自分を殺した僕には彼女の愛を受け取る資格なんて無いのだ
僕は全てを投げ出したい。
カッターを右手に持ちながら雨の止まない空を見上げる。
「死にたいな……」
そう息をするように呟く。でも、そんな勇気は持ち合わせていない。
ふと自嘲気味な笑みが漏れる。自分は何をしているのだろう。
カッターの刃先を右足首に沿わせる。手首ではなく足首なら誰にも気づかれないから安心だ。だけど赤くて綺麗な、自分の生きている証はなかなか姿を現さない。カッターの刃先が小刻みに震える。
自分はこれさえも出来ないのか。
僅かに涙が頬を伝う。孤独だ。誰でも良いから、自分を見つけだしてくれはしないだろうか。
しかし残念ながらこの場から連れ出してくれそうな人は一人も思い当たらない。
一応友達のような存在はいるにはいるが、自分をさらけ出せる程ではないし、こんな僕のために迷惑はかけられない。自分は相手に何もあげられないのだから仕方ない。
不意に床に置いてあった小説が目につく。僕は空想物語を読むのが好きだ。主人公が生き生きしていて、良い結末を迎えるために奮闘する様子をみていると自分もそんな風になりたいと確かに思う。だけどそれは一時的で、現実に戻ると心に穴が開いてしまった気分に戻る。
別に過去に何か、誰かの共感を得られるような出来事があったわけでもない。誰もが自分に同情してくれるような、そんな悲劇的な場面に遭遇していたならどんなに良かっただろうか。
辛いと言葉に出して良い理由が見つからない。どう考えたって自分より苦しい立場にいる人は沢山いるのだ。
……もうどうでもいいか。
ただ理想の自分にいつまでもたどり着けないことに苛立ちを覚え、そのささくれだった心をどうにか保つために今、手にしている本の中に存在する空想世界に浸る。
どうしてだろう。目にしたくない現実から逃げ出し、他人の作ったハッピーエンドを迎える架空の物語に時間を溶かす情けない自分が許せない。
「ああ、そうか」
僕は壊れている。こんな最低な心は握りつぶすべきだ。こんな誰のためにもならない感情なんて押し殺してしまえば良いのか。
人当たりの良い、親しみやすい頼れる人間の仮面に手を伸ばし、暗くて汚い心を誰にも悟られないように綺麗に隠す。この仮面が割れて粉々になってしまいそうな僕をどうにか保ってくれる。
本当の自分はどういう人物だっただろうか。仮面で形作られる偽りの自分に心が侵食されていく。
「ああ、それで良かったのか」
本当の自分なんて誰にも必要とされていないのだから、消えてしまえば良い。
そうして僕は僕を殺したはずだったのに。
偽りの仮面を手にしてから三年程の月日が流れた。
「奏真さんのこと、好きです」
そう、目の前で紗夜は僕に微笑みかける。
「ありがとう」
と声に出しながらも罪悪感が胸の辺りに染み渡る。
「一体僕のどのあたりが好きなの?」
からかうように明るく問いかけてみる。つい女々しい質問をしてしまったと内心後悔したのも束の間で、すぐにうきうきした様子で教えてくれた。
「それは、優しいところです。親身になって相談にのってくださいますし、何しろ行動力があってかっこいいです!」
優しい、か。行動力があってかっこいい、か。彼女が見ているのはやはり偽りの自分のようだ。
紗夜とは約一年前、新入生に向けて部活動の勧誘をしている際に出会った。第一印象は可愛くて真面目な後輩で、その印象は今も変わっていない。声をかけた当初は緊張してあたふたしている様子だったが、美術部の活動や授業の話をしていると少しずつ笑顔を見せるようになってきた。今思えば、その熱心に相槌を打って話を聞いてくれる様子に心を奪われてしまったのが、彼女を想うこの気持ちの始まりだった。
複雑な心境で紗夜の瞳を垣間見る。藍色で、輝きを灯った綺麗な瞳。それは自分に向けられているが、本当の僕を映しているわけではない。
