよりボギーワン。焦るな、ラプター三番機をE型装備に改修した。もうクイーンの基地に向けて発進してる。Bメールからこの通信は傍受されていると想定、厳重注意だ、オーバー」
通信が切れた。
ラプター三番機というのは、須賀だ。E型はエレクトロニクス型、つまり電子戦用の何かの装備をアヤが与えたのだろう。それで須賀は奈々岡のクラスに聞き込みか何かにいったらしい。そもそも情報が少ない、ここは須賀とアヤに任せるのが得策だろう。というより、今の久作には何も出来ない。奈々岡から目を離すわけにはいかず、迂闊に動けない。
ブォン! エキゾーストが鳴り響いた。いや、ここは保健室で外は雨。聞き覚えのあるエキゾーストではあるが……。
「おっと、メールかいな。そういえば今日明日辺りに飲みに行くいう約束してたな、って何やコレ? リン、アンタにメール……ちゃうな。前向きに生きろて、余計なお世話やっちゅーに。ウチにはウチの生き方いうんがあるいうねん。何がアドバイザーや。アドヴァイスいうんはもっと的確で具体的な……速河? どないした?」
「もうイヤ!」
奈々岡が久作に抱きついたまま叫んだ。両手の力の入り方が、奈々岡の怯えをあらわしている。
ブラックメール。それが露草のケータイに届いた。宛先は、奈々岡鈴。須賀とアヤに任せて待つと決めたが、どうやら相手は待ってくれないようである。迂闊に動けないが、じっとしたままでこれだけ包囲されている。こちらはまだ、一年前の事件の全貌どころか、相手が何者なのかすら解かっていない。このままではとても奈々岡の精神がもたない。久作はデータリンクを繋いだ。
「ボギーワンよりホークアイ。ウィザードにBメール、繰り返す、ウィザードにBメール。指示を」
三十秒ほどの沈黙。
「こちらホークアイ、状況をアップデート。ウィザードは浮沈艦だ、問題ない。プラウラーを増援に回す。プラウラーの護衛はボギーツー。以降、ボギーワンはウィザードの指揮下に入られたし、オーバー」
通信終了。
露草の指揮下? 完全な部外者の露草の下にいろというのは、つまり、じっとしていろということだろうか。久作は保健室の小さなロッカーを漁っている露草を見る。何かを探しているようだった。
「ったく、シャレはたいがいにせー、いうねん。あー、モシモシ? アヤか? おー、そうや。ウチんところにアンタが前にいうとったブラックメール、きたで? ……ああ? そっちの三人にもかいな。コレ、どこまでがシャレやねん。ん? 速河とリンを? まー、そやな。加嶋と方城? ……それは別にええけど、ウチ、今晩は飲み会あるんや。パパーっと終わらせるで? ええな? んじゃ、さいならー」
事務机に置かれたコバルトブルーの小さなケータイを突付いている露草の手には、黒くて分厚いケータイが握られていた。そう、アヤの持っていたあの、スクランブルケータイである。データリンクでアヤは言った、「ウィザードは浮沈艦だ」と。
四限目開始を知らせるチャイムが鳴る。相手、敵の全容は未知数だが、冷静に考えると、こちらの戦力もまた、相手には未知数かもしれない。後手ではあるが、負けているかというと、どうやらそうでもないらしかった。