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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

貴方の悩みをお伺いしますよ

作者: 島吉里実

「城崎さん、貴方の悩みをお伺いしますよ……」

 男はそう言うと、城崎に腰掛けるように促した。城崎は困惑した表情で周囲を見た渡す。

「貴方とは少し距離がありますが、大丈夫。貴方の声は私に届いておりますから……」

 城崎は“そういうことなら……”と呟き、男に指示されるまま、座る。

「あ、あまり表沙汰にはしたくないことなのですが……」

 城崎の言葉を頷いた男は全て理解しているという意味を含んだ笑みを城崎に向ける。

「ご安心ください。貴方がお話したことは何があっても口外致しません……。私はね、信頼関係を大事にしたいのです……。それに……」

 男は前のめりになると、囁くように城崎を説き伏せる。

「広めたくはないが、誰かには知ってほしい……。悩みを持った方は皆、そのようなお考えをお持ちだ……。貴方もでしょ?」

 城崎は男から目を逸らし、逡巡した。男の言葉は城崎の心を見透かしていた。

「広めないというお約束をしてくださるのであれば……」

 城崎は緊張した面持ちで自分の心の内に秘めた悩みを打ち明け始めた。

 

 城崎が“初めて”結婚したのは6年前の話になる。

 相手の女性は万有子。色白で丸顔、どこか幼さが残る顔つきをしており、そう言った特徴から市松人形を彷彿とさせる女性だった。城崎と万有子は同じ大学に通い、それぞれ別会社に入社して1年ほどの交際ののち、結婚した。

 結婚した際、万有子は寿退社をしても良かったのだが、お互い貯金が少なく、万有子は奨学金の返済の義務を背負っていた。今後の生活や将来生まれるであろう子供のためにも、二人は共働きという選択をした。

 問題が発生したのは、結婚後半年経った頃だった。

 ある日、万有子の部署で窃盗事件が発生した。万有子と働く同僚の女性の財布が盗まれたのだ。社内で窃盗事件は初めてのことであった。その財布を皆で探すと、万有子のロッカーの中から見つかった。万有子は自分が犯人ではない、何かの間違いだと否定した。万有子の勤務態度は至って真面目であり、普段の素行から窃盗を働くとは考えられなかった。そもそも社内のロッカーには施錠機能がない。それらのことから、恐らくは別に犯人がいて、盗んだ財布を隠すために一時的に万有子のロッカーを利用したに過ぎないのだろうという結論に行き着いた。被害者の女性も万有子が窃盗を働くような人物ではないと上司に説明してくれたおかげで、今回の万有子の処分は不問に処された。各自貴重品は自分自身で徹底した管理をするようにという通達が出たのみであった。

 被害者の女性は万有子に普段通りに接してくれたが、万有子自身は職場で居辛さを覚えるようになっていった。

 その一ヶ月後、再び、財布の窃盗事件が発生した。盗まれた財布は前回の持ち主とは別の人物であった。同じ事件が一ヶ月前にあったことから皆、万有子を疑った。そして、皆の予想通り、財布は万有子のロッカーの中から見つかった。

 今度ばかりは上司も万有子へのフォローができなかった。その上、二度目の窃盗事件の被害者は前回の女性とは違い、感情的な女であった。公衆の面前で万有子を罵倒した。万有子の人格中傷から始まり、果てはあったこともない城崎、そして、万有子の両親に対しての侮辱的な言葉を万有子に投げつけたのだ。社内での万有子の信用はすでに失墜しており、誰も女の醜悪な罵倒を止める者はいなかった。一度目の被害者の女性も沈黙を決め込んでいた。万有子は黙ってその罵声に耐えるほかなかった。

 万有子は警察沙汰にしない変わりに懲戒解雇という処罰を受けた。懲戒解雇となると再就職の道は難しい。万有子は専業主婦として生活することを選んだ。彼女が社内で窃盗を働いていたこと、彼女の奨学金の返済を城崎の給料で補わなくてはならないこと、城崎の両親が万有子に対して嫌悪感を抱き始めたことから、その頃から夫婦関係がギクシャクし始めてきた。