でも、それで良いのだ。紗夜が笑ってくれさえいれば、例えその笑みは偽りの自分に向けられているものだとしても、僕は彼女と同じ時を過ごせるだけで幸せだ。紗夜の、その藍色の瞳を眺めていると心が救われていく気がする。この時間が永遠に続いていけば良い。
「僕も紗夜が好きだよ。笑顔が可愛くて、熱心に話を聞いてくれる紗夜が大好き」
それは久しぶりに発した本心の言葉だった。いつの間にか僕は自分をだまし、周りに嘘を吐くことに慣れてしまっていたらしい。
この偽りの仮面が無ければきっと紗夜はその藍色の瞳を他の男に向けていたに違いない。心底ほっとしてしまった。
そして同時に心がざわつく。いつしか、彼女は気がついてしまうかもしれない。本当の僕を見つけてしまった彼女はきっと、その綺麗な藍色にどんよりとした恐怖の翳りを浮かべ、僕を捨ててしまうに違いない。
自分で自分を押し殺すのは慣れきっていたが、もし紗夜が本当の僕を知り、拒否したらと考えると恐ろしかった。絶対に心の奥底を知られてはいけないと自分を守る仮面を厚くし、浮かべる笑みを更に強くする。
すると紗夜は窓ガラスへと視線を移した。
外は晴れていて、桜が綺麗に咲いているだろう。ここは八階だから、遠目にしか見えないのが少し残念だ。紗夜は立ち上がり、外を眺めながらそっと消えそうな声で呟く。
「無理して笑わなくても、大丈夫ですよ」
――時が終わる音が聞こえた気がした。何を言っているのだろうか。僕はふっと笑みをこぼし、
「当然どうしたの?」
と問いかける。
塗りたくった厚い仮面の裏で僕はとても動揺していた。
まさか、この仮面に気がついてしまったのだろうか。久しぶりに本心を言葉に出してしまったせいで、ぼろが出たのかもしれない。
強い心臓の鼓動が聞こえる。かつて無いほどはやく刻むそれはしんとした空間に漏れ出てしまいそうだった。
右手をそっと握り、一週間程切っていない爪を掌に食い込ませる。本当の自分に気づいた紗夜に嫌われるのが怖かった。ただ自分の早とちりだと、そう必死に思い込み、彼女の返答を待つ。笑顔は完璧なはずだ。鏡の前で何度も練習した偽りの笑みはそう簡単に崩れるものではない。
「いや、やっぱり何でも無いです。多分気のせいだったので」
紗夜は僕をみながら笑ってごまかした。
そう、それで良いのだ。
「紗夜のさっきの好きですって言葉、思い出すと嬉しすぎてついにやけてしまって、頑張って抑えようとして変な顔になってしまったのかもしれないな」
安堵の吐息を心の中で放つ。仮面を手にしてからもう三年も経っているのだ。そう簡単に見破られる訳がない。
しかし紗夜の瞳が視界へ入り、息が詰まる。綺麗な藍色だったその瞳の奥底にどんよりとした曇りが窺えたのだ。
そんな瞳で僕を見ないでほしい。
再び心臓の鼓動が波打つ。僕はすでに何かを間違ってしまったのかもしれない。彼女の翳った藍色の瞳から逃げ出したい衝動に駆られる。
実を言えば本当は分かっていた。僕には紗夜のことを好きになる資格がそもそも無いのだ。偽りの自分のままで彼女の愛を得るなんて不可能なのだから。
きっと紗夜は本当の僕の存在に少し感づいている。その存在は紗夜を縛って傷つけてしまうかもしれない危険なものであるから、これ以上僕と関わって辛い思いをさせる訳にはいかない。
「そっか。そういえば喉渇いたね。飲み物取りに行ってくるから、少し待っていて」
そう言って僕は部屋から出た。
……僕が紗夜のことを支えたかったのに、な。
一筋の涙が頬を伝う。
キッチンへと足を運び、冷蔵庫を開けながら思考を巡らした。
誰かを支えられる強い存在になるためには、自分がまず強くなくてはならない。でも、僕は全然強くない。仮面が無いと何一つ行動出来ない人間だ。本当の僕は彼女にとって害でしか無い。
