『第四章~奈々岡はどうやら剣の達人らしく、ライフル弾をキンと弾き返した』
「朝という奴は、昨日の絞り粕{かす}だ」
そう言ったのは須賀恭介だっただろうか。
市街地と、山腹の桜桃学園を繋ぐ通称「心臓破りの坂」を含む久作の通学経路にはダートコースはないのだが、梅雨空の下で愛車、ホンダXL50Sという古い原付オフロードバイクを走らせていると、アスファルト路面の連続は少々物足りなかった。
法定速度など端{はな}から無視しているので、軽くフットペダルを踏むだけでリアタイアがロックし、フロント舵だけで数メートルを滑る。それでダートコースのような気分で遊んでいた。梅雨に入ってからの登下校でずっとそんなことをしていたが、それでも普段どおりの時間に桜桃学園駐輪場に到着する。公道はサーキットでもダートコースでもなく、信号がある。久作がXLをフルスロットルで走らせようが、ドリフトっぽく遊ぼうが、時計は全く縮まらないのだ。
上下の雨合羽を校舎入り口でバタバタと振って雨粒を落とし、適当にたたんでフルフェイスに押し込み、ぬれて重くなったリングブーツで1‐Cにたどり着くと、普段どおり、リカと方城がいた。他にもクラスメイトが数名。始業までは軽く三十分以上ある。方城は寝息を立てており、リカはクラス委員の雑務でバタバタと走り回っている。綺麗な黒髪には天使の輪が輝いており、本人と同じく忙しそうに左右に揺れている、こちらも普段と全く一緒だった。
窓際から二列目の最後尾、久作は自分の居場所に収まると、ぬれたフルフェイスをタオルで拭いつつ、しかし意識は全く別を向いていた。視線は窓の外だが、梅雨空を眺めているのではなく、単に視線をそこに収めているだけである。
いつもと同じのアルカイックスマイルは普段より若干曇っていたが、久作と親しくない人間であれば、それはきちんと笑顔に見えるだろう。やんわりとした笑顔で窓の外をぼーっと眺めるその姿は、奈々岡の指摘どおり、久作を暇そうで呆けている軽い人間に見せるだろう。
「おはよう、久作くん。朝は毎日早いって聞いていたからかなりの早起きをしたのだけれど、まさかこんなに早いとは思ってなかったわ。ふぅ」
おはよう、から続く言葉が普段のリカのものだと思っていたので、久作は目の前で椅子に座って、あくびを噛み殺している奈々岡鈴の姿に、微塵もリアクションが取れなかった。
「凄く眠くてまだ頭が回らないわ。それで、昨日のお願い、考えてくれたかしら?」
「お願い? ああ、えーと、どうだろう」
フルフェイスを足元に置き、久作は奈々岡のオレンジのハーフフレームを見る。よほど眠いのか、瞳は殆ど閉じていた。何やら肩を左右に振っている、ストレッチだろう。
「はい解かりました、なんて快諾されるとは最初から思っていなかったけれど、少なくとも迷ってはくれていたみたいね?」
奈々岡が上体を大きく後ろにそらすと腹が露出し、久作は慌てて視線を天井に飛ばした。何だかなー、久作は本題とは別のことで困惑した。
どうにも久作の周辺女性は、自分や男子生徒などの視線を意に介していない。皆が相当のルックスやプロポーションを持ち、しかし男子生徒をカボチャかタマネギか、そんな風にしか見ていない、そんな気がした。アヤ、レイコ、そして、この奈々岡鈴。言うまでもなく、保健室の露草葵も含まれる。男子を男性として見ているのは、唯一リカだけだ。
そんなだから「リカちゃん軍団」だろうか、とも思う。もしも「アヤちゃん軍団」なんてものがあったら、たまったものではない。リカのリーダー気質だかお姉さん気質だかがなければ、三人組はとんでもなく迷惑で、そして騒がしい集団だっただろう。
「本当にぼーっとするのね? まるで私なんて最初から存在していないみたい」
奈々岡の声には小さな棘があった。が、その声色には、鋭いながら得たいの知れない魅力もあった。特別低いでもなく、ハスキーでもないが……冷たさ、そう、須賀に似た冷たさがあるのだ。ひんやりとして鋭い、鉄をも切り裂く日本刀。なるほど、だからこそ、アヤのアサルトライフルを弾き返し、須賀と鍔迫り合いができたのか。久作は奈々岡の声や言葉、科白の正体にようやく気付いた。
「業物{わざもの}だよ、うん。方城が真っ二つにされるのも当然だ。須賀が、あいつも業物を自在に扱うから均衡が保てていた、そういうことか」
「……驚いた。私、本当にここにいないみたいね? 無視されたり、わずらわしいだとか言われるのは取材で慣れているけれど、存在そのものを否定されるなんて真似は始めて。私の存在意義ってどこにあるのかしら?」
「おはよう、奈々岡さん。久作くんはいつもこんなよ? 無視してるんじゃあなくて、自分の世界に入ってるだけだから、心配しなくてもいいわよ」
そう、リカの言うとおり。別に無視しているのではなく……違う!