 そのうちに、三度目の窃盗事件が起こってしまった。スーパーの買い物客の財布が万有子の鞄の中に入っていたのだ。このスーパーの買い物客は先の被害者とは違い、見ず知らずの年配の女性だった。今回の事件は警察沙汰になってしまった。盗難カメラには犯行の現場は映っていなかったが、彼女の鞄からは年配の女性の証言通り、被害者の財布が出てきた。万有子の両親はその日の夜、城崎とその両親の目の前で万有子を平手打ちにした。万有子は赤く腫れ上がった頬を押されながら、尚も犯行を否定し続けていたが、その言葉を受け入れる者はその場にいなかった。

 万有子の両親は嫌がる万有子の頭を押さえつけ畳に叩き付けると、嗚咽混じりに懇願した。

「このような手癖の悪い娘に育てたのは我々の責任です。どうか離婚という形で許してください」

 万有子は声を殺して泣いていた。そして、その夜であった、万有子が自殺したのは――。

 万有子は両親と共に実家に戻った。万有子は親の隙をついて家の抜け出すと、踏切を越え、線路内に侵入し、電車に跳ねられてしまったのだ。即死であった。

 警察署から連絡を受け、城崎と“万有子だったもの”が再会したのは霊安室だった。万有子の両親は最後まで城崎一家に迷惑を掛けてしまい申し訳ないと、頭を下げ続けた。

 城崎は万有子の両親の謝罪を見つめ続けるも、目の前の事実を受け入れることができなかった。目の前の肉片は万有子ではなく、どこかの学校の破損した人体模型だ。そんな浮ついた想像をしながら、城崎は呆然と千切れた万有子の死体を見下ろすほかなかった。

 万引き窃盗の発覚の末の自殺という流れなので葬式などは行われず、司法解剖の後、即火葬という手続き優先の――路上に放置された動物の死骸処理そのものであった。彼女は流れるように骨となってしまった。彼女の両親としてはそのようにしなければ、城崎一家への面目が立たないと判断したのだろう。そして、その骨は万有子の両親が引き取った。

 

 城崎は全てのことが片付くまでの間、周囲から指示されるまま、行うべき手続きをこなした。肉体の動きと区切られたような形で、城崎の脳内では一つの考えが死に際のカトンボのように浮遊していた。

 万有子は最後まで自分の犯行を否定し続けていた。彼女の言い分にも耳を貸すべきであったのではないのか。そうすれば、彼女は最悪の選択をすることはなかったのではあるまいか。

 万有子の骨が埋葬された後も、カトンボは城崎の内部をふらつき続けた。城崎は夢か現か分からないまま、仕事をこなし、家へ帰ると倒れるように寝た。今まで通りの習慣を何も考えず繰り返すことで――自分の体内は歯車でできていると思い込むことで自分の生命を維持しようとした。

 その城崎の生活に変化が訪れた。その日、城崎の家に訪問者があった。最初の窃盗の被害者である、瞳子である。瞳子は仏壇に線香を上げるため、万有子を悼むため、やってきたのだ。万有子は彼女の実家に引き取られたため、城崎家の仏壇にいない。しかし、折角来てくれた瞳子を返させるわけにもいかない。城崎は瞳子を家へ上げた。

 瞳子は仏壇に手を合わせると、さめざめと涙を流した。

「可哀想な万有子さん……。二度目の窃盗事件の時、私は万有子さんが信用できなくなっていて、彼女に何もしてあげられなかった……。今思うと、彼女に手を差し伸べてあげていたら、こんなことには……」

