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赤ずきんと夏空

 ……オトーサン?


 視線の方向に首を動かすが、その先には清々しい夏空が広がっているのみだ。「青い空は人類のオトーサン」という意味ならば納得しないでもないが、目覚めた瞬間に哲学はレベルが高すぎる。一見したところ五歳ぐらいの少女が行える芸当でもないだろう。


 と、いうことは?


「オトーサン?」


「…………僕?」


「うん!」


 僕が、この子の、オトーサン?


 それってもしかして、父親という意味か? 


 もしくはファザー? パドレ? 


 ……いや、全部同じ意味だ落ち着け僕。


 頭を抱えて、深いため息をつく。混乱する僕を見て不思議そうに首を傾げた少女だったが、脇を通り過ぎて行った蝶を追いかけるために立ち上がった。ほんの少し前まで意識を失っていたとは思えないほど楽しそうに駆け回るその表情には、やはり見覚えがない。知り合いの子供でもなければ、まして親戚ではないだろう。


 一応釈明はしておくが、知らない間に子供がいるような不純行為は一切していない。僕の記憶がおかしくないのなら……、


 ん、待てよ、


 記憶?


「……ねぇ、ちょっと、君」


「んー?」


「お名前、は?」


「おなまえ? んー、んー?」


 問われた少女が首を傾げた。ケープからこぼれた金髪が、夏の日差しを反射して美しく輝いている。走り回った後だというのに、その額には一滴の汗も浮かんでいなかった。


「わかんなーい!」


「……そっか」


 やっぱり、思った通りだ。


 少女が倒れる前に放った言葉。


 わたし、は―――


 だ、れ?


 あれは、聞き間違いではなかった。


 つまり、あの少女は、


 赤ずきん、は。


「記憶、喪失、か」


 導き出した一つの答を、呟く。口にするには単純すぎるその言葉は、しかし重大で深刻な事態だ。さっきとは違う意味でため息をつく。


 記憶喪失の少女が、僕のことを「オトーサン」と呼ぶ理由。


 もしかして「刷り込み」というやつか?


 刷り込みというのは、鳥が初めて見た動くものを親だと認識するというあれだ。人間にそれが当てはまるかどうかは知らないが、思い当たる答はそれぐらいしかない。最もこの子が目に映る男性全てを「オトーサン」と呼ぶ性格なら仕方ないが、そんな珍妙な可能性はゼロに近いだろう。


 気まぐれで登った山の頂上で記憶喪失の赤ずきんに出会い、父親だと勘違いされる。


 事実は小説よりも奇なり。


 よく言われることではあるが、まさか自分の身に降りかかるとは。


「オトーサン、ちょうちょがいるよー!」


 僕の憂鬱を余所に、少女は可憐に舞い遊ぶ。いつの間にか少女の周りには、色とりどりの蝶が集まっていた。


 しかし、先ほどまで僕が追いかけていた赤い蝶は、どこにもいない。


「……そうだね」


 返事を待つ視線に負けて、苦笑に近い微笑を返す。僕の同意を受けた少女は満面の笑みを浮かべて、再び蝶とのダンスに戻った。


 ……ん、これは何だ?


 先ほどまで少女が寝ていた場所に、何かが落ちている。自然に溶け込んでいない真っ白なそれは、一枚の紙切れだった。紙の状態から察するに、少女の持ち物だろう。


 手を伸ばして拾い、何の気なしに紙を裏返す。


『この子のこと、よろしくお願いします』


 赤い字で書かれた切実な願いは、震えていた。



 □ ■ □ ■ □



 結局狩野さんは、一時間どころか三十分足らずで到着した。


「あの子が例の迷子かぁ?」


「……はい」


 少し先を歩く少女を見て、狩野さんが怪訝そうな表情を浮かべる。いかにも元気いっぱいなその様子は、確かに迷子だとは思えない。


「ねーねーオトーサン! どこにいくのー?」


「家に帰るんだよ」


「はーい!」


「君はいつの間に子供を」


「冗談ならやめてください」


 少しだけ体力を回復した僕は、狩野さんの肩を借りることで何とか歩くことができた。買ってきてもらったスポーツドリンクを口にする。まだ冷たいそれは、僕と同じように大量の汗をかいていた。


「記憶喪失の影響で、ああなったみたいです」


「……君のことだから嘘はついとらんじゃろうがなぁ」


 俄かには信じ難いという様子の狩野さんだが、言った本人も納得できていないのでどうすることもできない。乾いた笑いを返して、足を前に進める。


「それと、これ」


「おぅ?」


 狩野さんに先ほど拾った紙切れを渡した。


 文字を見た瞬間に、狩野さんの足が止まる。


「これは……、やばいかもしれんのぉ」


「……でしょ」


 普段はやかま……、元気な狩野さんが押し黙る。足こそ動き出したものの、表情は固まったままだ。


 どんよりとした雰囲気の僕たちを気にすることなく、少女が鼻歌を歌い始める。


「あるーひー、もりのなかー、くまさんにー、でああた♪」


 君が、赤ずきんが出会うのはクマじゃなくて狼だよ。


 ……もしかしたら、もう。


 不謹慎なその言葉は、スポーツドリンクと共に胃の中に押し込む。


 一体あの少女に、何があったんだ?


 吹き抜ける夏空は、ただただ静かに僕たちを見下ろす。


 答も過去も未来も、語ってくれるはずはなかった。



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