二つのコップに、冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを注ぐ。そういえば紗夜が初めて僕の家に来たときも、このコップとオレンジジュースという組み合わせだったと思いだし、懐かしさに少し気分が落ち着いた。
まだ付き合いはじめてさえいないのだから遅くない。今日、このオレンジジュースを飲み終わったら紗夜から少しずつ距離を取ろう。そしてもう二度と紗夜をこの家に呼ばないようにしよう。紗夜の周りには、僕なんかより良い人が何人もいるのだから、僕一人離れたところで紗夜が困ることもない。
一旦今後のことを定めると、すっと気持ちが軽くなった。彼女に対して、本当の自分を晒さずに済みそうでほっとする。
「はい、オレンジジュース、持ってきたよ」
部屋に戻り、そっとコップを差し出す。
「ありがとうございます。……ああ、美味しい!」
紗夜の瞳は元の綺麗な藍色に戻っていた。それを確認し、安堵する。
「初めてここに訪れたときも、このコップでジュースを飲んだ覚えがあります。透明な桃色で、とても綺麗ですね」
「よく覚えているね。でも紗夜の方が断然綺麗だよ」
明日以降、彼女と距離を置くと決めて安心したのか、それとも彼女との会話が名残惜しいのか自分でもよく分からないが、仮面で偽った僕でさえも躊躇するだろう甘い言葉がさらさらと出てくる。
紗夜は頬を赤らめ、視線をそらした。照れるようにしてオレンジジュースを飲む彼女の姿を忘れまいと脳裏に焼き付ける。
紗夜との間に流れる空気はとても穏やかで、心地良かった。しかし、次に彼女が発した言葉は僕にとって、その空気をぶち壊すのに申し分ない衝撃を付随させたものだった。
「……あの、もし良かったら私と付き合ってくれませんか?」
頬を更に赤らめた紗夜は、上目遣いに僕を見ながらそう囁く。思わず息をのむ。
先程決めた計画が全て破綻した瞬間だった。
紗夜からの告白や今までの培ってきたものを有耶無耶にして少しずつ距離を開けていくはずだったが、付き合わないかと問われてしまえば、答えの選択は一つしか無い。ここで断ると真正面から紗夜のことを傷つけることになる。偽りの自分でいる時点で、いつかは彼女を裏切ることになるが、それでも今はまだ彼女の笑顔を見ていたい。だから仮面が剥がれないよう、表情に気をつけながら喜びに満ちあふれた声で答える。
「いいよ。もちろん」
すると紗夜は顔を真っ赤にして抱きついてきた。記憶の中で人に抱きしめられたのは初めてだ。
シャンプーのほんのりとした香りが鼻先をかすめる。良い香りだ。彼女のぬくもりはとても心地よい。そっと自分も抱きしめ返す。彼女の熱に身体全身が酔ってしまいそうな感覚に陥る。このままずっと抱きしめていたい。
しかし、それとは裏腹に、心の奥底は恐怖の色に染まっていた。こんなに近づかれると偽りの自分の存在が彼女にとって確かなものになってしまうのではないだろうか。様々な感情が全身を駆け巡り、心がとても痛い。
これからどうやって本当の自分を隠し通していこうか、何一つ決められていない。それなのに彼女の熱は偽りの仮面を通り越してその先の、冷たい心までも溶かしてしまいそうだった。
紗夜はそっと離れ、僕の頬に手を添える。
「……本当は付き合いたくないのでしょう?表情を見れば何となくそんな気がします」
何を言われたのかを理解をするのに時間がかかった。曖昧な表情で紗夜は僕を見つめていた。藍色の瞳は先ほどのように暗く沈んでいる。
何秒か思考停止した後、ようやく彼女の言葉の意味を理解した。それは紗夜がすでに偽りの仮面の存在に気がついてしまっているという確かな証拠だった。
もう何も考えられなかった。
本当は何かを言わなくてはいけないと分かってはいたが、喉が渇き、さらに心も朽ち果て、一言も発せなかった。