 瞳子は顔を覆い、肩を震わせた。

「いいえ、貴方は悪くありません。むしろ、当然の反応です。全ては犯罪行為を繰り返した彼女が悪いのです……」

 瞳子は泣きはらした目を城崎に向けた。

「貴方の言うとおりです……。貴方は優しい方ね……」

 二人は万有子との思い出を語り合った。城崎にとって久々に心が柔らかくなる瞬間であった。一通り話を終えると、瞳子は手帳を破り、城崎に差し出した。

「これは私の連絡先です。今度、別の場所でお話ししませんか……」

 瞳子は自分が独身であり、男性から連絡があっても問題ないことを付け加えると、その場を後にした。

 これをきっかけにして城崎と瞳子は交際を始めた。

 しかし、この関係は城崎にとって心地よいものではなかった。第一印象こそ、お淑やかだと思われていた瞳子だが、日が過ぎるにつれ、彼女の別の側面が見えてきた。一言で言うと、瞳子は面倒くさい女であった。

 瞳子とは色々なことで衝突した。朝の連絡のルールから始まり、言葉遣い、気遣いの方法、部屋の掃除の仕方、洗濯の仕方、食器の使い方など。小言が細かいこともさることながら、彼女は常に自分の意見を押し通そうとした。城崎に対して譲ろうという気持ちが微塵も感じられなかった。彼女とそう言った些細なことで衝突する度、自分は母親に仕付けられている幼子ではないのかという錯覚にさえ陥った。

 城崎は万有子との齟齬のない生活が懐かしんだ。彼女の手癖が悪くなければ、彼女が自殺などしなければ――。そのような思いがしばしば城崎の脳裏を掠めた。

 それと重なるように奇妙なことが起こり始めた。瞳子に嫌気が差し始めた辺りから、万有子が夢に現れるようになったのだ。彼女は城崎に対して必死に訴えていた。

『私は違う――犯人は……瞳子――』と。

 この夢から覚める度に、城崎は不快な気分に襲われた。夢の仲の万有子が言うように、三度の窃盗事件は瞳子が仕組んだ物であったのか。しかし、一度目や二度目はともかく三度目は平日のスーパーで起こったことであり、しかも全く見ず知らずの女性が被害者なのだ。当時の瞳子は平日勤務だ。

「俺、疲れているのかな……」

 城崎は繰り返し見る夢を、瞳子とそりが合わないことへの苛立ち、彼女を自分のテリトリーから遠ざけたいという気持ちが万有子の形となって夢に現れているのだと結論づけた。万有子の言葉が本当かどうかはともかく、自分は瞳子に対して疲れ切っているということだけは悟ることができた。

 城崎は瞳子との別れを決心した。しかし、それを瞳子に伝える前に事態は急変した。瞳子が妊娠してしまったのである。避妊に失敗したのだ。責任をとる形で、城崎は瞳子と結婚した。

 結婚生活に息苦しさを覚える城崎にとって、生きる活力は生まれてくる子供への期待だけであった。

 

 子供が生まれてから、城崎は夢か現か分からないまま、仕事をこなし、家へ帰ると倒れるように寝た。瞳子との接触を極力避けるためだ。今まで通りの習慣を何も考えず繰り返すことで――自分の体内は歯車でできていると思い込むことで自分の生命を維持しようとした。万有子が死んだ時と変わらない心境に、城崎は失笑を禁じ得なかった。

 それでも子供には罪がない。たまには家族サービスもしなければならないと半ば義務感に動かされ、ある日曜日、瞳子、子供を連れて近くの公園へ散歩することになった。

 公園で珍しい人物に出会った。三人目の被害者である、年配の女性である。彼女は目ざとく城崎を見つめると、城崎達に近寄り、頭を下げた。

 万有子の窃盗事件の詫びをするため、城崎は、この老婆の元へ何度か通ったことがある。それ故にお互いに顔を知る仲となっていた。老婆は城崎よりも瞳子の方に興味を抱いているようであった。城崎の妻が窃盗の犯人なのだから、この老婆が自分たちの元に近づいてきたのも、窃盗犯の顔を確認するためであろう。しかし、その張本人はもうこの世にはいない。もし、瞳子のことを万有子と勘違いして、あの時の怒りをぶつけるようであれば、子供を守るためにも老婆を制しなければならないと、城崎は身構えた。しかし、老婆の口から出た言葉は意外な物であった。

