赤ずきんと夏の山
ひきこもりの体にも、夏の日差しは平等に降り注ぐ。
こんなに不平等な平等は、他にない。
ミーンミンミーン
やかましい蝉のプロポーズが聴覚を奪い、頭痛を誘う。後ろで結んでいた髪はいつの間にか乱れ、首筋がちくちくとこそばゆい。慣れない太陽光に乱された視界は薄くぼやけ始めた。
……駄目だ、不快でしかない。
このままでは本格的に熱中症を発症しかねない。視界の端に座れと言わんばかりの切り株を見つけたため、そこに腰を下ろす。ペットボトルに残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干した。自己主張強めなデザインがほどこされたそれは、いつの間にか熱湯と化している。本来の役割を完全に失っているな。
「はぁ、くっそ……」
顔に蔓延る汗を拭いながら、ため息をつく。おまけに吐き出した悪態は、無論僕に向けた物だ。数時間前、家を出たばかりの僕を、今なら呪うことさえもできそうな気がする。今の僕にも呪いがかかることになるが、クーラーの恩恵を今すぐ受けられるならそれでも構わない。人間は瞬間的な欲求に正直だ。
……文句ばかり、だな。
来てしまったものは来てしまったのだ。過去を覆すことはできない。なら早い所目的を達成し、脱兎の如く下山する方が賢いだろう。鞄の中から黒い手帳を取り出し、表紙をめくる。思考を切り替えるために、頭を大きく横に振った。めくったばかりのページに、飛散した汗のシミができる。熱で頭が相当やられている。
「……えーと」
シミができたページを破り、今までの道中を思い起こす。まだ鮮明な映像を文字に変換し、ボールペンを走らせた。生い茂った木々、視界で飛び交う虫、響き渡る蝉の鳴き声……、白い紙の上に文字の山が創りあげられていく。
そう、僕は取材に来たのだ。
ちょっとした理由で文章に携わっている僕は、昨夜「夏の山」の描写に行き詰った。理由は単純明快。山登りなどしたことがないからだ。僕はそこに山があっても決して登ろうとは思わない。夏という条件が追加されるのなら、外に出ようとさえも思わない。夏を好きになるのは冬季限定である。ちなみに今は冬が好きだ。
「……こんなもんかな」
三ページ目を書き尽くしたところで、ペンを止める。これだけストックがあれば、ある程度の文章は書けるだろう。昨夜ネットの情報を頼りに描いた、ひどく無機質な「夏の山」を思い返す。実物は恐ろしい場所だったぞ、昨日の僕。クーラーの効いたアパートの一室が桃源郷と思えるほどにな。
まあ、何はともあれこれで目的は達成した。まだ正常な意識がある内に下山しよう。手帳を鞄にしまい、「パワハラだ!」と訴えかける体を立ち上がらせる。そろそろ退職願を出されそうだ。
…………ん?
帰宅への記念すべき第一歩を踏み出した僕の眼前を、何かが横切った。今まで視界をちらついていた羽虫とは違う鮮やかな色彩。眼球が自然とその後を追う。
「蝶、か?」
力なく羽ばたくその様子は、確かに蝶のそれだ。
しかし、あまりにも鮮烈なその色は、今まで目にしたことがない。
まるで、燃えるかのような、赤色。
紅蓮の羽を弱々しく、しかし誇らしげに羽ばたかせる蝶が、山頂の方に向かって飛んでいた。
心の中で衝動的な好奇心と、慢性的な疲労感がせめぎ合う。
「……もう少しだけ、だからな!」
まわれ右をして、再び山道を登り始める。全身の関節が悲鳴を上げたが、好奇心の献身的な介護によって不思議と足は動き続けた。いつか文章のネタになるかもしれない、と考えると足取りはさらに軽くなる。体力への不安は拭いきれないが、衝動に逆らうことができるほど、僕はまだ大人じゃない。
赤い蝶が木々の間を優雅に舞う。僕はその後ろを無様によろけながら追った。十分ほどその状態が続いた末に、やっと手が届きそうな距離まで近づく。
「あ……」
花の上で休んでいた羽に触れようとした瞬間に、再び蝶が飛びたった。体はとうに限界を迎えていたが、反射的にその姿を追う。
ガッ
「うわぁぁぁ!」
何かを蹴ってしまった。そう理解した時には、地面が目前にあった。上りが終わり、下り坂になっていた地面を無様に転げ落ちる。体中に更なる痛みが加わり、自分でも驚くほどの悲鳴が木々の間で反響した。
ドスッ
「いってぇ……」
終着点で尻餅をつき、転落が終わった。全身に鈍痛が染みわたる。
蝶は、どこに行った?
未だ冷めない好奇心が、僕を立ち上がらせる。纏わりつく草葉を払い、僕はゆっくりと顔を上げた。
「………………え?」
あまりにも幻想的なその景色は、まるで絵本を開いた時のように。
突如として僕の目の前に、広がった。
「赤、ずきん?」
今までの鬱蒼とした木々が嘘だったかのように、開けた景色。
色とりどりの花が夏の暑さを謳歌している、中心に。
赤ずきんが、立っていた。
虚ろな蒼い双眼が、僕の姿を映す。
「わたし、は―――」
人形の様な口が、小さく動く。
「だ、れ?」