「今日を逃したらもう奏真さんと話せなくなる気がして、つい付き合わないか聞いてしまいました。ただそれだけなのでお気遣い無く……今の返事は聞かなかったことにしますから、安心してください」
さみしそうに目をそらした彼女は言葉をこぼす。そしてふがいない僕に笑いかける。
紗夜は一体どんな気持ちでその言葉を紡いだのだろうか。心の汚い僕には想像もつかない。ただ、人当たりの良い、親しみやすい頼れる人という仮面をかぶった僕でさえも紗夜を傷つけてしまっていることは確かだった。
そもそも僕という存在自体が紗夜の近くにいてはいけなかったと悟る。
……こんな仮面、もういらない。
亀裂の入った仮面を思考の外へ投げすて、僕は何も言わずに立ち上がり、部屋から出る。
「ちょっと、奏真さん、どこに行くのですか!」
焦りの表情を浮かべる彼女に後方から呼び止められるが、無視して玄関の扉を開けた。
マンションの屋上へ行こうと階段を駆け上がる。当然息が上がる。
僕には逃げることしか出来なかった。これ以上紗夜を傷つけたくなかった。住んでいるのは八階だから、残り三階分上れば屋上に達する。何もかも思考を放棄して屋上から飛び降りればきっと全てが上手くいくだろう。息を切らしながら何段もの階段を駆け上がる。
……ああ、僕は弱いな。
息が苦しい。しかし不思議と心地よい。
……階段を登るのに疲れて、何もかも忘れてしまえれば良いのに。
屋上まで後一段のところまできた。その一段を上ろうとしたとき、不意に先ほど自分を呼び止めた紗夜の、不安に駆られた表情が頭をかすめる。
愛する彼女を騙してしまった罪は重い。だから自分が消えて償おうかと思ったが、ここで死に逃げればきっと紗夜は永遠に僕のことを忘れられなくなってしまうだろう。それは更に彼女を縛り、傷つけることに繋がると気がついてしまった。
「それじゃ、どうすれば良いのかよ」
最後の一段を上りきり、柵のあるところまでとぼとぼと歩く。その間、いくつもの涙が頬を流れた。
柵に着き、欄干に腕を乗せて寄りかかる。十階建てのマンションの、屋上からの景色はいつもと何も変わらない。
ふと僕はここから飛び降りる自分を想像してみた。自己満足的な達成感で飛び降りた直後はとても気持ち良いだろうけど、それは一瞬で過ぎ去り、すぐに壮烈な痛みが全身を巡りそうだと人ごとのように考える。
辺りは日が暮れ始め、空に所々浮かぶ雲は橙に光っていた。
卑怯な僕に一人置いていかれた紗夜は、今頃どうしているだろうか。その問いに答えるかのように、階段を駆け上がる音が少しずつ大きくなって耳へ届く。
紗夜が僕を探している。その事実に少しの歓喜を心底に留めつつ、本当は僕など捨ててどこか遠いところへ逃げていてほしかったと呟く。
先ほどまで感じていた紗夜に嫌われるという恐怖はすっかり無くなり、ただ、逃げ出した価値のない僕に未だにとらわれる彼女が可哀想でならなかった。
これから僕は一体どれほど深く彼女を傷つけていくのだろうか。
……もういっそのこと紗夜の心を傷まみれにして、僕だけのものにしてしまおうかな。
恐ろしい考えが頭をかすめ、自分の残酷さに嫌気がさした僕はすぐさまその危ない思考を振り捨てる。もう、僕は救いようが無いほど、壊れてしまっていたようだ。
屋上までたどり着いたのだろうか、聞こえていた足音が止む。道を走る豆粒のような自動車を目で追いながらこれからどう彼女に声をかけようかと考えを巡らせるが、何も思いつかない。
夕方の静けさに包まれた屋上で一呼吸を置いた後、先に言葉を発したのは彼女の方だった。
「待って!……飛び降りるなら、その、一緒に飛び降りるのはどうですか?」
予想外の提案に、何かの聞き間違えだと思った。
「一緒に、飛び降りる……?」
後ろを向くと紗夜がすぐそばに立っていた。
春の風が彼女の綺麗な黒髪をなびかせる。