「あんた、あの時、財布が盗まれていることを教えてくれた女性じゃないのかい?」

 瞳子の表情は凍っていた。


 自宅へ帰ってからすぐ、城崎は瞳子に問い詰めた。

「私、その日はスーパーに行っていないわっ!仕事だったものっ!」

 瞳子は始めこそ、あれば老婆の勘違いだ。私より老婆の言葉を信用するのねと、城崎を罵り始めた。城崎は黙ってボイスレコーダーを見せた。

「お前が“スーパーに行っていない”って言葉はとらせてもらったぞっ……」

 瞳子は初め、城崎の行動を理解できなかった。城崎はかみ砕くように説明した。

「万有子のスーパーでの窃盗事件は警察沙汰になった。確かあの日の監視カメラの映像はまだ、警察署に残っているはずだ。残っている映像は万有子と被害者が映っている所だけじゃない。その日一日分の全カメラの記録だ。そのどこかにお前が映っていたら、お前が嘘をついていたことになる……」

 必要であれば、お前が勤務していた会社の当時の出勤記録も調べる。本当にあの日、君は職場にいたのか確かめてやる。

 そこまで言い切ると、城崎は肩から荷物を下ろすようにため息をついた。

「万有子はお前と結婚する前から、夢で訴えていたんだ……。お前が犯人だとな……」

 それが留めだった。瞳子は腰が砕けたようにその場に座り込み、恐怖に戦いた表情で城崎を見上げた。しかし、それも一瞬だけのこと、気が強いこの女がこの程度で引き下がるはずがなかった。

「調べたかったら、調べなさいよっ!確かに防犯カメラには私は映っているでしょうね!けどっ!」

 瞳子は隣の部屋から子供を抱えてくると、涙を浮かべ、子供の頬に自身の頬を重ね合わせた。

「貴方のお父さんはお母さんを悪者にしようとしているのよっ!」

 瞳子は冷ややかな流し目で城崎を睨めつけながら、勝ち誇った表情を見せた。

「そうよ。三回とも私が仕組んだことよっ!でも、しょうがなかったのよっ!だって、彼女、仕事できなかったんですものっ!」

 瞳子の告白はこうだ。

 万有子は勤務態度こそ真面目であった。しかし、その作業速度は他の同僚と比べても遅かった。要領が悪かったというべきだろうか。しかも、必要な記述を抜かした書類を提出するなど、小さなミスを繰り返していた。その場で報告すれば、まだ、ケアレスミスで済んでいたというのに、万有子は皆の前で叱責されることを恐れるがあまり、そのミスをひた隠しにし、出来る限り自分だけ解決しようとしていた。結果的に周囲の人間が気づいたときには、小さなミスが取引先まで絡んでしまった大事に発展してしまう。そのようなことが何度かあった。そして、その尻拭いは先輩である瞳子が行っていた。

「彼女のお世話がこりごりだったの。だから、仕事を辞めてほしくて居づらくさせようとしたの」

 瞳子は自ら退職届を出すように仕向けるために彼女に窃盗の罪を着せたのだ。人目を見計らって、自分の財布を万有子のロッカーに突っ込んだ。自分の財布だったので、犯行は簡単だった。後は財布がなくなったと騒げばいい。

「一度目の窃盗事件の時、お前は万有子が犯人じゃないってかばったんだろっ!お前はなんでそんな矛盾した行動をしたんだっ!」

「だって、寛大に許してあげているってとこを示せば、皆、私を褒めてくれるじゃないっ!現に、皆、私のこと、優しいねって慰めてくれたわっ!」

 城崎は瞳子の屈折した自己愛に絶句した。この女は万有子を排除しようとしつつ、悲劇の女性を演じ、周囲の者から持て囃して貰いたかったのだ――彼女は承認欲求の塊だった。

「一度目の時点で辞めてくれたら、私だってこれ以上、窃盗事件を大きくさせなかったわよっ!けど、彼女、あんな事件があったのに厚かましく居座り続けるんだものっ!」

 そこで瞳子は二度目の犯行を決行した。二度目も自分自身の財布だと怪しまれるため、今度は普段から身の回りの管理がだらしないお局の財布をターゲットにした。昼休み、彼女が財布を机に置いたまま、席を外しているのを確認し、それを持ち出し、再び、万有子のロッカーに隠したのだ。隠してすぐお局が騒ぎ始めたため、タイミングが悪ければ自分の犯行がばれていた、あの時は少しスリルを感じたなどと、瞳子は輝かしい戦歴を誇示するように語った。

