部屋開放令
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーむ、年度初めからあっちゃこっちゃで工事しているなあ。あのお店もブルーシートがかかっているぜ。営業はしているみたいだけどな。
俺の住んでいるアパートも、いまは壁とか外回りの廊下とか点検中だ。足場も組まれていてさ、工事中のあんちゃんに、ここは踏むな、あっちは入るなとばかりに注意をくらったっけ。
この手の工事をする前にさ、ドアポストに投函されるだろ。「いついつまで工事をしますので、お騒がせします」みたいな文面で。
たいていは「ほー、へー、ふうん」と日程とかをチラ見して終わり。冷蔵庫の上にでも放り出して、それっきりってパターンが多いんじゃないか?
でもよ、万が一にも書いてあることがそれだけじゃない場合があるかもしれないぜ?
俺が前に体験したことなんだが、聞いてみないか?
俺が学生のころの話になる。
住んでいたアパートは築30年あまりと、そこそこ年季が入っていた。高校卒業から入居して4年目の春。部屋に帰ってくると、ドアポストの受け皿に折りたたんだ紙が一枚入っていた。
印刷面がこちらを向くように投函されていたそれは、工事のお知らせだった。一週間後の土日に、ここの近くで工事をするので、ご迷惑をおかけしますって内容だった。
その日はたまたま文面をじっくり読んでいったんだが、印字が並ぶ一番下の余白に、真新しい鉛筆書きで書き足してある。文字の周りに黒粉が飛んでいて、かなり力を入れて書いたことがうかがえた。
「べっと、裏に書かれていることを、しっかり守ってくれ」
――なんだあ? やけに失礼な文面だなあ。
そう思いつつ、ぺらりとめくってみると、紫色の鉛筆書きででかでかと書いてある。
「表のじかんのうち、土ようの15じ45ふん30秒から45秒のあいだ、ベランダのまどとげんかんのドアをひらきっぱなしにしろ。さえぎるものをとちゅうにおくな」
どうも書いている途中で急ぎ出したらしい。ひらがなが目立つようになっている。
まさかいたずら書きとも思えず、紙の表に書いてある会社の番号へかけて、事情を尋ねてみようとしたんだ。
通じない。呼び出し音はしているけど、誰も電話に出んわ……うむ、許せ。
確かに営業時間なのに、延々と呼び出し音が鳴り続ける。一応、時間がある時には少しだけコールしてみたけど、音沙汰はなかった。
俺ももう途中から諦めモードでさ。電話代もただじゃないし、かけるのをやめちまったんだ。
そうこうしているうちに、工事の前日を迎える。その日は講義がなくって、久しぶりに睡眠を貪り、起きたときには夕方近く。気持ちばかりに締め切ったカーテンを開いて「あれ?」と思ったんだ、
俺の住んでいる場所は、二つのアパートが向き合うように立っていてな。俺が住むB棟のベランダは、A棟の玄関ドアの並びのちょうど延長線上にあたる。1階にある俺の部屋のベランダの先は、駐車場になっている。たいてい誰かが車を停めているんだが、ここ数日は姿が見当たらない。
そうなると向かいの部屋のドアが丸見えなんだが、それにくわえて、ドアが開きっぱなしと来ている。明かりをつけていないから、内装はよく見えない。
ただ玄関からずっと奥が、ぽっかりと明るく切り抜かれているのが分かる。俺の目の前にある窓と同じ形。ベランダへ通じる窓だ。
更によく見ると、カーテンらしき影がそよいでいる。おそらく開けっ放しになっているんだ。
もしこいつが、その部屋ひとつのみだったら、「えらく不用心だな」で終わらせていたと思う。
A棟の全ドア解放。一階と二階に8部屋ずつの合計16部屋。そのドアのいずれもが、B棟を招き入れんばかりに大口を開いているんだ。