「違う! いや、リカさんの言うとおりで、僕には、考え事をする癖があるんだよ。治さなきゃとはずっと思ってるんだけど、どうにも無理らしくて、気に障ったのなら素直に謝るよ」
「おはよう、久作くん」
「え? ああ! リカさん、おはよう! そうか、挨拶すらしていなかったんだ。ゴメン」
リカがくすくす笑って「慣れてるから」と残して教壇に向かった。
「アナタって物凄く変わったコミュニケーション手法で人と接してるのね? テレ・パス? リカコさんとは電波か何かで会話しているみたい」
「かもしれない。もっとも、こっちが一方的に発してるだけで、受信してくれる人は少ないけどね」
「面白い人」
奈々岡が机に肘を突き、顔をぐいと寄せ、くくくと笑った。オレンジのハーフフレームの奥に、濃紺の深い瞳。大きなそれが言葉と同じ迫力を持って久作の尖った両目を捉えている。まばたきが、あの一眼レフのシャッターのように感じられた。
「おはよー! って! そこ! リンリン! お前がなんで久作に急接近してんだー!」
教室を響かせるアヤの声に、久作は自分の顔と奈々岡の顔が相当に近くなっていることに気付き、慌てて目一杯のけぞった。椅子の足が浮いて、そのまま背中が床に激突する。
「ぐっ! お、おはよう、アヤちゃん……」
「おはよう、アヤちゃん」
倒れた久作を不思議そうに見つつ、奈々岡はごくごく自然体でアヤに挨拶を返し、ハーフフレームを上下させた。
「おはよー、じゃなくて! なんでリンリンがここにいるかー!」
「取材」
アサルトライフルVS日本刀。奈々岡はどうやら剣の達人らしく、ライフル弾をキンと弾き返した。これには素直に感心した。
「取材でキスするなんてのは、腐敗したジャーナリズムそのものだ! 久作の弱点を知りつつそこから介入しようなんて、癒着だ! 真実はまたもや闇の中! メディアの黒歴史を繰り返すリンリンはあたしの敵だ! エディ様のフルコンボ、準備!」
ばっ、とアヤが両腕を広げて腰を床すれすれまでに落とす。八卦{はっけ}の奥義、「鳳凰{ほうおう}の構え」。この構えから様々な技が繰り出されるのだ。言うまでもなく、ゲームの話だが。
「メディア腐敗は別にして、キスって何よ? 私はそんなことしていないわよ? ……まだね」
奈々岡はゆっくりと椅子から立ち上がる。業物の日本刀が抜刀される。円月殺法、刃がギラリと弧を描く。
「まだってことはつまり! そーいうことか! このアヤ様に断りもなくとは、喰らえリンリン! 鳳凰連腿{ほうおうれんたい}からの扇{おうぎ}蹴り!」
バババッ! 業物の刃が輝き、三角形の残像がアヤを切り裂く。
何に驚いたかといえば、アヤが本当に扇蹴りを出したことと、それを奈々岡がかわしつつ一眼レフのシャッターを切ったことだ。アヤの、足元を払う回し蹴り。これが3D格闘ゲーム、ミラージュファイト中では扇{おうぎ}蹴りと命名されているのだが、対する奈々岡。言葉もだが、どうやら手元の一眼レフも業物らしく、フラッシュで視界を奪われたアヤが扇蹴りの不発の勢いで床にころげた。
ああ、またか、と久作は自分に呆れた。
「アヤちゃん! リンさん! ストップストップ! とりあえず落ち着こう! 何がどうなってそうなってるのか知らないけど、とにかくタイムだ!」
背中の鈍痛をこらえつつ、久作はアヤと奈々岡に大声で訴えた。
「冷静になろう! ね? じっくりと話し合えば誤解は解ける! 平和的にいこう!」
「良い提案ね。アヤちゃんがキスがどうとか言っていたから、久作くんからそれを頂いたら、そうしてもいいわよ?」
