The answer is……
テーブルには、山盛りのサラダを載せた皿が置いてある。
溢れんばかりのレタスの山は、そこだけが別世界のように見えなくもない。
茶色いテーブルを侵食する緑の怪物を見つめながら。
「サラダを載せた皿だ……」
土師京子は、震える手でフォークを握っていた。
「何それ、笑えばいいの?」
目の前のサラダを小皿に取り分けながら、金谷隆は言う。
「もぐもぐ、たまには健康的なものを食べなさいって、もぐ、木野ちゃんの気づかいだよ」
食べるのか喋るのかを明確に区別せず、さらにもう一口ハンバーグを食べながら、木野恵が続く。
最近は講座がほぼ同じだからか、この三人でいることが増えた気がする。
「だってこないだの部屋、酷かったんだもん。カップ麺と空ビール缶の山、山、山」
先ほどのハンバーグを飲み込んだ恵が、講座の課題を仕上げようと京子の家に行った時の事を思い出して言った。
「めぐ‼あれはね、たまたま。そう、たまたまね、ああなっただけで」
京子がパタパタと手を動かす。うっすらと浮かんだ汗からすると、相当な状況だったらしい。
「えー、たまたまだってあれはないないない」
「そうかなぁ」
必死に弁解する京子だったが、恵に容赦という文字はなかった。
「そうだぞ、ちゃんと自炊しろ、自炊」
「金谷、カレーのヘビロテは自炊とは言わない」
京子は、隆も同じだと言いたげだが。
「何を。カレーは正義だ」
『どんな正義だ』
汲まない隆と、京子と恵の息のあった突っ込みも、もう見慣れてきた風景になった。
「そういう恵は、ちゃんと食べてるのかよ」
「木野ちゃんは安心安全の実家暮らしですから」
「あー、はいはい。箱入り娘は羨ましいねー」
そう言ってそれぞれにサラダを渡す。
「そうそう。めぐに悪い虫がつかないようにって、心配なのよ」
サラダを受け取りながら、京子が言う。
「実家暮らしだって虫はつくだろ。そういう土師はどうなんだよ」
「隆みたいに、積極的に虫になろうとするやつ以外は来ないわ」
「男っ気ないもんな、土師は」
「そうだよ。京子ちゃんのお部屋を見たら、男の子のお部屋かってびっくりしちゃうんだから」
そういう恵は、サラダが手元に届く前に、すでにハンバーグを完食していた。
「ある意味、男っ気ありありだな」
「ちょ、またその話」
京子は慌てて、恵の口を塞ごうと手を伸ばす。
「ま、土師が持てないのは、仕方がない。自業自得って奴。ところでさ、木野。こないだの日向先生、あの話、どうだった?」
その話はもう終わったとばかりに、隆が別の話を始めた。
「もう」
京子が悔しさのあまり声を上げる。
「んー、あの話って、どの話?」
「ほら、食物の摂取傾向と成長、発達の関係性がどうこうって掲示してあったやつ。ドレッシングはどこだ」
「フレンチ?はい。それ、私も気になる。聞きに行けなくて」
京子と隆の視線が、恵に注がれる。
「んー、あんまり、食事中にする話じゃないなー。それでもいい?」
恵の視線は、目の前の空のハンバーグ皿に注がれて。
「グロい?」
京子が聞く。
「ん、グロくはないけど」
恵が答える。
「……ハンバーグ、追加していい?」
『まだ食うのか』
恵の食欲は、何に対しても勝る。
☆
「んで、どうだったんだ」
それぞれ食事が終わり。
京子はサラダを途中でギブアップし。
恵がその残りを平らげ、まだ食べ足りないからと、フライドポテトを追加注文し、ドリンクバーのコーナーからそれぞれの飲み物を持ってきたところで。
「あの話、結構イカれたもんに見えたんだけど」
隆がストローでコーラをすする。
「うん、初めはそうかと思ったんだけどさ。まぁ、その実中身もそんな感じだったんだけどさ」
ホットコーヒーにミルクを混ぜながら、恵。
