二人きりの夏休み
茹だるような暑さに額から流れた汗がパレットに零れ落ちた。
お盆明けの美術室は閑散としていて溶き油と絵の具の独特の匂いが鼻を刺す。
「今週末、夏祭りがあるんです」
汗をハンカチで拭い取りながら向かい合ったキャンバスの先にいる先生に声をかけた。
「受験勉強の息抜きにはぴったりだな」
「……クラスの子に、一緒に行かないかって誘われたんです」
「さすが委員長、人気者だな」
「でもまだ返事できていなくて。……悩んでいるんです」
椅子から立ち上がって先生の元へ。細い銀縁の眼鏡に少し癖のある前髪が目元に影を落としている。
キャンバスに描かれているのは筆を握る少女の横顔。
先生の目にはこんな風に映ってるんだ。……ちょっと美化しすぎじゃないかな。
「何を悩んでるんだ?」
テノールの声が耳に心地良く響く。
鉛筆を走らせる手は止まることなく、キャンバスに描かれた私に繊細な陰影が付けられていく。
担任で、美術部顧問で、あくまで先生と生徒。でも時折特別扱いをしてくれていると感じるのは、きっと気のせいじゃない。
先生は、拒絶しない。私の気持ちなんてとっくに気付いているだろうに。
「……誘ってきたの、男子なんです。二人で行かないかって」
「……そうか」
「先生はどう思いますか?」
「生徒同士なら出掛けるのに何の支障もないな」
……その答えはずるい。
「いろんな経験をした方が絵に深みが出る。先生はそう仰ってましたよね」
「……そう、だな」
「返事、今日中に欲しいって言われたんです。これも経験、行ってみた方がいいと思いますか?」
「…………決めるのは君だ」
絞り出したかのような声と共に、先生の手が止まった。
眼鏡の奥の瞳が私を射抜く。唇はぎゅっと引き結ばれ、わずかに険しい表情にどきりとする。
ねえ、先生。
それはどんな感情ですか?
「……そう、ですか。これもまた経験、ですね」
こうなったら我慢比べだとスマホを取り出し、メッセージアプリの画面を開く。
きっと、欲しいものは手を伸ばせば逃げていく。
追い続けているだけじゃだめ、捕まえてもらわなきゃ。
スマホを持つ手は夏だというのに冷え切っていて、震えた指がキーボードをなぞる。
祈るような気持ちで送信ボタンを押そうとした時、小さな、囁くような声が響いた。
「……今週末、絵のモデルを探しているんだが、」