俺の部屋と間取りが同じならば、玄関入ってすぐ左手のところに、ガスの元栓があってコンロをつないでいるはず。いくつかの部屋では、実際に火を扱っている音がしたし、人影も見えた。
こちらの視線に気づいたのか、さっと奥へ引っ込んでしまうこともある。だがドア事態を閉めることは、どの部屋もやらなかった。もう日差しは赤くなる時間帯だというのに。
背後でドアのチャイムが鳴る。出てみると、作業服を着た男の人だ。
会社の名前を告げられて、俺ははじめ首を傾げたよ。でも工事の紙のことに触れられて、ようやくあの、電話対応をさぼっていた会社だと分かった。
「確認のため参りました。明日の15時45分30秒から45秒の間で構いません。お迎えの部屋のように窓と玄関を開いておいてください」
「そのことなんですが、さっぱり理由が分からなくて。どうしてですか?」
「確実なことではないので、ご説明はできかねます。何も起こらなければそれでいいのですが、万が一の備えという奴です。お向かいの皆さんは、今日のうちから用意してくださっているのですよ」
本気か? とも思ったけど、全ドアが開いているのは確かだ。
その時間だけですよ、と念を押して俺はドアを閉める。目の前の廊下と、転落防止のための柵は、いつになくきれいに磨かれていたのが分かったよ。
その日も爆睡をかました俺は、ドアをどんどん叩く音で目を覚ます。
「早く! 早く窓とドアを開けてください!」
玄関から響くのは、昨日やってきた作業服の人の声。
寝ぼけまなこで時計を見ると、時刻はすでに15時45分を差す直前となっていた。
ぱっとカーテンを開く。窓越しには、引き続き玄関のドア開きっぱなしのA棟の姿があったが、変わっている点もある。
部屋の奥の窓。昨日は空の色に染まっていたそこが、尾を引くほどにまばゆい金色の光を放っているんだ。
じっと見つめることはできない。太陽をまともに見たときのように、目がくらんでしまう。
「玄関を開けてください! 早く!」
ドアの叩きがいっそう強くなる。俺は光にくらんでよろめきながらも、どうにか玄関を開ける。
「窓の方は?」
作業服の男の人は、俺の肩からのぞき込むようにして、部屋の奥を気にしている。
俺は向かいの様子を見ただけで、窓は閉めたままだ。それが分かるや、作業服の人は「いけない」と叫んで、俺の頭をがっと押さえた。
不意打ちだったうえに、相当力も強い。まともな抵抗もできないまま、俺は上がり口に叩き伏せられた。並んでいる靴によるクッションがなければ、固い床に顔面からぶつかっていただろう。
「何をする!」と叫ぶ間もなかった。
ほどなく、俺の背後でガラスが砕け散る音がする。ほぼ同時に、頭のすぐ上を猛烈に熱い何かが通り過ぎていった。
鴨居に頭をぶつけたかのような痛みが、遅れてやってくる。頭は抑えられたままだが、かろうじて目だけで見上げると、作業服の男の人も俺と同じように伏せていた。
その先で、柵が金色に輝いている。向かいの窓と同じだ。ちょっと見ただけで、眼球に痛みが走る。
「見てはいけない!」
男の人の声と一緒に、また頭の上を熱と痛みが走り抜けていく。
それから少し経つと、他のアパートのドアたちが閉まり出す音がする。抑えられていた頭を解放されて周りを見たら、B棟の人たちも同じようにドアを開けていたことが分かったよ。
作業服の人の話によると、あれは「流れ弾」らしいんだ。
詳しいことはその人も知らないらしいんだけど、どうもある時期になると、この辺りは何者かの戦場にほど近い場所になるようでね。
柵が磨かれたのは、その流れ弾を跳ね返す細工らしい。そのために工事期間を設けて、近隣に手を施したというわけだ。
どうも熱線の類らしい。俺の部屋の割られた窓にはドッチボールほどの穴が空いていたが、その縁は真っ黒こげになっていたんだ。