紗夜の瞳には未だ藍色の端に暗く翳った色が浮かんでいた。なぜだかその翳った色が彼女を更に魅力的にさせている。
夕陽に照らされた彼女は普段より一層美しかった。思わずその光景に見とれてしまう。
しかし、先ほどの問いかけを思い出し、我に返る。本当の自分を隠す仮面が無いから、どう反応して良いか分からない。視線を何度かさまよわせた後、微笑を浮かべて問いかけた。
「僕のために紗夜の命を捧げてくれるってこと?」
少し意地悪な言い方になってしまったが、彼女は少し考えるそぶりを見せた後にゆっくりと縦に頷いた。
「奏真さんがいない世界なんて考えられないですから」
紗夜は切なく、恋い焦がれたような表情を自分に向ける。
「それは心底そそる提案だね」
もはや自分がどんな顔を紗夜に対して向けているのか分からなくなっていた。こんな状態にも関わらず、紗夜は透き通った白い肌を赤く染め、視線をそらす。
どうしてそんな表情を彼女はするのだろうか。
心臓の鼓動が高まる。気がついたときには、彼女の血のような紅に染まった唇に釘付けになっていた。思わずその唇を奪いたい衝動に駆られる。すんでの所で理性を保ち、こんな大切な場面でいかがわしい想像をしてしまった自分の卑しさを再認識した。
「でもそう簡単に命は差し出すものではないよ、紗夜。もっと自分を大切にしないと」
どの口が言っているのかと自分でも感じる。
「僕はただこうやって屋上で夕陽を眺めながら飛び降りたいって考えるのが日課でさ、本当に情けないよね。こんな僕なんかに構わないで他に好きな人を見つけるのをおすすめするよ。その方が紗夜だって絶対に幸せになれるよ」
彼女をとにかく突き放したかった。これ以上、僕の近くにいると彼女は僕の汚れに染まってしまうだろう。真の僕は彼女の隣に立つにふさわしくない。
彼女を置いて部屋を飛び出た際に、自分を保っていた仮面は手放してしまった。だから既に彼女を守る力は皆無であり、逆に僕自身が彼女を殺す凶器となり得る。僕が仮面の下に匿っていた僕は孤独でしか生きていけない、人の汚れた部分をかき集めたような人間だ。
紗夜の表情を伺うと、既に笑みを消し、無表情で僕を見つめていた。そして彼女は右手を上げたかと思えば、次の瞬間左の頬に痛みが走った。頬を叩いたその右手を微かに震えさせながら、彼女は藍色の瞳に涙を浮かべ、鋭いまなざしで僕を射る。
「他の人を見つけた方が良いだなんて、そんなこと言わないでください!」
紗夜の甲高い声が耳の鼓膜を刺す。そして震える両手で僕の肩をつかみながら言葉を続ける。
「私は奏真さんがいたからこの一年間、生きている実感が持てました。それまでは、毎日外に出るのでさえ怖くて、人と話すことだってままならなかったのです。例え部活の勧誘が目的だとしても、奏真さんが声をかけてくれてどれほど心が救われたか」
「……部活の勧誘なら僕以外も沢山の人が声をかけていたと思うけど」
「奏真さんは、私が、上手く話を返せなくても色々話題を振って、何度も話しかけてくださったではないですか!……大抵の人は苦笑いして離れていくのです。でも奏真さんだけは私をちゃんと見ていてくれました」
紗夜の頬を大粒の涙が伝っている。華奢な身体を震わせている彼女を僕は静かに見守る。
「それを今になってまたひとりぼっちにさせようとするなんてひどいではありませんか。でもそんな奏真さんも愛しいと感じてしまう程に、私は奏真さんのことが好きなのです」
そう最後まで言葉を終えた彼女は下へと目線を落とした。
紗夜の涙をみるのは初めてで戸惑いつつ、手を上げさせ、更に泣かせてしまったという罪悪感が心を灰色に染め上げる。
好きだと言われて嬉しいはずなのに、素直に喜べない。
「僕は根暗で卑屈でぼろぼろに壊れた人間だよ。今だって君を泣かせてしまっている。自分で言うのもなんだけど、僕なんか捨てて早く逃げた方が良いよ、紗夜。お願いだから、僕から早く離れてくれ……」