「そうなの?やっぱり?行かなくてよかった」
京子はアイスティーに、ガムシロップを5~6個流し込みながら。
「いや、京子ちゃん。前から思ってたんだけどさ……」
恵が、真剣な顔をして言う。
「なに?」
「その飲み方は、変」
「えー、そうかな。だって、苦くて」
『なら飲むなよ』
恵と隆の、ジェスチャー付きで突っ込む。
「だって、ね。なんか、おしゃれじゃない?アイスティーって」
『おしゃれじゃない』
「あうぅ」
「はぁ。そう、この間の話。ほら、肉食中心とか、野菜中心とか、バランスよくとか。20回咬まなきゃだめだぞとか。最初はそんな話だったんだけど」
「うん」
「そのうちね、なぜ食事をするのかって話になって。食事はつまり栄養を吸収するためなんだけど、野菜よりは、肉とかの方がエネルギー効率がいいとか、そんな話になって」
「うんうん」
「んで、最終的に、自分に一番近いものから摂取すればいいだろうって」
「うん?」
京子と隆は、首をひねる。
「それってつまり?」
「自分と姿かたちが似ているものから摂取するのが、一番いいんじゃない?って。必要なものはそこで揃っているからって」
それを聞いた京子は、露骨に顔をしかめる。
「それってつまり、人を食べればいいってこと?」
京子に対して恵は、大きくうなずき。
「ん。で、生なのか、焼くのか煮るのか、どの部分が食べられるのか、などなど。OHP使って説明してさ」
眉間にしわを寄せながら、隆はズズッと音を立てたストローを口から離して。
「確かに、眉唾過ぎだな。つか、怪しすぎ。大丈夫なのか、そんな講座やって」
「そう思ったよ。でも、妙に真面目に話をするもんだから、真剣に聞かなきゃならないのかなって」
恵も、あごに人差し指を当てて悩んだふりをする。
「ごめん、主題がわからないんだけど。日向先生って、民俗学だっけ?」
「民俗学ではなかったと思ったけど。てか、仮に民俗学でも堂々とやったらまずいだろ、その内容は。途中退出もありだと思う。むしろ、そのまま教務課行き」
隆は指をくるくるとまわして、そのままあちらへどうぞ、というジェスチャーをしてみせた。
「えぇ、そんなことできないよ」
さも驚いたように、大げさに恵が声を上げる。
「そうかぁ?恵は真面目だからなぁ」
「真面目じゃないよ。どこが真面目だよ。この見た目を見てよ」
そう言って恵は自分を指さす。
「見た目ぇ?」
隆は、恵を下から上までスキャンしていく。
そして、上から下へ。
「隆、視線が卑猥」
冷静に京子が突っ込みを入れる。
「だっれが卑猥だよ。絵に描いたような真面目にしか見えんわ。しかも、フリルのスカートって」
「フェミニンよね、めぐは」
「誰かさんと違ってな」
「誰かさんって、誰の事?」
「さぁな」
そう言って、口元だけニヤッと笑いあう京子と隆を見て。
「仲いいよね、ほんと」
フライドポテトの最後の一本が、恵のものになった。
☆
翌日。
いつものように自転車で隆が構内に入ると、どうも雰囲気がおかしかった。
「なんだ、ありゃ」
坂道を登った所にある学部の実習棟、通称H棟の入り口には、黄色と黒の規制テープが張られ、その前には制服姿の警察官が立っていた。
そこを遠巻きに眺める人の中に、土師京子の姿を見つけた隆は、自転車を押しながら近づいていく。
「はよ」
「ん、あぁ、おはよ」
京子の服装は、昨日と大して変わらない。シャツの色が白から黄色になったくらいだ。
かといって、隆の服装も目立っては変わらない。二人とも、変化は最低限のエコ生活を地で行くようなスタイルだ。
「何があったん?」
「よくわからないんだけど、昨日の夕方に、プレイルームで実習中に噛みつき事件があったんだって」