「三度目のスーパーの一件は何だったんだっ!あの時、万有子はもうすでに懲戒解雇になっていたんだっ!罪を重ねさせる必要がないだろっ!」

「だって、懲戒解雇のくせに楽しそうに買い物しているんですものっ!反省が足りないと思ったのよっ!」

 その日、瞳子は区役所で住民票を発行して貰うため、有休を取って休んでいたのだ。その日の午後、スーパーへ行くと万有子がいた。彼女は他の主婦に溶け込んで買い物をしていた。過去のことを忘れ、無邪気に商品を選んでいる姿を見かけた途端、瞳子の中で職場時代の苛立ちがふつふつと煮えかえってきた。瞳子は一種の使命感に駆られた。自分が世間に対して負い目を感じて生きなければならない存在なのか、彼女に改めて教え込まなくてはならない、と。

 瞳子は鈍くさそうな老婆の財布をそっと抜き取り、それを万有子の鞄に入れた。そして、老婆に告げた。

『貴方の財布を、あの女性が抜き取りましたよ』

 と。瞳子は老婆が万有子にわめいている間に店を出た。後は知る通りである。万有子は自殺を選んだ。瞳子はそれを新聞で知った。万有子の記事に目を通しながら、ふと、彼女の夫がどのような人物なのか、確かめたくなってきた。しょうもない男でなければ、万有子はやはりその程度の女であったと、改めてあざ笑うことが出来るし、好みの男であれば味見したかった。万有子と相思相愛だった男に自分の体液を擦り付ける行為は万有子の心を更に痛めつけるようであり、想像しただけで実に痛快であった。

 瞳子の話を聞き終わった城崎は苦々しく歯ぎしりをした。

「何が反省が足りないだっ!ただ気にくわない人間を貶めている屑だっ!貴様はっ!!」

 怒りが頂点に達した城崎は瞳子の頬を殴ろうとした。しかし、それより先に瞳子は子供の顔を城崎の前に突き出した。

「今、私が言ったことを明るみに出れば、この子は犯罪者の子供になっちゃうのよっ!貴方は親としてそれが許されるべきだと思っているのっ!」

 城崎は怯んだ。目の前の女は自分の所業を棚に上げ、自己中心的な倫理観を振りかざす、人間として許されざる極悪人だ。しかし、その女との間に生まれた子は愛しい我が子だ。母親が犯罪人として世間から公表されれば、この子の人生に余計な業を背負わせることになる。城崎の本能が子供の不幸な未来を拒絶していた。

「うっ……」

 城崎の視線が瞳子の腕の中にいる子供に注がれた瞬間だった。瞳子は城崎が握っていたボイスレコーダーを奪うや否や、床に投げつけると、近くにあった花瓶で何度もたたき割った。ボイルレコーダーはあっという間にプラスチックの破片に成り果ててしまった。

 瞳子は大きく肩で呼吸をしながら、子供を抱きしめる。

「母親って生き物はね、子供のためならどんなことだって耐えられるのっ!強くなれるのっ!」

 瞳子は立ち上がると、畳み掛けるように言い放った。

「あの窃盗事件は皆、あの女の犯行っ!ババアが言ったことは勘違いっ!今日の話は忘れるっ!貴方は明日からこの子のために頑張って働くのっ!いいわねっ!もう一度言うわよっ!あの窃盗事件は皆、あの女の犯行っ!ババアが言ったことは……」

