第二話
意識が覚醒して、まず最初に視界に入ってきたのは、血に塗れたまま倒れている母だった。
「え……………?」
誰がどう見ても瀕死、あるいは死体の状態だった。
「なん、で……………?」
この感情が何かわからない。
頭も心も今起こっている状況に追いつかない。
「やだっ!いなくならないでよ!」
しゃがんでお母さんの体をゆする。
「ス、ノぅ………」
かすかにお母さんの声が聞こえる。
「お母さん!?しっかりして!!」
衝撃で真っ白だった頭の中は、次第に回り始めて、すべきことに順序をたてて、動き出そうとする。
しかし、そんな私の手を母は掴んだ。
「もぉ、いいの、よ」
「な、なにがっ!
放して!今から治すから!」
ふざけないで!
いままで私がどんな気持ちで、頑張ってお母さんを治そうとしてきたか知らないくせに!
「もぉ、いいの」
「いやよ!やめて!死のうとしないで!」
「あなたは………、あなたの人生を生きなさい」
「な、なに言ってんの、わ、わたしは」
「スノウちゃん、愛してるわ」
何年振りだろうか、その言葉を言われたのは。
もうしばらくそんな言葉聞いていなかった。
やがて、母が何も喋らなくなる。
「あぁ、あああぁ」
何故かはわからないけれど、視界が滲んでくる。
母からはもう呼吸音が聞こえない。
「いやぁ、いなくならないでよぉ」
血が滲んだ床板に水の染みができる。
「なん、でぇ」
母を見渡すとお腹に大きな穴が開いていた。
誰かにやられなければ、こんなものはそうそうできるものじゃない。
私が寝ている間にスカウンドレルでも襲ってきたのか。
いや、母が魔術でこの家にスカウンドレルが近づかないようにしてくれているはずだ。
魔術の様子を見るために立ちあがる。
でも、その時に気づいてしまった。
自分の背中から触手が出ていることに。
「なに、これ」
それは自分の手足のようで、だけど、まるで別の生き物のように動き出す。
かなりの質量があるような音をたてて、引きずった。
血の跡を残して。
誰の血かは考えるまでもない。
「いや、いやぁ」
何か取り返しのつかないことをした予感がして、心がぐちゃぐちゃになる。
うそ、うそよ!
認めたくない。認められるはずがない。
私はその場から逃げた。
血まみれになって暮らしてた頃の見る影もない、山小屋を急いで出る。
森に入った。
目的地があるわけでも、
方向が決まってるわけでもなく、
走る。
ただひたすら走る。
『こんにちは、スノウちゃん。』
とつぜん頭の中で何かが話しかけてきた。
「だれ…………?」
スカウンドレルもいない静かな森の中で、私はひとり、立ち止まって、虚空に向かって話しかけていた。
***
「だ、だれなの!?」
『私の名前はアンジェリウス。あなたとの血の盟約の契約者よ』
「血の盟約?契約者?」
『そう。あなたの先祖が代償を先送りにして私たちスカウンドレルと取引したことによって、血の繋がったあなたが代償を払うことになった。それが血の盟約よ。そして、その契約者が私。』
「仮にあなたがそうだとして、どうやって、今私に話しかけているの?そして、スカウンドレルと言うけれど、あなたはスカウンドレルの中のいったい何者?スカウンドレルが知能を持っているなんて、相当位の高い、」
『あらあら、そんなに焦らないで?