「リンリン! よーし! だったら平和的に一撃で終わらせやる! 安心しろ、痛みは一瞬だ! 意識ふっ飛ばしてやっから、じっとしてろ!」
……はい? さて、どうしてでしょう? 久作の思考が止まる。二人の攻防が激しすぎて追いつけない。
「エディ・アレックス、必殺――」
ゴン、と鈍い音がして、アヤが沈黙した。
「アヤ! うるせー! 俺は眠いんだよ! んで、アンタもうるせー! 寝起きの俺は不機嫌なんだ。止めないってんなら蹴るぞ!」
「方城! た、助かった……」
頭をバリバリとかきながら、物凄い形相の方城がアヤの後ろで仁王立ちしている。完全に臨戦態勢の眼光は、奈々岡のハーフフレームに突き刺さっていた。
「うー……うわ! マヂでイタイイタイ! 方城護! 手加減ってもんを知らんのかー!」
「アナタに蹴られたら間違いなく病院行きね。解かったわ、キスは諦めるわ」
方城のげんこつがよほど効いたのか、アヤがぐすぐす泣きながら久作にすがってくる。
「速河久作、イタイですよ? マヂで」
「そりゃそうだ」
床から椅子に戻った久作は、当たり前だとうなずいて、方城に「サンキュー」とアイコンタクト。方城は、うむと返すと、自分の机に戻っていった。どうせならいてくれればいいのに、と思いつつ久作は、寝起きで不機嫌な方城を見送った。
「1‐Cっていつもこんなに賑やかなの? 何だかちょっと羨ましいわね」
久作と、その横で何故か正座しているアヤの前に座りなおし、奈々岡は、ふう、と小さな溜息をこぼした。
「リンさんは1‐Aだったよね? その様子だとそっちはあまり華やかじゃあないって聞こえるけど?」
「いえ、そうでもなくて、きちんとムードメーカーみたいな人とか、お笑い担当みたいな人とか、フツーにいるわよ。ただ、こちらがあんまり賑やかだったから、いいなって」
はい、とアヤが床から挙手した。奈々岡が不思議そうに「どうぞ?」と返す。
「リンリンのクラスは楽しくないのか?」
「楽しくないとまでは言わないけれど、何ていうのか、率先して仕切ってる人が男女にいて、フツーを演じてるみたいな変な空気なのよね……ところで、どうしてアヤちゃんは正座してるの? 冷たいでしょうに?」
「方城護に殴られたから、あたしは反省中」
ぷっ、と奈々岡が吹き出した。久作は、なるほど、と納得した。方城が女性に、ましてやアヤに手を出すなどということはまずあり得ない。それでも脳天を目一杯殴られたアヤは、それが方城からの正当な抗議だと素直に納得して、ついでに自分なりに反省していると、そういうことらしい。
「可愛らしいというのか、アヤちゃんも相当に変な子ね? 方城くん、男子にいきなり殴られて、それを素直に反省だなんて、私のクラスじゃあ絶対にあり得ないわ。でも、いいわよね、そういうの。変わってるけど、とっても自然で」
「自然だとはとても思えないけど、まあ、友達同士だから、こういうのもアリかなって。少なくとも悪い雰囲気じゃあないしね」
「それなのよ!」
久作の言葉に、奈々岡はちょっとだけ声を強めにした。
「これは想像だけれど、久作くんのその寛容さ? 懐の深さみたいなものが、きっとここをそういった雰囲気にしているんじゃあないかしら? ウチのクラスの男子がやってるような、あからさまなリーダーシップみたいなものじゃあなくて」
「想像だよ、そんなの。僕はどちらかといえば受け身の聞き役って感じで、誰かをどうとか、そういうつもりは全然ないよ?」
「だから軽くて呆けた三枚目? なるほど、解かったわ」
ぱん、と手を打って奈々岡は、うんうんと一人で納得した様子だった。
「反省タイム終わり、冷たいから座る。ほいで、リンリンは何が解かったのさ?」
「久作くんの正体」
