あずきとババさんとママ
「この子の名前は、あずきです」
「あずきー!」
僕の声に、あずきだけが元気よく反応する。昼間よく寝ていたためか、九時を回っているにも関わらず元気だ。僕はさっきまで睡魔との頂上決戦をしていたというのに。
「……」
名前以外に紹介できることは、あずき本人も僕も持ち合わせていない。他の三人にはメールでこれまでの経緯を説明しているのでもう一度言葉にする必要はないが、それ以外に話すことなどあるのだろうか。
……ああ、あるか。
「僕の、娘です」
嘘でいい、なら。
部屋に充満していた沈黙が、緊張を孕む。
春香の心配そうな瞳も、千夏の不機嫌そうな顔も、冬菜さんのにやけ面もきっと同じ原因がもたらした結果だ。
……いや、何でにやけてるんですかあなたは。
「黙ってても仕方ないな。私の名前は馬場 冬菜だ。このアパートの大家をやっている」
にやけ面を一切崩すことなく、冬菜さんがあずきに向かって手を差し伸べる。突然目の前に現れた細腕に一瞬びくついたあずきだったが、恐る恐るその手を握った。そういえば狩野さんとも話していなかったし、あずきは人見知りなのかもしれない。
僕とのファーストコンタクトがあれだっただけに、俄かには信じがたいが。
「何と呼んでくれても構わんぞ、赤ずきん」
「あずきですよ、冬菜さん」
訂正を試みたが、冬菜さんは気に留める様子もない。まあ、この人らしい呼び方ではあるが。
冬菜さんの手を握ったまま何度か首を傾げていたあずきだったが、しばらくしてその表情をぱっと輝かせた。
「ん、何か思いついたの?」
「ババさん!」
「そ、その発音はちょっと……」
文字にするとわかりづらいが、この発音だと完全に『馬場さん』じゃなくて『婆さん』だぞ。何と呼んでもいいと言ったが、決して年寄扱いしろというわけではないはずだ。確かにこの中で最年長ではあるが、あの人はまだ二十代前半だぞ。
「ババさん、ババさん!」
「……娘をちゃんとしつける必要があるなぁ、アキ?」
さも楽しそうに連呼するあずきと対称的に、冬菜さんの眉間にしわが集合していく。平常あまり怒らない冬菜さんだが、さすがに気分を害したようだ。その様が珍しかったので放置してもいいのではとも思ったが、今後のことを考えるとちゃんと治してあげた方がいいな。
「私の名前は牧原 春香です」
「オムライスのオネーサン!」
今度は空気を読んで自己紹介を始めた春香に、あずきが前衛的な名前を付ける。確かに今はその印象が強いか、と春香と二人で笑みを零した。何事かわかっていない千夏が首を傾げる。
「秋博君……、お父さんとは幼馴染で、一つ下の学年ですが同じ大学に通っています。丁度上の階に住んでいますので、またいつでも呼んでくださいね」
お父さんのところで若干目が泳いだが、短くてわかりやすい自己紹介だったのではないだろうか。僕は決して自己紹介評論家を名乗っていないので偉そうなことは言えないけど。
「おさな、なじみー?」
「んーと、昔からの友達、ってことかな」
「なかよしー?」
「うん。そうだね」
あずきが今までちゃんと話せていたことを考慮すると、幼馴染という単語自体を知らなかったと判断するのが自然か。
友達=仲良しというのも可愛らしい発想だが、決して春香と仲が悪いわけではない。知り合った頃から今まで喧嘩をしたことがないといえば嘘になるけど、二人で旅行に行く程度には気の知れた関係だ。誇りを持って首を縦に振れる。
「……私は真中 千夏。秋博とは大学の同級生で、学部も学年も一緒」
何故か未だに不機嫌な表情の千夏の自己紹介はぶっきらぼうだ。何も思い当たる節はないが、部活で疲れているのだろうか。彼女のソフトボールに対する情熱には感服せざるを得ない。
……そういうことに、しておこう。
「がく……? んー?」
「ん、お友達、ってことだよ」
あずきに学部の説明をしても仕方ない、ということで噛み砕かせていただこう。今日はご機嫌斜めな千夏だが、普段からこういう態度というわけではない。その証拠に、大学でできた初めての友人は千夏だ。僕は四六時中ぶっきらぼうな人とは、友達にはなれない。
「私たちのことは、何と呼んでもらいましょうか?」
「えー、ババさんはいや」
「何だ、馬鹿にしてんのかナツ。家賃倍にするぞ?」
「じょーだんよ、冬姉!怖いこと言わないで」
春香と千夏の呼び方、か。さすがの春香もオムライスのオネーサンのままでは居心地が悪いだろうし、決まった呼称がないというのも不便だろう。だからといって僕が決めるのも変だし、あずきが呼びやすい名前を自分で考えた方がいいな。
「どーする、あずき?」
「なにをー?」
「あの二人の呼び方」
ちなみに冬菜さんの呼び方は後回しだ。僕はババサン呼びも嫌いではない。
「んー? んー。んー!」
この子は色々な「んー」を使うな。子供らしい……、のか? 今まであんまり小さな子供と話すことがなかったからわからないけど。
「ママ!」
いや、ほんとわからないけど。