赤ずきんと牧原 春香
赤ずきん。
あかずきん。
あ、か、ず、き、ん。
あずき。
……僕の思考回路も案外単純なもんだ。
「あずき、お水飲む?」
「のむー!」
呼びかけたら返事をしてくれるというのは、気に入ってくれているということだろうか。
冷蔵庫から水をだし、二人分のコップに注ぐ。思わぬ来客に氷が小さく鳴いた。
見慣れぬ部屋に落ち着かない様子だった少女、もといあずきがぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる。その小さな背に合わせるために曲げた膝が悲鳴をあげた。子育ての大変さが数分で理解できた気がする。大げさか。コップの中身を一度で飲み干し、あずきが座る居間に向かう。
僕の住んでいるアパートは洋室と居間が分かれており、別にキッチンまでついているという大学生用の物件としては贅沢なものだ。元々冬菜さんと知り合いだったから借りられたが、そうでなければ争奪戦になっていただろう。あの人との繋がりがまさかこんな形で役に立つとは、七年前の僕は考えてもいなかった。人生とはわからないものだ。
「みせてー」
「だーめ」
操作していたスマートフォンを覗き込もうとしていたあずきを制止する。幼いころからこういうデジタル端末に触れることは視力の関係上好ましくない。使えるようになった方が確かに便利だが、あずきにはまだ早いな。
……もう保護者気取りか、僕は。
苦笑いを零して、メールを送信する。多分この時間だったらバイトも終わっているはずだ。急な頼みになるが、聞き入れてもらえるだろうか。
「……どうしたの? あずき」
視線を感じて横を見ると、あずきが突っ伏したままこちらをじっと見つめていた。宝石のような瞳が、白色蛍光灯を受けてさらに輝きを増している。
「おなかすいたー」
「今頼んだところだから待っててね。何かして遊ぼうか?」
「うん!」
どうやら手持無沙汰だったらしい。食事の方はどうにもしてあげられないので、メールの返信が来るまで何かで時間を潰すとしよう。
「何か……、あるかな」
当たり前のことだが、大学生の一人暮らしに子供用の玩具は不要だ。例に漏れず僕の部屋にもそういう類は一切ないが、物だけはたくさんある。部屋を見渡すと、いつか暇つぶしに買ったボードゲーム盤が見つかった。筋肉痛に鞭を打ち、こたつ用の机に乗せる。
「何か知ってるのある?」
「しろくろのやつー!」
「白黒……、オセロのことかな。いいよ、やろうか」
パッケージを覆う埃を払い、中からオセロの道具を取り出す。名前は忘れてても、オセロは憶えてるのか。記憶喪失といっても症状は色々あるはずだ。落ち着いたら一度病院に連れて行った方がいいな。
緑色の盤面に、白と黒の石を二つずつ置く。
「あずき、しろがいいー」
「仰せのままに」
ん、今自分のことあずきって言ったな、この子。
それが嬉しかったり、申し訳なかったり。
何だか複雑な気持ちのまま、
僕は白い石を、黒に裏返した。
□ ■ □ ■ □
ぴんぽーん
間の抜けたチャイムの音が、部屋に鳴り響く。僕は十三戦目となるオセロの手を止めて、玄関に向かった。ちなみに今までの成績は五勝七敗で負け越している。これは今後のために勉強しておいた方がいいな。
「ちょっと待っててね」
扉の向こうにもあずきにも呼びかけて、カギを開ける。
「いらっしゃい春香。ごめんね、急に呼び出して」
「いえいえ、構いませんよ。私も秋博君には栄養のあるものを食べて欲しいので」
一つ結びにした長髪に、日焼けなど経験したこともないような白い肌。アパートの二階に住む幼稚園以来の幼馴染、牧原 春香が、大きなレジ袋を携えて扉の前に立っていた。ふわりとした黒のロングスカートが、部屋から逃げ出した冷房の風に揺れる。
「でもどうしたんですか? いつもはご飯を作ってだなんて言わないのに」
「まあまあ、とりあえず入りなよ」
その理由と今、オセロをしているからさ。
言葉の続きは呑み込んで、春香を部屋の中に招き入れる。説明した方が春香のためだが、驚いてほしいという悪戯心が勝った。
「そういえば今日は登山をしたとか……」
ガサガサガサ
レジ袋が床に落ちる音がした。なんていう典型的で期待通りのリアクションなんだ。玄関でほくそ笑んでいると、春香が小走りでこちらにやって来た。その顔は何故か真っ青に染まっている。冷房が効きすぎていたか?
「わ、私……、どこまでもついて行きます!!」
「え?」
「秋博君がこんなことをするとは思いませんでしたが、秋博君が協力しろというなら私も覚悟を決めます! 一緒に刑務所に入ってもいいと思っています! だから、だから私も……」
「いやいや誘拐したんじゃないよ……」
春香の暴走が全く止まる兆しを見せない。今にも流れ落ちそうな涙をハンカチで拭ってやり、子供をあやすように頭を撫でる。
冬菜さん、あなたの偉大さがまた実感できましたよ……。
さて、どこから説明したらいいかな。