第34話 溶けたのか
優子は座り込んだまま
虚脱感でボーッとしていたが、
ふと我に返った。
こうしてはいられない。
急いで
無踏の傍らににじり寄ると
体を揺った。
「一郎さん、一郎さん、大丈夫?」
大蛇に呑まれると、
鉛色男の言うがままになってしまう。
心配で優子が声をかけた。
しかし反応はない。
人格が溶かされてしまったのか。
「一郎さん、しっかりして。」
みんなが口々に声をかけて
体を揺すった。
無踏は夢うつつの内に
自分を呼んでいる声が
遠くからかすかに響いて来るのを
不思議に思いながら聞いていた。
サエと綾香は
狐につままれたようで
この状況を
理解出来ていなかった。
良一がおかしくなり、
次に無踏が変になり、
そして今度は
優子が部屋の中で
何かを相手に
戦っているような
動きをしている姿を見て
気が狂ったのではないかと
恐れていたのだ。
しかし何か
ただならぬ事態が
生じていたらしいことは
なんとなくわかってきていた。
優子自身も
我が身に生じたことが
信じられなかった。
まして自分に
あのような
大立ち回りが
出来るなど
思いもよらない
ことだったのだ。
意識が戻らない無踏は
自分を呼んでいる声の方へ
無意識に引き寄せられて行く。
声がだんだん
大きくはっきりして来て、
おやっと思った瞬間、
無踏は一息深く呼吸すると
目を開いた。
「ここはどこだ。
どうしてここにいるんだ。」
無踏は自分が
何をしているのかわからず、
理解しようと必死に手がかりを
探していた。
「あっ、気がついた。」
全員がいっせいに
無踏の顔を
覗き込んだ。
人格は大丈夫なのか。
優子はそれが心配だった。
「私が誰だかわかる?」
わからなかったら絶望的だ。
問いかけられたが
無踏の記憶は真っ白で
何も思い出せない。
ゆっくり顔を優子に向けると
不思議なものでも見るような目で
ジッと見つめていた。
わからないのだろうか。
やはり変になってる。
どうしよう。
優子の不安は
ますます高まった。
無踏はしばらく
ぼんやりしていたが、
そのうち
浮遊している物が
すーっと
沈澱して行くような
感じとともに
記憶がじわじわ戻って来た。
ああ、優子だ。
自分がわかるかと
聞いているんだな。
無踏はやっと
理解出来るようになった。
そして
「ああわかるよ。」
とひとこと言うと
自分を認識出来た安堵感で
目を閉じた。
優子はホッと
胸をなでおろした。
部屋の中の
雰囲気が明るくなって、
全員に
元気なエネルギーが
流れ込んだ。
しかし
この出来事は
一体なんだったのか。
なぜ沢山良一に
このような化け物が
取り付いたのだろう。
意識が回復した無踏は
不審に思った。
それから
数日後の午前中、
自宅で無踏は
突然頭痛に襲われ、
頭を抱えてうずくまった。
だが、
しばらくすると
痛みは治まって来た。
しかし、
何だか頭が重く、
気分がすぐれなかった。
「風邪でもひいたかな。」
と思ったが
「まあ、
たいしたことはないだろう。」
と気にもせず、
珈琲を入れて
飲みながら、
また大蛇と戦って
呑まれてしまったことを
繰り返し思い出していた。
人間は強烈な体験をすると、
その記憶が際限なく
繰り返し蘇って、
堂々巡りするものなのだろう。
梅雨の晴れ間で
雲は多かったが
陽は出ていた。
あの時
「どうして助かったのだろうか。」
と優子にたずねてみたが
優子は
「さあ、どうしてかしら、
誰かが助けてくれたんじゃ
ないのかしらね。」
と言っただけで
あとは何も言わなかった。
というより、
大蛇に呑まれると
人格が溶かされて
あの男の言いなりになってしまう
ということまで説明しなければ
ならなくなる気がして
優子はそれが
怖くて言えなかったのだ。
もしそれを言ってしまうと
無踏が気に病んで
暗示にかかり、
おかしくなってしまわないとも
限らないからだ。
だから無踏にとって、
そのことは
いまだに謎のままだった。
大蛇に呑まれて
意識を無くしていたために
その間の記憶が
途切れてしまっている。
あの測候所以来
おかしなことばかり
起こるようになったな、
と無踏は怪しんだ。
珈琲を飲み終えて
仕事に取りかかろうと
二階の仕事部屋に上がって行った。
そして机の前に
座ろうとしたつもりだった。
しかし
気づくと
壁に据え付けた
洋服箪笥の
扉を開けて
ジャケットを取り出し、
着ていた。
おれは何を
やっているのだろうと
無踏は一瞬
思ったようだが、
それでも
止めようとは
しなかった。
無意識なのか。
それとも
仕事に乗り気が
しなかったためなのか
意味不明の
行動を取っていた。
そして
階段を下りると
玄関を出て行った。
本人は散歩にでも
出たつもりなのだろうか。
駅の方へ歩いて行く。
電車に乗るのか。
散歩にしては歩調が速い。
やはり電車だな。
無踏と
同行二人の私は
勝手に憶測した。
