第112話 サホミ
びっくりした女は声もなく、固まったまま
イタチを凝視していた。
まさか、
お地蔵さんがイタチに変身するとは
思っても見なかったのだ。
心臓はまだドキドキしている。
イタチは女を優しい目で
暫く、じっと見ていたが、
クルッと身を翻すと
開けた穴から外へ出て行った。
女はイタチに見つめられているうちに
何か動物とは思えない妙な感覚に陥って
恐怖心が徐々に溶かされ、
拒絶感が薄れて行くのを感じていた。
イタチは目でついてくるように言っているようだった。
女はイタチのあとについて外へ出た。
しかし、出て見ると
高い土塀が行く手を阻んでいる。
これを越えられるのか。
モタモタしていて、
ここの住人に見つかりでもしたら、
ただでは済まない。
逃亡者はどんなひどい目に会わされるかわからないのだ。
女はこれまでに、
どれほど残酷な凄惨窮りない処刑を
見て来ただろうか。
それを考えると
逃げる気力も失せてしまう。
女は迷っていた。
このイタチを信じていいのだろうか。
こんな力の弱い動物に、
この世界の邪悪と狂気に対抗出来るのだろうか。
女は強い恐怖心に苛まれて、
逃げるのを止めたほうがいいと思った。
逃げても逃げ切れないだろう。
捕まって残忍な処刑をされるより、
人身売買の道具として扱われたほうが
安全ではないかと思ったのだ。
そして迷いながら足を止めると、
そのまま引き返して、
破れた板壁の穴にまた入り込んでしまった。
「サホミ」
背後から自分の名前を呼ぶ声がした。
ビクッと体が硬直した。
誰か私の名前を知っている者がいる。
サホミは頭を穴から出して回りを見回した。
辺りに人影はなく、
まだ続いている酒盛りの喧騒が
聞こえて来るだけだった。
そしてイタチが立ち上がってこちらを見ていた。
今私の名前を呼んだのは誰だったのか。
まさか、このイタチなのか、
サホミは怪訝な表情で
イタチの顔を穴のあくほど見つめた。
イタチが可笑しそうに「にっ」と笑った。
「怖がらなくてもいいよ。
早くここから出よう。心配いらないよ。」
サホミの意識にイタチの声が響いて来る。
サホミは驚きながら、
なぜか心の中にホッと温かいものが広がるのを感じて、
イタチについて行きたい想いが沸いて来た。
この世界に来て
今までこのような温かさは感じたことがなかった。
まわりに温かさというものを
持ち合わせている者は一人もいない。
皆自分中心で他人の痛みなど眼中にないのだ。
欲しい物は相手を殺してでも奪い取る。
しかし奪った物はまた奪い取られる。
落ち着いて何かをしようとか、
何かを楽しもうとか、何かを作ろうとか、
そんなことをしてはいられない。
あっ、と言う間に襲撃されて奪われるのだ。
サホミも生きている時、
自分ではまったく気がつかなかったが、
他人のために尽くしたということはほとんどなかったし、
自分が良ければ他人はどうなっても、
まるで興味などなかった。
むしろ苦境に陥って苦しんでいる者を見ると
馬鹿にして面白がった。
無能だからそうなるんだと嘲笑った。
生まれも良く、美貌に恵まれ、
なに不自由なく暮らして、
他人から受けることが当たり前の生き方を
疑うことはなかった。
一度想い方が固まってしまうと、
自分の力でそれから抜けることは
不可能に近いのだ。
サホミは意を決して
イタチの促しに迷いながらも
ついて行くことにした。
サホミは再び外へ出るとイタチの後に従った。
イタチが土塀をスーッと通り抜けると、
続いてサホミが抜けようとした。
「あっ、抜けられない。」
サホミは慌てて
もう一度抜けようと土塀に体当たりした。
しかし抜けられなかった。