短く言い放つ。奈々岡には言葉を簡潔にする能力があり、アヤとは正反対だった。
「正体って、実は速河久作は速河久作じゃなくて、全然別の誰かだったとか? そうだ! 速河久作はビリー・ヴァイを超えるカラミティ・ジェーンな八極拳士だ! つまり速河久作、お前は何者かー!」
バババン! アサルトライフル炸裂。ちなみにビリー・ヴァイとカラミティ・ジェーンというのは、両方ともミラージュファイトのキャラクターの一人で、実在しない筈だ。何者かと問われるのはこれで何度目だか忘れたが、久作は奈々岡の言葉を待つことにした。
「久作くんは何だか素性の知れない三枚目なのに、どういうわけか、みんなから絶大な信頼を得ている。つまり、いざと言うときに頼れるということを、アヤちゃんだとか方城くんだとかが知っていて、その雰囲気みたいなものが直接関係のないクラスメイトにも伝わっていると、どお? アヤちゃん?」
「頼れるもなにも、速河久作ははっきり言って無敵だし。達人の領域だからオーラ出てて、達人オーラに気付かない鈍感な奴はこのクラスにはいないんじゃない?」
「そう。そして、それが伝聞で広がると、女子連中が騒ぎ出す。言動は三枚目だけどルックスは見ての通りだから、直接会話をしなければ久作くんの本当の姿なんて解からないでしょうけど、それでも騒ぐには十分すぎる容姿と成績。極めつけに、周囲には常に桜桃バスケ部エースの方城くんや、あの……見た目だけの冷徹人間がいて、アヤちゃん、リカコさん、レイコさんのミス桜桃集団。騒ぐなというほうが無理ね」
久作が二人の会話を殆ど聞いていないのは、話題が自分のことだからだった。自分のことは自分で把握しているし、周囲からどう見られるかなど興味はない。別に自分を宇宙人だと噂されても構わない。実際に自分を正確に把握しているかというと怪しいものだが、久作には何というのか、自分に対する自覚のようなものが欠落していた。これは中等部時代の名残りでもある。それが良いか悪いかは、人それぞれだろう。
「私が久作くんにお願いをしたのも、そういった情報に動かされたからかもしれないわね」
「キスのお願いならダメー! まず、あたしが許さん! でもってレーコが許さん! たぶんリカちゃんも許さん!」
「そっちじゃあなくて、昨日の、あの桜桃新聞の記事のことよ。それにしても、本題に入るだけでこんなに時間がかかるとは思ってもみなかった。久作くん、きちんと覚えてるかしら?」
忘れた、と言いたかったが、そういうわけにはいかない。
「……Tさんを自殺に追い込んだ犯人探し、覚えてる」
「そう」
ごく短く返す奈々岡が逆に不気味でもあった。
「何それ? いや! 聞かない! スッゲー危ない匂いがする! リンリン! ジャーナリズムは生死をかけたバトルだ! 止めたほうがいいって、絶対!」
「そうよ、生死をかけてる。これは冗談でも何でもなくね。ジャーナリストだからというのもあるけれど、私がTさんの遺族で――」
「あーー! あーー! 聞こえない聞こえない!」
アヤが両耳を塞いで大声を上げた。久作が奈々岡のお願い、犯人探しに協力できないでいるのはつまり、用件がアヤの言うとおりだからである。奈々岡の言い分は解かる。事情に詳しくなくてもその気持ちも解かる。しかし、なのだ。
「リンさん。僕で協力できることなら何でもする、暇人だからね。でも、きみの記事が真相に近いのだとすると、アヤちゃんと同意見だ。僕がどうこうでなくて、リンさんも深く関わらないほうがいい。部外者だから気持ちは解からないけど、それとは無関係で、事件そのものが探るにはあまりに危険すぎる。どうしても、というなら、プロフェッショナルに依頼するべきだと思う。素人の、しかも学生が首を入れるべきじゃあない、それほどの事件だと僕は思う。言いたいこと、解かるよね?」
