第35話 ザリエル
「ヘデルよ、
このザリエルの顔を見よ。
なぜ自分が
ここまで来てしまったのか
まるで
わかっておらぬようだ。
わからせてやるがよい。」
滝の中から
ベルジバルの声がした。
「はっ」
ヘデルが
かしこまって
頭を下げると、
無踏のほうに
向き直り
傲慢な態度で、
あごをしゃくり上げたまま
近づいて来た。
ベルジバルは
俺のことを
ザリエルと
言っているのだなと
無踏は思った。
しかし
俺はそんな名前じゃないぞ。
勝手に
適当な名前で呼ぶのは
止めてもらいたいな。
無踏はいい気がしなかった。
ヘデルは
無踏の意識の動きを
嘲笑って見ていたが、
「知らずにここまで
来てしまった訳を
知りたかろう。」
もったいぶった
言いかたをして、
邪悪で
油断のならない色が
滲んだ目を細めた。
そして
焦らすように
間をあけてから
「それは
大蛇に呑まれたからじゃ。
呑まれなければ
よかったがのう。
おぬしの意識には
大蛇の胃液で
穴があいておるのじゃ。
その穴から
わしはそなたを
自由に操ることが
出来わけじゃよ。
もはや、
おぬしは
わしの思いのままに
なっておる
と言うことじゃ。
ギヒヒヒッ」
魔界は精神誘導をする。
ヘデルは
無踏の意識に
強い不安と恐怖を
植え付けながら、
薄気味悪く笑った。
そして
急に
真顔になると
「すっかり昔のことは忘れて、
わけがわからぬようだな。
過去世の名前がわからぬ、
というのは
いたしかたあるまいが、
思い出してもらおうか。」
ヘデルが言うと、
目の前に
砂と岩が
ゴロゴロしている
広大な
荒野が現れて来た。
それは
ヘデルの魂の記憶から
投影されている
立体映像だった。
そして
それは無踏が
実際その中にいるような
臨場感を持って
迫ってきた。
空は夕方のように暗く、
厚い雲に
覆われていて、
太陽が見えない。
いつの時代のものなのか。
あちらこちらに
肉食恐竜が
飢えて餌を
探しまわっている。
始祖鳥のような鳥が
何羽も
岩の上にとまって、
怪しい人間達の様子を
窺っている。
無踏は目を疑った。
無数の兵士達が
はるかかなたまで
展開していて、
巨大な軍団が、
なにかの攻撃に
備えているようだった。
それぞれの兵士の目は
真っ赤に燃えている。
邪悪で
凶暴性を帯びた波動を
放出していて、
それぞれが
さまざまな種類の
武器を持っていた。
そして
全員が
いっせいにかたずを飲んで
一点を
見つめているようだった。
ズーッと
目を転じて行くと、
最前列の真ん中に
角だらけの甲冑を
身に着けて、
背中から
こうもりの羽根が
生えている
指揮官のような男が
呪文を唱えながら、
腕を大きく広げて
何かを念じていた。
甲冑は
着けている
というのではなく、
体自体が変形して
甲冑のように
なっているのだ。
顔は
牙が
唇の端から突き出て、
目の奥に
憎悪が
ギラギラと光っている。
邪悪さは
居並ぶ兵士達とは
比べものに
ならないくらい
最悪なもので、
とても
人間とは思えなかった。
どのくらい
念を
凝縮し続けたのだろうか。
顔や体から
汗が
滴り落ちている。
突然、
「うぉーっ」と、
全体にどよめきが上がって、
みんなが指を指した。
見ると
空間にポツッと
小さい穴が開いて、
柔らかい光りが
射し込んで来ていた。
指揮官はなおも
念を凝縮し続けている。
兵士達は興奮して
口々に
驚嘆の声を
上げながら
凝視していたが、
そのうち
誰からともなく
「ザリエル、ザリエル、ザリエル」
兵士達のあいだから
声が上がり始めた。
それが
瞬く間に広がって、
大地を揺るがす
大合唱になった。
無踏は震えるほど
心に激震が走った。
まさか、
これがザリエルなのか。
無踏の意識は
混乱して
この事態を
受け入れることが
出来ないでいた。
ベルジバルが
ザリエルと言っていた自分は
こんな奴だったのか。
自分の過去の世の姿は
考えてみたことも
なかったが、
まさか
地獄の世界にいたとは。
悪逆の
限りを尽くしていたのか。
どれほど
酷いことを
してきたのか。
無踏の頭の中は
混乱して
冷静では
いられなくなっていた。
映像のこの世界は
立ち枯れて
痩せ細った
生気のない木が
ひょろひょろ
所々に生えていて
荒涼感を
深めている。
ザリエルの力は
限界に達していた。
死力を振り絞って
念を凝縮している。
空間に開いた穴が
少しづつ広がって、
人が通れるほどになった。
穴の中から
淡い金色の光りが
漏れ出ている。
ザリエルは
その穴が閉じないように
念力で固定すると、
振り向いた。
そして
全体を見渡すと
「皆の者、よいか。
これから突撃を開始する。
情け無用じゃ。
思う存分
手柄をたてるがよい。」
ザリエルは
体を穴のほうに向けると、
顔を兵士達のほうへ振り向け
「突撃ーっ」
と号令をかけた。
そして
そのまま先頭をきって
穴に飛び込んで行った。
「うおー」
大音響の雄叫びが
響き渡って
兵士達が先を争って
次々に
穴へ飛び込んで行った。