わかりやすいように順序よく説明していくから。』
どこから話そうかしら、とその綺麗な声で唸りながら、思考に耽っているのがわかる。
私は、彼女には随分と人間味があるな、と思った。
喋り方や性格、思考能力、そのどれを取っても私たちとそう変わりのないように聞こえる。
スカウンドレルというのはもう少し、醜悪で理不尽な存在だと思っていたから、「意外」というのが正直な感想だった。
でもそんなことはどうでもいいから、今のこの状況を把握したい。
『そうね〜、まず私はあなたの中から話しかけてるわ』
「私の頭の中に直接話しかけているということ?」
『ああ、脳に直接交信しているわけではなくて、私があなたの中にいるの』
「………………は?」
やめてくれ、これ以上頭を混乱させないでくれ。
『ほら、これ、私よ?』
私の視界で背中から生えてる触手が手を振るようにフリフリしてくる。
「あなたが、母を殺したの?」
『いいえ?気づいている?あなたは世間で言うところの魔女になったのよ?』
「魔女?」
『そう。スカウンドレルと契約したものは魔女と呼ばれる。そして、誰しも魔女になるときは暴走するの。とつぜん力が漲ってその力に耐えきれないから、初めは大体暴走して、徐々にその力を体に順応させるの。この場合力というのは、私のこと。私とあなたの意識が混濁して、目に入った者を殺す殺戮者となったわけね。』
「つまり、お母さんが私の暴走の犠牲になってしまったの?」
『そう、あなたの力はあなたのお母様より強力なのよ?それどころじゃない。今のあなたの力はどんな英雄よりも、どんな魔女よりも強力だわ。』
「やっぱり、私がお母さんを殺したのね……………」
ぐちゃぐちゃなっていた心がより一層、心臓を潰す勢いで締めつけてくる。
ひどいことばかり言われてたけれど、ひどいことばかりされてきたけど。
殺されかけたり、死ぬよりひどい体験をさせられたり。
でもおとなしい時の母は誰よりも、世界中の母がどの娘を愛するよりも、私を愛してくれていた。
私の大切な家族だった。
『そんなに悲しまないで?これからはあなたの思い通りに生きていいのよ?さあ、何がしたい?あなたはどうなりたい?
国を治めるも、英雄になるのも、あなたが望めば何者にでもなれるわ?
お母様をあんなふうにしたこの国をぶち壊すこともできるわよ?』
どうなりたいか?お母さんが死んでしまって何が何だかわからない状況で、どうなりたいか?
そもそも魔女狩りなんて、この国がやらなければこんなことにならずに済んだのに。
「わ、わたしは………」
『えぇ!ええ!』
このスカウンドレルはここに顔があれば目がキラキラしたような状態であっただろう声音で私の次の言葉を待っている。
私がやりたいことなんて、随分と前から決まっている。
「私は!もう誰も殺したくない!誰も死なせたくはない!私のせいで誰かが死ぬのはもう嫌だ!」
『……………………。』
「お母さんだって死なせたくなかった!私は母を治して、誰よりも愛されたかった!別にこの国の人が憎くても、こんな気持ちになるぐらいなら、だれも殺したくはない!だれにも死んでほしくないよぉ!」
『やっぱり、あなたは優しいのね。』
「私の答えに満足しなかった?あなたみたいな正体の怪しいスカウンドレルには受け入れられない答えだったかな!たとえ、私が魔女で人類の敵だったとしても誰も殺したりはしない!」
『いいえ、そんなことはない。あなたの答えには大満足よ。人の本質は一番心が落ち込んでいるときに出てくるものだけれど、これがあなたの本質って分かったのだから。』
私は警戒する。
こういう時に甘い言葉を声をかけてくるのはたいていよからぬ存在だ。
『でもやはり、世界のみんなはあなたを害そうとしているのに、あなたは誰も害そうとしないのだから、不公平よ。だから、強くなりましょう?』
「だから、別に私は誰かを殺してしまうかもしれない力なんてっ」
『そうじゃないわよ?もうあなたは強力な力を持っているの。それでも外部の人間はあなたを殺そうとしてくる。抵抗したら遅かれ早かれだれかを殺し、殺されることになるわ?だから、』
「相手を殺さないように、もしくは殺されないように強くなれってこと?」
『そういうこと。』
何故かこの怪物は、これからの私の人生を気遣ってくれているような発言をする。
なんだか、温かい。
その温かさに免じて、今はまだ騙されててあげよう。
この怪物がなにを求めているかはわからないけれども。
「じゃあ、強くなる。力の使い方を、教えて。」
『ふふっ、おおせのままに』
そう、この時、私は正体の分からない怪物の手を取ってしまったのだ。
気づいてももう遅い。
この時から、運命の歯車は回り始めていたのだから。