そういうと、京子はまた視線を戻す。
「なんだそりゃ」
「だから、プレイルームで実習中に噛みつき事件だって」
「誰が」
「実習中の学生が」
「誰に」
「実習中の学生に」
「うん、わからん」
隆は、さっぱりといった表情を浮かべる。
「私も」
京子も同様の表情を浮かべた。
「ところで、京子は朝イチ講義じゃなかったのか」
「そんな事があったんだから、当然H棟は立ち入り禁止。必然的に、ここで行われる講義は全部休講。よって今日の私は完全オフ」
そう言って手提げかばんをぐるっと振り回す。中身のつまったかばんはちょっとした凶器だ。
「うわ」
かばんが顔のすぐ近くを通り、隆は思わずのけぞった。
「あ、ごめん」
悪びれる様子もなく、京子はその後さらに二回ほど凶器を振り回した。
「ったく。じゃ、俺は講義行くから」
時計を見ると二限目の講義まであと五分を切っていた。
「えー、つまんなーい」
抗議の声を上げる京子を後にして、駐輪場に自転車を止め、今日の講義が行われるK棟へと向かった。
☆
結果から言うと、今日の講義は全て休講ということになった。
学内で起きた事件のため、という名目で。
K棟の講堂入り口前には、休校の情報共有をする集団が形成されていた。
その集団から、隆を見つけた木野恵が、大きく手を振りながら現れた。
「かーなやーん」
「おう。どした、恵」
「今日は休講だって。明日ももしかしたらやらないかもって」
そう言って恵はぴょんぴょんと跳ねる。
「明日は土曜だろ」
隆は跳ねる恵の頭を見定めてから二度、ポンポンと叩いた。
「むぅ。子ども扱いしないでってば」
「してないし」
そう言いながら恵の今日の服装をチェックする。
今日はプリーツスカートにツインテールといったいでたちだ。
「中学生か」
「違うもん」
恵はぶぅっと頬を膨らませてみせた。
「おうおう、今日も仲のよろしいこと」
そう言ってもう一人、集団から抜け出てきた人物がいる。
「お、水田。久しぶり」
そう言って隆は手を挙げた。
隆と水田の付き合いは高校からだが、大学に入ったとたんに自治会なるものに水田が入ったため、講義の教室で見かける以外はほとんど話をしなくなっていた。
「もう、付き合っちまえよ。その方が俺らもしっくりくるよ」
水田はそう言って大げさにため息をつく。
「何のことだよ」
隆は片眉を上げる。
「土師か、木野か。どっちか選んじまえってことだよ」
「はぁ?」
隆は今度は大きな声を上げる。
「知らなかった。金谷んと付き合っていたなんて」
恵は、目をまん丸くして隆を見つめる。
「付き合ってないし」
隆はすぐに否定をした。
恵はそれを聞いて落胆した。
「ま、どういう関係かは、俺はわからないけどさ」
水田はそう言いながら、奥のテーブルを指さした。何か、話があるらしい。
「さっき、H棟の前、通ったか?」
テーブルに移動しながら、水田がそう話し出す。
「あぁ、通ってきた。立ち入り禁止だってな」
「そう、立ち入り禁止だ。事件だってな。で、問題は、誰か、だ」
そう言って水田はイスに座る。
隆と恵も、テーブルを挟んでイスに座った。
「どうも、火宮と月代らしい」
そう言うと、水田はタバコを取り出して火をつけた。
「誰」
「誰ってないだろう。同じ学部だ」
煙を吐き出して水田が言う。
「この学部、何人いると思ってるんだよ。覚えられっこないよ」
そんな会話をする隣で、恵がひどく驚いた顔をしていた。
「恵?」
「うそ。火宮んと月代んだなんて」
そう言って、目からぼろぼろと涙を流す。
「木野さん!?」
慌てて水田がハンカチを渡す。こういったところに、抜け目のない奴だ。
「うん、ごめんなさい、ありがとうございます」
妙に丁寧に答え、恵はハンカチを受け取った。