商店街の通りの
十字路で
ちょっと立ち止まった。
それからそこを
駅の方向へ右折したが
無踏の目が
なぜか嬉々(きき)として
輝き出した。
その目は
あの元酒屋を改装した
喫茶店をまっすぐ
凝視している。
そして
その店の前に立った。
なんだ、
この店に
来たかっただけか。
私は肩透かしを
食ったような気がして
大げさに心配していた
自分がおかしかった。
無踏は入ろうか入るまいか、
ちょっと
戸惑って
いるようだったが、
意を決して
ドアを開けると
中へ入った。
「いらっしゃいませ。
お一人様ですか。
ご案内いたします。」
ウエイトレスが
にこやかに先導して行く。
客がけっこう入っていて
繁盛している。
珈琲の薫りが
店いっぱいに溢れて
心地よかった。
ほとんどの客が
モーニングセットを注文して
厚切りのトーストと
目玉焼きを
ほうばっていた。
無踏は店の奥まった席に
案内されて
席に着いた。
家で珈琲を
飲んで来てはいたが、
やはり
モーニングセットを
たのんだ。
珈琲カップが
軽く触れる音や
話し声が混ざり合って
活気を感じる。
その中に
音量を落としたジャズが
流れている。
ウエイトレスが運んで来た
モーニングセットの珈琲を
ひと口すすった。
喫茶店が
醸し出す雰囲気の中で
飲む珈琲は
家で飲む珈琲と
満足度が少し違うように
無踏は感じた。
ゆったりした気分で
ジャズを聞きながら
一時間以上
そこにいただろうか。
いつまでも
遊んでいるわけにもいかない。
そろそろ帰らなければと
腰を上げた。
支払いを済ませて
外へ出た。
一二歩歩き出して
「あれっ」
無踏は思わず
立ち止まった。
「ああー、
どうなってるんだ。」
大慌てで
周囲を見回した。
パニックになっている。
「商店街がないぞ。
なんでだ。」
後ろを振り返って
喫茶店を見た。
当然
あるだろと思って
振り向いたのだが、
そこには
朽ち果てた
神社の社が
ポツンと
建っているだけで、
周囲は広葉樹が
びっしり生えている
山の中だった。
無踏は思わず
社にかけより、
扉を開けてみた。
そこには
神道の丸い鏡が
祀ってあるだけで、
喫茶店は跡形もなく
消えていた。
「これはどうなっているんだよ。
こんなことあり得ないぞ。」
これは絶対夢だろう。
無踏はどうやっても
この現実を信じることが
出来なかった。
しかし
何か夢でもない
現実感があった。
しばらく
パニックの状態だったが
少し落ち着いて来た。
仕方がない。
家に帰る道を
探さなければならないぞ。
無踏は一応
太陽の位置を見て
何かを
感じようとしていたが、
結局
それをやっても
無駄だとわかって、
当てずっぽうで
歩き出すしかなかった。
樹木は
生き生きとしているが、
日光が遮られて
陰影が深く薄暗い。
それでも、
どんどん歩いて行くと、
滝の流れ落ちるような音が
微かに聞こえて来て、
そちらのほうへ
引っ張っばられるように
進んで行った。
水の音が
徐々(じょじょ)に
大きくなって、
梅雨時で
水かさの増した滝の音が
ドウドウと
音を立てている。
そこから
草や笹をかきわけて
滝の落ちている
ところまで降りて行った。
滝の脇に
少し広い場所があって、
そこに立って
滝を見上げると、
それほど
大きな滝では
なかったが迫力がある。
どうしてこんなところへ
来てしまったのか。
こんなことが
あるのだろうかと
無踏はまったく
理解出来なかった。
「そうだ。
この川に沿って
下って行けば
どこかの町に出るだろう。」
突然、閃いた。
そしてすぐに
無踏が川沿いの
道を見つけて
歩き出そうとした。
「そうはいかぬぞ。」
どこからか
声が聞こえたような気がして、
ビクッと
動きを止め、
周囲を見回した。
しかしわからなかった。
どうも
滝のほうから
聞こえて来たような気がして
滝に意識をこらした。
すると
水が勢いよく落ちて
水しぶきに
煙っている滝の中に、
ゾッとするような
冷たい視線を感じて
背筋が凍った。
「しばらくじゃったのう。
わしじゃ。
ベルジバルじゃ。
忘れてしまったか。
おぬしは忘れても、
わしは決して
忘れることは出来ぬのだ。
おぬしの裏切りで、
我が地の軍団は
天の軍団に大敗したあげく、
ラスホル大帝王は封印され、
地の軍団は
自由に動き回ることすら
出来なくなって
しまったのだ。」
声の主はそこまで言うと、
不意に、
無踏とは別の方向へ声をかけた。
「ヘデルよ。
よくやった。
そなたの働きで
裏切り者を
ようやく
見つけることが出来たぞ。
この手柄によって
そなたを
大隊長に任命いたそう。」
「ははーっ。
恐れ入りまする。」
ヘデルと言われた男が
出て来ると
片膝をついて、
姿を現さない相手に
頭を下げた。
無踏は
「ああっ」
と声を上げそうになって
目を見張った。
あの鉛色男が
大蛇と共に
目の前にいるではないか。