 瞳子が全てを言い終わる前に、城崎は家から飛び出していた。



「……気づくと私は夜の闇の中をさまよい歩いていました。もうあの家には帰りたくなかったのです……。瞳子の同じ空気を吸うことが嫌だった……。何だか子供も同罪のように思えてきました……。そして……」

 城崎は俯き、ズボンの裾を掴んだ。

「万有子が不憫に思えてきたのです……彼女は窃盗を繰り返した末に、信頼を失い自殺した女として、誰からも理解されず、悪名を背負い続けると……。それが無念で無念で……」

「それで……」

 と、今まで城崎の話を黙って聞いていた男は、視線を城崎から隣の踏切へ移動させた。

「……前の奥様が自殺された踏切に侵入し、その後を追ってしまったという訳ですね……」

 ガードレール腰を掛けていた城崎は黙って頷いた。

「死んでしまった今なら、現実と向き合えば良かったと考えることができます……。しかし、あの時の私は死んで詫びること以外、思いつかなかった……」

「そうですか……」

 ここで二人の会話が途切れた。暗闇を切り裂くようにけたたましい音を立て、電車が二人の横を過ぎていったからだ。電車の窓は男と、二人を隔てる道路だけを照らす。

 反対車線のガードレールに座っていた男は立ち上がると、道路を横切り、ガードレール8に座る城崎の前に立った。

「貴方は……気の毒な方です……」

 男は瞼を閉じ、城崎の肩に右手を添えた。城崎は追悼する男を見て、目頭が熱くなるのを感じた。死人の自分の言葉に耳を傾ける人間が現れただけでも幸いなのに、それどころか、自分の心と寄り添おうとしてくれている。これがどれだけ有り難いことなのか。城崎は目の前の男の尊さに感謝した。

「けれど……」

 男は目を開くと、右手の上に左手を重ねた。

「顧客の要望は叶えないとこちらとしても商売が成り立たないので……」

 男はそう言うや否や、城崎の肩と腕を引きちぎった。城崎は断末魔のような叫び声を上げるとその場に倒れ込み、仰け反り回った。荒い呼吸を漏らしながら、男を見上げる。

「ど……どういうことだ……」

「私はね、霊を駆除することを専門とする霊媒師なんですよ……」

 男――霊媒師は“死んでも痛覚があるって厄介ですよねぇ”と、せせら笑いながら、城崎の腕を投げ捨てた。

「私の依頼者は城崎瞳子様……。今は再婚されて、金野瞳子様ですがね……」

 霊媒師はその後の瞳子の動向について説明した。

 瞳子は夫に先立たれた気の毒な妻として、世間から同情を買った。瞳子に肩入れしている親族達が新しい相手を紹介し、瞳子とその相手を見合いさせたのである。

「お見合い相手の金野様は貴方より収入のよろしい方だそうです。お子さんは貴方のご両親が育てることになりまして……身が軽くなった城崎瞳子様は先月、無事に再婚することができたというわけです……」

 霊媒師は激痛にもがく城崎の胸を踏みつけ、城崎と目線を合わせるようにしゃがんだ。

「瞳子さんの懸念はただ一つ。貴方が誰かの夢枕に立って事実を伝えようとする可能性があることです。かつて万有子さんが貴方にしたように……」

 事実の露見を恐れた瞳子は高い謝礼金を払い、城崎と万有子の魂をこの世界から消し去るように霊媒師に依頼したのだ。

「安易に自殺なんて選んではいけませんよ。だって、歴史っていうものは生きた人間が……勝者が自分の都合がいいように語り継いでいくものなのですから……」

 霊媒師の口角が残忍に持ち上がった。かつて瞳子が万有子の尊厳を踏みにじって快感を得たように、城崎の尊厳を踏みにじることを楽しんでいるようであった。

「先にも申しましたが、貴方がお話ししたことは誰にも広めませんよ。だから、貴方は幼い子供を健気に育てる妻よりも、泥棒女を選んだ馬鹿な男として語り継がれてください……」

 霊媒師は城崎の頭を掴み、捻るように引っ張り上げた。


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