「だって、火宮んも月代んも、昨日元気だったよ、何もおかしいところなんてなかったよ」
もらったハンカチをぎゅっと握って、恵が言う。
「だろうよ。一緒に実習していた他のメンツも同じ事を言ってるってさ」
「どこでそんな話を聞いたよ」
「一緒に実習をしていたメンツから」
そう言って、再び煙を吐き出す。
「何も前触れはなかったんだと。まぁ、火宮も月代も、仲は良い方だ。お互いに話をしているうちに、互いに噛みつきあったんだそうな」
「互いに?わけがわからん。実習の内容は」
「箱庭だったそうな。まぁ、何か潜り過ぎたのか、それとも別に何かあったのか。二人は無事だってよ。今入院中」
二人が無事だという話を聞いて、恵はほっとしたようだが。
「あぁ、見舞いには行けないよ。面会謝絶」
その水田の言葉に、また暗くなる。
「ま、元気になったらまた出てくるだろうよ。俺が知ってるのは、そこまで」
そう言うと、水田は片手を出した。
「なんだ、この手は」
「なんだじゃないよ。情報料」
そう言って手を動かす。
「まったく。勝手に話しただけだろ」
隆はため息をつきながら、後ろの自販機でコーラを買ってきてその手に乗せた。
「お、サンキュ。じゃ、お二人さん、よい週末を」
そう言って水田は去っていった。
「何が、よい週末を、だよ」
そう言いながら、もう一本買ったコーラを恵に渡す。
「恵も、これ飲んで元気出せ」
そう言うと恵は顔をあげて。
「コーラ、飲めない」
☆
結局、講義のない学生がどこに行くのかというと、学内の図書館か、学食か、近所のファミレスということになり、そのすべてが満員状態となった。
京子との合流を優先し、出遅れた隆と恵は、そのすべての行き先で中に入る気力を失くし、最終的に京子の家に行く、という、わけのわからない選択をしたのだった。
「おじゃましまーっす。おぉ、意外ときれいじゃん」
恵の話を聞いて、ある程度の覚悟をしていた隆だったが、家の中は綺麗に片付けられており、男くささなどは全くなかった。
「京子ちゃん、頑張ってお片付けしたね」
恵の一言が、隆の感動に水を差す。
「めぐ、それ以上喋るとおいたするよ」
「はーい、お口チャックー」
恵はそう言って、口にチャックをするジェスチャーをした。
「まったく。適当に座って。今、コーヒーいれるから。インスタントだけど」
「どうぞ、お構いなく」
隆は床の上にどっかりと座り込む。
恵は、どこからか座布団を見つけてきてその上にちょこんと座った。
京子はヤカンを火にかけてから、空いていたベッドへと座る。
「で?」
京子が、隆を見つめて言う。
「いや、で?って言われても」
そう言われても、隆にも説明のしようがなかった。そもそも、何を説明するのかが良く分からない。
とりあえず、先ほど水田から聞いた話を京子にも伝えた。
「さっき、聞いた話。H棟で何があったのかの内容は、まぁそんなところだと」
「ふぅん。火宮と月代か。真面目な二人が、そんな事したんだ」
「なんだ、京子は知ってるのか、二人のこと」
「そりゃ知ってるよ。一時、サークルが一緒だったから」
「サークル?何の」
「護身術」
「それはサークルか」
「格闘技系サークルが、教えてくれるって勧誘してたの。余りにむさ過ぎて、私はすぐにやめちゃったけど」
そう言ったところで、ヤカンが音を立てたので京子は慌てて火を止めに行った。
「したら、二人はそれなりな身のこなし?」
キッチンの京子に向けて、隆は続ける。
「そんなことはなかったかな。二人とも、まぁ、普通のかわいい子だよ」
格闘技サークルに興味を持つ子のどの辺が普通なのかが、隆にはよくわからなかったが、京子も興味を持ったというのだから、何かデビューをしたいという気持ちはある子達なのだろう。
