表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

あずきと新しい一日

 目が覚める直前。


 夢と現実の狭間に漂っている時間が好きだ。


 だから僕は、起きてからしばらく目を開けない。


 その趣味のために、僕は一般的に寝覚めが悪いとされている。幸福な時間を手放した瞬間は、多少不機嫌にもなるだろう? 僕の場合それが現実を目にした瞬間であるだけで、幸福の中身さえ違えばそれは誰にでもあてはまることだ。


 毎日数分だけ訪れる、至福の時。


 今日も僕は、文字通り現を抜かす。


 瞼の裏には仄明るい闇だけが広がり、僅かな耳鳴りだけが僕の世界を形作る。ここでは何も考える必要がない。こうやって無駄な思考を巡らせるだけの、充分過ぎるゆとりがある。


 ガチャ


 闇の向こうから、扉を開ける音が聞こえた。一人暮らしの僕にとってそれは稀有なことだが、春香と千夏が部屋に泊まっていたことを思い出す。だから心配する必要はない。二人とも僕の性質を知っている。もう少しこの時間に浸らせてくれるはずだ。


 タタタタ……


 やけに軽い足音が、僕の耳元で止まる。小走りをしていると推測される軽快なリズムは、聞きなれた二人の足音とは異なるものだ。


 二人よりももっと幼く、無邪気な足音。


 一体誰が……、ああ。


 昨日の非日常を思い出した瞬間、大きく息を吸い込む音が聞こえた。


 あ、まずい。


「オトーサン、朝だよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」



   □ ■ □ ■ □



 鼓膜はそう簡単に破れるものではない。


 理解はしていたが、流石に心配になる声量だった。


「おはよ、秋博」


「……おはよう、千夏」


 疲弊した僕の声に比べて、千夏の声は快活だ。先ほど僕の寝室で起こったことを理解している彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべている。今回の犯人は千夏だろう。一瞬だけ冬菜さんの顔が重なったが、目を擦るとその幻影は姿を消した。


 壁に掛けられた時計の針は、午前八時半を指している。


 彼女はまだ、目を覚ましてさえいないだろう。


 ……普段の僕と、同じようにね。


「オトーサン?」


 立ち止まった僕を心配したのか、手を繋いでいるあずきが首を傾げた。「大丈夫だよ」と小さな姿に微笑みかける。あずきに悪気は一切ない。ただ無邪気な感情に、悪い大人が入れ知恵しただけだ。


「春香は?」


「キッチン。朝ごはん、もう少しでできるってー」


「ホットケーキ!」


 言われてみれば確かに、キッチンから甘く芳ばしい匂いが漂ってきていた。僕の部屋にホットケーキミックスなんてなかったはずだから、早起きして用意してくれたのだろう。


「春香には頭が上がらないよ」


「本当に。年下っていうのが信じらんないわ」


 千夏の対面に座りながら、二人で苦笑を零す。生活リズムが乱れがちな僕たちの面倒を見る春香の姿は、すでに見慣れつつある。


 本来なら僕たちが反省するべきだが、彼女の無償の優しさに甘えてしまうと言うのが常だった。敬語を使うべきなのは僕たちのほうでは、とさえ思う。彼女にはいつかきちんとお礼をしよう。


 決意した所で、隣に座るあずきに視線を移す。待ちきれないという風にナイフとフォークを握る少女は、複雑な事情を抱えていることさえ忘れてしまっているのだろう。


 果たしてこのままの方がいいのか、悪いのか。


 朝目覚めたばかりの僕には判断できない。


「あずきはホットケーキ好き?」


 先の見えない思考を消し去るために、話題を変える。


 少なくともこんな明るくない考え、新しい朝にはふさわしくない。


「うん、だいすき!」


「そっか。よかったね」


 大好き、か。そんな純粋な表現、今ではもう使わなくなってしまったな。大人になるということは祝福されるべきことだが、時にそれは寂しいことでもある。


「千夏は甘いもの、好きだよね」


「うん、大好き」


 ……君はまだ迷いなく言えるんだね。少し感傷的になっていたのが恥ずかしくなってきたよ。まだ目覚めきっていない僕の脳に、二人の純粋さは眩しすぎる。


「ねーねーあずきちゃん。何か欲しいものある?」


「ほしいもの?」


「そー。朝ごはん食べたらみんなでお出かけだから」


「おでかけ! どこにどこに?」


「とっても大きいお店!」


「わーい!」


 千夏は子供と話すのが上手だ。微笑ましいその光景は、昨日と変わらず仲の良い姉妹を連想させる。それは千夏の精神年齢がどうとか、そういう話ではない。断じて違う。


「朝ごはんできましたよー」


 二人の楽しげな会話に耳を傾けていると、春香が両手に皿を持ってキッチンから顔を出した。彼女に挨拶と礼を述べて、朝食の支度を手伝う。ホットケーキの乗った皿を卓袱台に置き、コップにそれぞれ飲み物を注ぐ。


 春香にはアイスティー、千夏とあずきにはオレンジジュース、僕はホットコーヒー。


「よし、食べようか」


 四人全員が席についたタイミングを見計らって、手を合わせる。


 四人分の食器が並んだ卓袱台は、どこか窮屈そうだ。


「いただきます」


 高さも質も違う、四人分の声が響く。


 それが一瞬だけ本物の家族の様に思えて、でもそれは違うとわかっていて、


 どうすればいいかわからないまま、僕はホットケーキにフォークを刺した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