その言葉を聞き、顔を上げた彼女の藍色の瞳はもはや真っ黒に染まっていた。
「奏真さんは、一体何に対してそんなに怯えているのですか?」
「えっ?……ああ、うん」
どう話せば良いか分からず口ごもる。紗夜の瞳には、僕の心など全てお見通しなのかもしれない。
「……本当の自分がさ、僕だけで無く紗夜まで壊してしまいそうで……それが怖いんだ」
「……そういうことですか」
紗夜はくすりと笑う。
「元々壊れていたのですよ、私は。でも、奏真さんと出会って世界は変わって見えるようになりました。人と話すのが苦ではなくなりました。今目の前にいるあなたが私を救ってくれたのです」
涙を見せながら紗夜はその綺麗な顔に暖かい笑みを浮かべる。
「優しくて頼りになるところも、根暗で卑屈でぼろぼろに壊れた人間であるところも、全て含めて、私はあなたを、奏真さん自身を愛しています」
紗夜は落ち着いた声で、はっきりと僕に告げた。
……そうか。紗夜にとっては、仮面なんてものははじめから無いに等しいものだったのだろう。
僕は自分の仮面に囚われてばかりで、彼女の思いには全然向き合ってこなかったことに気がついた。
こんな僕でも紗夜は受け入れてくれるのか。
心に微かな喜びの色が生じる。愛しています、という先ほどの彼女の言葉を頭の中で反芻してみる。それは自分を許せない僕にとって、信じられないほどの満足感を与えてくれる救いの言葉だった。
大切なその言葉を胸に留めた後、そっと彼女の頬に手を添える。少し赤らめた頬をなでてみる。とても柔らかくて気持ちよい。紗夜が不安そうな表情をしながら、暗い藍色の瞳を僕へ向ける。
「僕も紗夜自身を愛しているよ……紗夜と付き合いたい。沢山、思い出を描いていきたい」
本心からの笑みを浮かべながら、先ほどよりも更に濃い紅に染まった彼女の唇をそっと指で触れた。
瞬く間に彼女の頬が熱を帯びる。紗夜の可愛い反応に見とれながらも、心の内には様々な欲望があふれ出ていた。
このまま彼女を地面へと押し倒したい衝動を抑え、驚かせないようにそっと紗夜の唇に口づける。双方の唇が重なった瞬間、甘い高揚感で心が満たされ、この世界が二人だけのものであるかの錯覚に陥った。じっくりとその重なりを深めていく。暗く、汚れた僕の心が口先から伝わる彼女の熱で少しずつ浄化されていった。彼女が受け入れてくれた僕を、今なら自分自身も許せる気がする。
そっと彼女から離れた僕に物足りなさそうな表情で藍色の瞳を向ける紗夜。彼女がいなかったら一生仮面で自分を偽り、作った笑顔で無機質な毎日を過ごしていただろう。
彼女は藍色の瞳に透き通った光を灯し、宝石のように美しいまなざしで微笑んでいた。
思わず僕は紗夜を力強く抱きしめる。紗夜のぬくもりと、落ち着く香りで全身が包まれる。紗夜も僕に答えるように深く抱きしめ返してくれる。
「僕とずっと一緒にいて、紗夜」
紗夜の小さい耳元にそっと囁く。その突如、僕を抱きしめていた彼女の腕が緩む。
「はい、喜んで」
紗夜は右手で耳を触りながら、そっぽを向いて恥ずかしそうに答えた。一つ一つのそぶりの可愛さに思わず見惚れてしまう。自分の頬あたりが赤くなりそうだ。いや、もうすでに遅いかもしれない。しかし幸い辺りが暗くなってきているので、気がつく人はいないだろうと安堵した。
自然と手が伸び、紗夜の左手に指を絡める。そして茜色の空を見上げながら、これからの紗夜との日々に思いを馳せる。
「そろそろ戻ろうか」
僕たちは沈んでいく夕陽に背を向け、階段の方へと足を進めた。
まだ完全に自分に対して恐怖が無くなったわけでは無い。彼女と共に歩みながら少しずつ強くなっていけば良い。
手から伝わる紗夜のぬくもりに触れながら、僕は何があっても彼女だけは必ず守り通そうと決意した。
お読みいただきありがとうございます。