「まぁ、ここんところは箱庭とか、バウムとか、そんなのばっかりやってるって言ってたかな」
コーヒーの入ったマグカップ三つをトレイに乗せて、戻ってきた京子がそう言った。
「めぐの方が、よく話していたんじゃないの?」
そう言って、二人が恵を見ると、恵は手をぱたぱたさせたり、うんうん頷いたりしてみせた。
「めぐ、何やってるの?」
京子が冷たい視線を恵に向ける。
それに対して恵は、口を指さして何やら必死にジェスチャーをしている。
「え?あ、あぁ、お口チャック。もういいわ」
恵の口の端に人差し指を当て、それをツーっと動かすと途端に恵の口が開いた。
「ぷはっ。ほんと?よかった、もう喋れないかと思った」
恵はほっとした顔で大きく息を吸った。
「火宮んと月代んは、この間の講座も一緒に聞いたよ。きちんとノート取ってたから、後で見せてねって言ったの。そしてね、変な話だったねーって言って、別れたの」
「こないだの講座って、昨日言ってたアレか?」
「そうだよ、日向先生の講座」
「まじか。そういうの聞く子なんだ」
「木野ちゃんだって聞いたんですけど」
ぶうっと膨れる恵に対して隆は。
「そうそう、恵もそういう子なんだね」
何の解決にもならないコメントを出す。
「終わった後、実習があるからって別れて。そう、お腹空いたねーって話したの」
コメントを無視して恵は続ける。
「そうそう、お肉食べたいよねーって話してたんだ、その時に」
「それで、昨日はハンバーグか。そういや、恵はあんまり肉、食べないもんな」
「そうだよ。お肉はね、天敵なの、太っちゃうから。でも、なんかね、昨日は食べたくなっちゃって」
そして京子にもらったコーヒーを飲む。
「ねぇ、京子ちゃん」
「なに?」
「お砂糖」
「わがまま」
立ち上がる京子に対し。
「あと、ミルク」
『お子様か』
「ぶう。ぶうぶう」
さらに膨らんでいく恵。どう見ても、駄々をこねている子供にしか見えない。
「恵、あのなぁ」
言いかけた時、ちょうど隆の携帯がブルブルっと震えた。
「誰だ、この番号。わり、ちょっと電話してくる」
そう言って席を立つ。
「そう?隆は砂糖とミルクは?」
「俺はブラックでいいや」
表を、サイレンを鳴らしたパトカーが通り過ぎていく。
「木野ちゃんはお砂糖多めで、ミルクたっぷりで」
「はいはい、ちょっと待って」
京子と入れ替わりにキッチンを抜け、玄関で電話をかけ直す。
「ねー、京子ちゃん、こうやると、おいしそうだよねー」
恵の幸せそうな声が聞こえてくる。
「もしもし」
『もしもし、隆か。よかった、つながって』
「水田?」
『今、木野さんと一緒か?』
さっき会った時とは打って変わって、緊張した声だ。
「あぁ、一緒だ。どうした」
『今、自治会経由で話が回ってきた。昨日話をした、日向先生の講義を受けたやつが、軒並みおかしいらしい』
カチャンと、何かが落ちる音がする。
「日向先生の講義って」
『食物のなんちゃらって奴だ。それを聞いた学生が、どうもやばいって』
ドン、と、何かがぶつかる音。
「なんだそれ。良く分かんねー」
そう言いながら、ふと心配になって後ろを振り返る。
『手近に仲のいい奴がいると、食べようとするらしい』
ちょうどそこには、京子を押し倒して、首筋に歯を立てている、恵がいた。
☆
「京子!」
携帯をそのまま放り出して、部屋の中を走る。
「あ……」
床の上から、京子の視線が動く。
「恵、お前、何やって」
「あ、金谷ん。電話終わったの?金谷んもやる?」
いつもの表情のまま。
京子の首筋から話した恵の口は。
赤かった。
ペロッと、口の周りを舌が舐める。
「何やってんだよ、恵」
