あずきと新しい一日
目が覚める直前。
夢と現実の狭間に漂っている時間が好きだ。
だから僕は、起きてからしばらく目を開けない。
その趣味のために、僕は一般的に寝覚めが悪いとされている。幸福な時間を手放した瞬間は、多少不機嫌にもなるだろう? 僕の場合それが現実を目にした瞬間であるだけで、幸福の中身さえ違えばそれは誰にでもあてはまることだ。
毎日数分だけ訪れる、至福の時。
今日も僕は、文字通り現を抜かす。
瞼の裏には仄明るい闇だけが広がり、僅かな耳鳴りだけが僕の世界を形作る。ここでは何も考える必要がない。こうやって無駄な思考を巡らせるだけの、充分過ぎるゆとりがある。
ガチャ
闇の向こうから、扉を開ける音が聞こえた。一人暮らしの僕にとってそれは稀有なことだが、春香と千夏が部屋に泊まっていたことを思い出す。だから心配する必要はない。二人とも僕の性質を知っている。もう少しこの時間に浸らせてくれるはずだ。
タタタタ……
やけに軽い足音が、僕の耳元で止まる。小走りをしていると推測される軽快なリズムは、聞きなれた二人の足音とは異なるものだ。
二人よりももっと幼く、無邪気な足音。
一体誰が……、ああ。
昨日の非日常を思い出した瞬間、大きく息を吸い込む音が聞こえた。
あ、まずい。
「オトーサン、朝だよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
□ ■ □ ■ □
鼓膜はそう簡単に破れるものではない。
理解はしていたが、流石に心配になる声量だった。
「おはよ、秋博」
「……おはよう、千夏」
疲弊した僕の声に比べて、千夏の声は快活だ。先ほど僕の寝室で起こったことを理解している彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべている。今回の犯人は千夏だろう。一瞬だけ冬菜さんの顔が重なったが、目を擦るとその幻影は姿を消した。
壁に掛けられた時計の針は、午前八時半を指している。
彼女はまだ、目を覚ましてさえいないだろう。
……普段の僕と、同じようにね。
「オトーサン?」
立ち止まった僕を心配したのか、手を繋いでいるあずきが首を傾げた。「大丈夫だよ」と小さな姿に微笑みかける。あずきに悪気は一切ない。ただ無邪気な感情に、悪い大人が入れ知恵しただけだ。
「春香は?」
「キッチン。朝ごはん、もう少しでできるってー」
「ホットケーキ!」
言われてみれば確かに、キッチンから甘く芳ばしい匂いが漂ってきていた。僕の部屋にホットケーキミックスなんてなかったはずだから、早起きして用意してくれたのだろう。
「春香には頭が上がらないよ」
「本当に。年下っていうのが信じらんないわ」
千夏の対面に座りながら、二人で苦笑を零す。生活リズムが乱れがちな僕たちの面倒を見る春香の姿は、すでに見慣れつつある。
本来なら僕たちが反省するべきだが、彼女の無償の優しさに甘えてしまうと言うのが常だった。敬語を使うべきなのは僕たちのほうでは、とさえ思う。彼女にはいつかきちんとお礼をしよう。
決意した所で、隣に座るあずきに視線を移す。待ちきれないという風にナイフとフォークを握る少女は、複雑な事情を抱えていることさえ忘れてしまっているのだろう。
果たしてこのままの方がいいのか、悪いのか。
朝目覚めたばかりの僕には判断できない。
「あずきはホットケーキ好き?」
先の見えない思考を消し去るために、話題を変える。
少なくともこんな明るくない考え、新しい朝にはふさわしくない。
「うん、だいすき!」
「そっか。よかったね」
大好き、か。そんな純粋な表現、今ではもう使わなくなってしまったな。大人になるということは祝福されるべきことだが、時にそれは寂しいことでもある。
「千夏は甘いもの、好きだよね」
「うん、大好き」
……君はまだ迷いなく言えるんだね。少し感傷的になっていたのが恥ずかしくなってきたよ。まだ目覚めきっていない僕の脳に、二人の純粋さは眩しすぎる。
「ねーねーあずきちゃん。何か欲しいものある?」
「ほしいもの?」
「そー。朝ごはん食べたらみんなでお出かけだから」
「おでかけ! どこにどこに?」
「とっても大きいお店!」
「わーい!」
千夏は子供と話すのが上手だ。微笑ましいその光景は、昨日と変わらず仲の良い姉妹を連想させる。それは千夏の精神年齢がどうとか、そういう話ではない。断じて違う。
「朝ごはんできましたよー」
二人の楽しげな会話に耳を傾けていると、春香が両手に皿を持ってキッチンから顔を出した。彼女に挨拶と礼を述べて、朝食の支度を手伝う。ホットケーキの乗った皿を卓袱台に置き、コップにそれぞれ飲み物を注ぐ。
春香にはアイスティー、千夏とあずきにはオレンジジュース、僕はホットコーヒー。
「よし、食べようか」
四人全員が席についたタイミングを見計らって、手を合わせる。
四人分の食器が並んだ卓袱台は、どこか窮屈そうだ。
「いただきます」
高さも質も違う、四人分の声が響く。
それが一瞬だけ本物の家族の様に思えて、でもそれは違うとわかっていて、
どうすればいいかわからないまま、僕はホットケーキにフォークを刺した。