ゆっくりと、慎重に、言葉を連ねた。奈々岡の表情は前髪にはばまれて読み取れない。返答のない空白が一分近く続いた。アヤとの激闘はどこへやらの重苦しい空気で、久作は窒息しそうになる。
「おはよう、諸君。どうして皆、おはようを言う時に、あんなに遠い昨日のことを一つ残らず憶えているのだ、とは誰の言葉だったか。おや? てっきりリカくんかと思っていたのだが、桜桃学園広報部のトップジャーナストがご来席とは、これは失礼。重要な取材の邪魔をしてしまったかな?」
しわくちゃの桜桃ブレザー、普段通り文庫本を片手の須賀が欠伸半分で寄って来た。
「……理屈や理性では割り切れない感情って、解かる? 久作くん、アヤちゃん、ありがとう。話を聞いてくれただけでも十分よ」
すっと立ち上がり、奈々岡は歩き出し、須賀の真横で止まった。
「意見はぶつかったけれど、須賀くん、あなたの言うことも正しい、それくらいは私にだって解かる。それでもね……まあいいわ。レイコさんやリカコさんにもヨロシクと伝えておいてね、それじゃあ……」
業物の日本刀ではなく、ナマクラ刀でそう言うと、奈々岡は再び歩き出した。
「スズくん? 方城にはヨロシクと伝えなくてもいいのか?」
「……そうね、伝えておいて。騒がしてごめんなさい、とも」
「それだけかい? 何か重要なことをきみは忘れてないか?」
須賀がやたらと軽い調子で言ったので、久作はぎくりとした。ここで須賀の業物の刀が振り下ろされるのは、あまりに残酷過ぎる。久作は思わず身を乗り出した。
「須賀!」
「犯人と思しき人物、もしくはそれに繋がる証言を得たとして、毎回毎回きみの教室や広報部に足を運ぶのは効率が悪いだろう? 既に誰かと済ませているのかもしれんが、俺はきみの携帯電話の番号もメールアドレスも知らない。情報中継は誰の役目に決まったんだ?」
うつむいていた奈々岡が驚いて顔を上げ、隣の須賀を見上げた。声の調子と同じに、笑顔だった。気難しいハードボイルド探偵。決して笑顔など見せず、精々にやりと口元を上げる程度の須賀が、まるでアヤのような笑顔を奈々岡に向けていた。
「須賀くん? ……アナタ、何?」
「そろそろチャイムだ。アドレス交換は昼休みにでも、だな。おっと、そちらの都合を聞いていなかったな。まあ、俺たちは大抵ここにいるから、暇になったら顔を出してくれ。それで十分に間に合うだろう?」
言い終わると同時に須賀は、教室入り口に向かい、左足を後ろに深々と頭を下げ、右手をゆるりと横に振った。レディに対する礼節、エスコートするようなしぐさに奈々岡はぎこちなく歩き出し、再び須賀をみつめる、無言のまま。しばらくして教室を出た。
入れ違いでレイコが教室に、文字通り飛び込んできた。
「セーフ! アウト? チャイムまだだよね? セーフ! 危ない危ない。ランブレが溝にはまって、ホラ、ずぶぬれー……あれ? アヤちゃん、あー、って何? 久作くんはコンセントレーション中? 今日、テストあったかな?」
「レイコくん、俺の記憶では今日はテストはないはずだ、安心していい」
さて、どうしたものか、と久作は思ったが、もうどうしたもこうしたもない。須賀の科白が仮に全て冗談だったとしても、その分だけ事態が動き出したことには違いない。須賀の心変わりは後で聞くとして、果たしてリカが納得するのか、気がかりであった。
一限目開始を知らせるチャイムが鳴り、世界史担当、伊達{だて}という大柄の男性教師が現れ、しかし久作の視線は窓の外を向いたままだった。