隆はどうしていいかわからず、そのまま恵に体当たりをして、京子の上からどかす。
「きゃ」
恵の軽い体はそのまま、テーブルをコーヒーカップごとなぎ倒し、ベッドに体をぶつけて止まった。
「大丈夫か、京子」
隆は、首筋を噛まれた京子を見る。
「大丈夫、ちょっと、うん」
そう言う京子の首すじには、はっきりと人の歯形がついていて、それに沿って赤く血がにじんでいた。
「大丈夫じゃない。恵、お前な」
隆は叫ぶが、恵からの反応はない。
「恵?」
ベッドの所まで近寄っていくが、どうやらぶつかった拍子に気を失ったようだった。
床に伸びるコーヒーと、割れたマグカップと。
その上に倒れる恵の姿は。
まるで何かの儀式のようだった。
☆
「ん……」
木野恵は、目を覚ました。
「ここは……」
頭がズキズキする。
「そうだ。京子ちゃんちに来てたんだっけ」
座ったまま、眠ってしまったらしい。頭だけではなく、変な体制で眠ったからか、体も痛い。
「起きなきゃ」
手をついて起き上がろうとしたが、両方の手が何かに引っかかって立ち上がれなかった。
「おう、起きたか」
テーブルを挟んで少し離れた場所に、金谷隆と、土師京子の姿があった。
京子は隆の後ろに隠れ、怯えた目で恵を見ている。
首には、ガーゼのパッチが当ててあった。
「京子ちゃん、どうしたの」
恵が、にっこりと笑う。
「どうしたの、じゃないよ。めぐ、あんた」
「なぁに?だって、京子ちゃん、おいしそうだったんだもの」
「めぐ……」
当たり前のように、京子に対してそう言う恵を、隆はずっと見つめた。
「恵、お前、いったい何なんだ」
目が血走っているとか、視線に落ち着きがないとか。
そういった部分は、全くなかった。いわば、いつもの恵だ。
「何なんだって、木野ちゃんは、木野ちゃんだよ。それよりも、これ外してよ」
恵はそう言って、腕を揺する。
「できない相談。とりあえず、今、警察来るから、ちょっと待ってろ」
「警察?なんで?」
「さぁな、自分で考えろ」
「考えてもわからないよ。京子ちゃんが、おいしそうで、おいしそうで、それだけだよ。ね、京子ちゃん」
恵は、自分が何をしたのか、何をしようとしたのかを知った上で、覚えている、その上で。
まだ、京子の事を、おいしそうだと言った。
それは、例えば、何か誉め言葉のように。
まるで、綺麗に盛り付けをされたディナーを目の前にする様に。
あるいは、さんざん遊んだ後のバーベキューの様に。
おいしそうだと言った。
京子は、震える手で、隆の服を掴み。
隆は、その手に、そっと手を重ねた。
☆
学内のカフェテラスに、京子と隆の姿はあった。
その後、恵には会っていない。
京子の首には、うっすらと跡が残った。
三人で居たのが、二人になった。
ただそれだけなのに、普段過ごす学内の風景もガラッと変わって見える。
そんなグループが、この学内にはどのくらいあるのだろうか。
目立っては誰も、その事に触れようとはしない。
誰かがいなくなり、誰かが身近になる。
そんな事の繰り返しは、もしかしたら日常の風景から切り出して、目立たせるものではないのかもしれない。
「よう、ご両人」
PCの画面越しに声をかけてきたのは、水田だった。
「おう」
隆は、手を挙げて応える。
そこから、続きの話はない。
きっと、誰も触れたくない部分なのだろう。
「ねぇ、隆」
「ん?」
「私って、おいしそう?」
京子が、ホットティーに砂糖を入れながら聞く。
「は?何いきなり」
隆は眉間にしわを寄せる。
「……食べたい?」
そう言って、首筋を指さす。
「食わねーよ。腹壊しそうだ」
そう言って立ち上がると、隆は京子の首筋にキスをした。
読みにくいのはご勘弁くださいませ。
ありがとうございました。