あずきと僕の長い一日
「えっと……、あずき。どういう意味でママなのかな?」
「ママ!」
すごいな、全く聞き耳を持たんぞこの子。それともあえて聞き流しているのか。だとしたら将来有望すぎてオトーサン泣いちゃう。涙が止まらなくなっちゃうよ。
「……ねえ、それどっちのこと?」
突然千夏が顔を寄せてきた。まだ千夏に慣れていないあずきの肩がびくっと震える。そんなに詰め寄らなくてもいいのに、と思っていると何故か春香も同じように顔を寄せてきた。何だこいつら。
「……二人ともどうしたのさ?」
「秋博君、これはあなたが思っているより重要な問題ですよ」
「そうよ。ちょっと黙ってて」
「は、はあ……」
黙るのは構わないが、そんなに重要な問題だろうか。確かにママと呼ばれると世間体的に気にはなるだろうが、ババさんよりは随分マシな方だと思うのだけれど。
「アキ、お前は詰めが甘い」
「……何の話ですか」
急に冬菜さんに釘を刺された。
……さっきから何なんだ一体。
気にはなるが、ここは下手に口を出さないのが得策だろう。二人の熱烈な視線を受けるあずきは居心地が悪そうだが、ここは頑張ってもらうしかない。可愛い子には旅をさせよ、とはこのことを言うのだろう。恐らく違う。
「ねえどうなの、あずきちゃん?」
「どうなんですか、あずきちゃん?」
「んーと、んーとねー……」
二人の催促に、あずきがようやく口を開く。それに合わせて、春香と千夏が息を呑む音が聞こえた。何だか得体の知れない緊張感が部屋を満たすが、取り残された僕はどうすればいいのだろう。ここは僕の部屋なのだが。
僕の戸惑いを余所に、あずきがゆっくりと腕を上げはじめる。
「ママ!」
そして、指示した。
「……え?」
「それは……、どういう?」
二人の、ことを。
□ ■ □ ■ □
もしかして、牧原と、真中で、ママだったのか。
そう気づいたのは、あずきがすっかり寝てしまった後だった。
なるほど、それなら二人を指さした気持ちも納得できる。
「お疲れ様です、秋博君」
僕の目の前に、茜色のマグカップが置かれた。
「ありがとう、春香」
「いえ」
寝巻に着替えた春香が僕の隣に座る。淡い桜色のマグカップに口をつけるその表情には、確かな疲労が色づいていた。それに複雑な感情を覚えながら、僕もマグカップに口をつける。インスタントコーヒーの大衆的な苦みが体に染みた。
「ごめんね、色々迷惑かけて」
「いいえ、大丈夫ですよ。まだ驚いているだけです」
そう言いながら、春香が隣の部屋に視線を移す。僕もつられて頭を動かすと、無防備な寝顔を浮かべるあずきと千夏が目に入った。一つの布団で寄り添うようにして眠る彼女たちは、姉妹に見えないでもない。
お前の決意を、メゾン春夏秋冬は全力でサポートしよう。
冬菜さんの宣言で、第一回『メゾン春夏秋冬』緊急会議は幕を閉じた。
あまりにも唐突なそれに僕は驚きを隠せなかったが、春香と千夏が二つ返事で了承したのだから納得せざるを得ない。それに僕にはその申し出を断るほどの力など、どこにも持ち合わせていなかった。
それからの記憶は、疲れと忙しさが相まってあまり覚えていない。千夏にあずきのお風呂を任せ、春香と二人で近所の奥様に服を借りに行って、冬菜さんは……、えっと、何もしてねぇな。いつの間にか自分の部屋に戻っているし。多分晩酌の続きでもしているのだろう。
まあともかく夜の十一時にあずきが寝付くまで、日常とは大きく逸れた時間に振り回されていたということだ。
三人……、四人がかりでもこの疲労感。
なるほど確かに、一人では無理がある。
「明日は私も千夏さんも暇なので、四人でお買い物に行きましょう。色々と必要なものがありますから」
「そうだね……」
近所の奥様の協力もあって数日分の衣類は確保したが、当然それだけでは生活できない。何が必要かはまだ漠然としているが、それは明日話し合えばいいだろう。とにかく今日は、色々とありすぎた。
「春香はどうする? 泊まっていくかい?」
泊まるといっても、春香の部屋まで徒歩数十秒なので特に意味はないだろうけど。ホットミルクの水面を眺めていた春香は何かを納得したように一度頷き、柔和な笑みを浮かべた。
「はい、よろしければ。もしも不測の事態になったら心配なので。秋博君は寝覚めが悪いで有名ですから」
「……そんなことで名前を轟かせていないつもりだけど」
少し間を置いて、二人で笑う。声を殺した力ない笑いは、今日一日を象徴しているようだった。
「僕が片づけるから、先に休みなよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。おやすみなさい、秋博君」
「うん、おやすみ」
春香が隣の部屋に移動したのを見届けて、二つのマグカップを手に流しへと向かう。
……さて、明日はどうなるかな。
未来を見ることなんて、平凡な僕にはできはしない。
だけど願うことぐらいなら、できる。
明日も、あずきが笑顔でいられるように。
「……頑張ろう」
心の中でもう一度決意を固めて、僕は水道の蛇口を捻った。