あずきとオムライス
僕は今風のオムライスが苦手だ。
今風というのも違う気がするが、あれだ。卵がトロトロで、デミグラスソースがかかっていて……、みたいなあれだよ。
美味しいのは美味しいのだが『オムライス』という名前であれが出てくると、何だかやるせない気持ちになってしまう。
異論もあるだろう。だが僕は声を大にして主張したい。
……わかる人だけわかってくれればそれでいい。
「おまたせしました」
コトッ。
先ほどまでは闘技場であった卓袱台に、湯気が立ち上る皿が並べられる。グラスの水を飲んでいたあずきは、その様子に目を輝かせた。
「オムライスだー!」
つややかな堅焼き卵に包まれた、チキンライスの芳しい香り。眩いほどの黄色とコントラストを成すは、他でもないケチャップの赤。添えられた緑色のパセリも、また食欲をそそる。疲労で失いかけていた食欲が、思い出したかのように顔を覗かせた。
いうなれば、『古き良きオムライス』。
幼馴染である春香は、僕の好みを完全に理解している。
「……どうかしましたか?」
対面に座った春香が問いかけてくる。冷房の風に揺れた黒髪は、どことなく不安げだ。
「春香はいいお嫁さんになれると思うよ」
「お、お嫁さんだなんてそんな……!」
何故か身悶え始めた春香は置いといて、目の前にあるスプーンを手に取る。
さあ、いざ……。
「オトーサン!」
あずきの呼びかけに、卵を突き破ろうとしていたスプーンを止める。一体何事かと視線を移すと、赤いケープを脱いだあずきが不満げに頬を膨らませていた。
……何か気に障ることをしてしまっただろうか。
胸に手をあてて考えてみたが特に何も思いつかない
「どうしたの、あずき」
「いただきます、はー?」
「……ああ、そういうこと」
食前の挨拶を疎かにすることは、確かにマナー違反だ。春香と顔を見合わせて、同時にくすりと笑う。この怒られ方は何年振りだろう。
スプーンを皿に置いて、胸の前に両掌を合わせる。ちらっと確認したあずきの顔には笑顔の花が咲き綻んでいた。
その花はとても可愛らしいが、どことなく儚い。
「「「いただきます」」」
異なる三つの声が、アパートの一室に響く。
驚いた木の柱が、ミシッ、と小さく軋んだ。
□ ■ □ ■ □
「……事情はわかりましたが、大丈夫なんですか?」
これまでの経緯はきちんと説明したが、やはり気になっていたようだ。僕の方を見ないまま、春香が問う。皿を洗っていた手は止まり、水の流れる音だけが部屋に響く。
「できる限りは、頑張ってみるつもりだよ」
春香の手が、再び動き出す。僕も短く息をついて、皿に残ったケチャップをスポンジで落とした。少しの間シンクに留まっていたそれは、水流に耐えられず排水溝に吸い込まれていく。
しばらくの間、何も話さずに洗い物を続けた。料理を全くしないわけではないので洗い物には慣れているが、三人分の食器は少し多く感じる。
「……私、今日から泊まってもいいですか?」
沈黙を破ったのは春香だ。
……そしていきなりすごいことを言い出したな。
返事に窮した僕を見て、春香の頬が徐々に紅潮する。
「あ、あくまで一つの提案として、です。男一人じゃ困ることも多いと思いますので、お手伝い出来たらなと……」
「でも、これは僕が勝手に引き受けたことだからね? 春香が無理をする必要はないんだよ」
確かに春香の言うことは正しいが、感謝より先に申し訳なさがゴールテープを切った。春香には春香の生活がある。僕の事情でそれを乱してしまうのは、僕の信条にそぐわない。
「……言い方を変えます。私が、お手伝いしたいんです!」
僕の弱々しい返事に、春香が語気を強めた。うとうとしていたあずきがそれに驚いて、台所に顔を覗かせる。「なんでもないよ」と誤魔化して、再び春香と向き合った。
「あずきちゃんのことを秋博君一人に任せるのは不安ですから」
「……ごもっともで」
言い方を変えただけだけど。
そう言われると、確かにぐうの音も出ない。
僕は先ほど「できる限り頑張る」と言ったが、できる限りはあくまで僕の度量の話だ。それがあずきにとって最善である保証はどこにもない。僕だけの力より、春香の力を借りた方が良いというのは明白だ。
「ここは私のことより、あずきちゃんの、預かった命のことを考えてください」
春香の真剣な眼差しが僕を貫く。
……命を、ね。
「そうだね。じゃあ、お願いしても」
ピンポーン
ダンダンダンダン
首を縦に振ろうとした瞬間、チャイムの音がそれを遮った。間髪入れずに扉を叩く音が僕を急かす。怖がるあずきを春香に任せて、扉の鍵を開けた。
常識で言うなら、こういう時は居留守を使うと相場は決まっている。
しかしそれが知り合いと分かっているのなら、話は別だろう。
「千夏、夜なんだから少しは気を使って……」
「あんた、隠し子ってどういうことよ!」
「……は?」
なんか、またややこしいことになってませんか?