第17話 常春の湖畔亭
「此処か」
漸く屋根の下で寝れるなという思いと、久しぶりの風呂への期待を胸に辿り着いたのは、『常春の湖畔亭』と言う名の温泉宿だった。
結局セツナからは聞きそびれてしまった為、仕方なく一度ギルドまで戻り、アリシアからお勧めの宿屋として聞いて来たのが、この常春の湖畔亭だったのだ。正直、良くあるタイプの普通の名前だったことに安堵していたりする。これが寺田屋とか池田屋だったら、何時襲撃されるかおちおち寝てもいられない。まあ、冗談はさておき。
ユバの街は、湖畔の街と言われるように、その南側がそこそこの大きさを持つ湖(特に名前はないらしい)に隣接している。街を作る際、湖に棲む魔物の類いは粗方一掃していた為、湖を漁場とする漁師も少なからず存在する。そこには大小様々な船が係留された船着き場が有り、そこから程近い湖の畔に宿屋は建っていた。
外見は如何にも宿場町の旅籠といった趣なのだが、中はやはりと言うかギルド同様に和洋折衷の造りだった。入って直ぐがカウンターとテーブル席の酒場兼食堂となっており、奥の方にはなんとお座敷まで有った。既にお昼を大分回った時間帯だったが、食事や酒を飲む客もまだそれなりに居るようだ。
「いらっしゃいませっ。お食事ですか、それともお泊まりですか?」
元気良く飛んで来たのは、見るからに看板娘といった感じの、中学生くらいの可愛らしい女の子だった。
「ああ、宿泊をしたいのだが」
そう言うと、その女の子はちょっと待ってくださいねと言って、厨房らしき場所の暖簾を掻き分けて中へと呼び掛ける。
「お母さーん、お客さんだよ──っ」
「はーい」
そして中から出て来たのは、三十半ば程のふくよかな、だが決して太っているという訳ではなく、程好く肉感的で貫禄のある女性だった。何より目についたは、その女性が着物を着ていたことだ。その姿は正に旅館の女将といったところか。この世界に来てから初めて目にする着物だったが、この国のお国柄からすると、今まで見なかったのが不思議なくらいだ。
「着物が珍しいですか?」
此方の視線に気付いた女将がそう言って微笑む。
「いや失礼、この街に来て初めて見たものでね」
「そうかも知れませんね。昔は良く着られていたんですが、最近は着付けが面倒で着る人が少なくなりましたから」
成る程な、職業柄でもなければ余り着ることもないということか。そう思っていると、女将が話を戻した。
「あら、お泊まりでしたね。うちは朝夕二食付きで一泊銅貨80枚になります。お昼は別料金になりますが、宿泊客の方には若干お安く提供していますので、よろしければご利用下さい」
一泊八千円てとこか。日本人的な感覚だと安いと思うのだが、この世界ではこれが普通なのだろうか。他を見てないから何とも言えないが。
「あ、表に馬が居るのだが」
「馬は厩舎が御座いますので、そちらの使用料が餌代込みで一泊銅貨20枚になっております」
「分かった。取り敢えず5日程頼む」
と懐から出す振りをして収納から銀貨5枚を取り出して手渡す。
「はい、確かに。お風呂は大浴場と露天風呂が有りまして、どちらも自由にご利用頂けますが、深夜から早朝に掛けては清掃の時間となっていますのでご了承下さい」
頷きつつも、深夜って誰が掃除してるんだろうと疑問に思ったりもする。
「それから、明かりの魔道具は魔石をお持ちでしたらお使いになって下さって構いませんが、此方でも一日銅貨30枚で貸し出していますので、入り用の際はお申し付け下さい」
魔石?やはりあれは魔道具に使うものだったか。ふと思い出して、最初に手に入れた風の魔石を取り出して見せてみる。
「これは使えるのか?」
「こちらは風の魔石ですね。明かりの魔道具に使うのは火の魔石です」
そりゃそうか。明かりには火、考えてみたら当然だった。
(火の魔石か。確かオークが持っていたな)
と今度は火の魔石を取り出す。
「火の魔石ですね。これなら使えます」
「そうか、有り難う」
多分常識的なことなのだろうと思うのに、変な顔一つせずに受け答えしてくれる女将に、客商売ならではの気配りを感じて感心する。やはり常識も含めて、この世界のことをもっと良く知らないとなぁと、強く思う。
「申し遅れました。私は当宿の女将のタミアといいます。此方は娘のコハル」
紹介されたコハルがペコリと頭を下げる。
「白夜だ。暫く世話になる」
「それじゃ白夜さん、お部屋にご案内しますねっ。あっと、その前にお馬さんだね。厩舎に案内しますから着いて来て下さいっ」
コハルはそう言うと、元気良く外へ飛び出して行った。
騒がしくてすいませんと言う女将に苦笑いを返し、コハルの後を追う。フェリオスを厩舎に預け、次に案内されたのは三階の角部屋だった。
「此処が白夜さんのお部屋になります。これが部屋の鍵です」
渡されたのは昔ながらの大きな棒鍵(多分銅製)で、盗賊とかだったら簡単にピッキング出来そうな単純な造りだ。気休め程度のものだろうなと思う。
「居ない間にお掃除とかしますので、出掛ける時は預けて行って下さいね」
「ああ、有り難う。それと暫くしたら降りて行くので、食事を用意しておいてもらえるか。お勧めがあったら教えてくれ」
「うちは直ぐそこで新鮮な魚が獲れますから、魚料理なら何でも美味しいですよ」
「じゃあ、適当に魚料理で頼む」
それを聞くと、コハルは分かりましたと答えて即座に駆けて行く。クルクルと跳ねるサイドポニーがまるで尻尾のようで、溌剌と動く様がシマリスを思わせる。その後ろ姿を微笑ましげに見送って部屋の中に入ると。
「おお」
思わず感嘆の声が漏れる。
中は畳張りの純然たる和室だったのだ。しかもベッドではなく、隅の方には折り畳んだ布団が置いてある。部屋の真ん中には卓袱台と座布団が敷いてあり、卓袱台の上には湯呑み茶碗と急須まであった。
ゲーム時の大陸には畳など無かったはずなので、おそらくこの国独自のものなのだろう。言わばナノワ式とでも言うべきか。中々洒落が利いている。(笑)
戸口で履き物を脱ぎ、中に上がって装備を全て外す。
「ん~~~」
解放感から、大きく伸びをしたまま大の字になって畳の上に寝転がる。現実でも畳の有る部屋に住んでいたので、久しぶりの藺草の香りに、我知らず気持ちが落ち着く。暫く目を閉じて安らいでいると、次第に今まで起こったことを思い返し、今度は段々と鬱な気分になって来た。
「はぁ、セツナには参るよなぁ······」
悪い娘ではないのだが、逆に真っ直ぐ過ぎてあの思い込みには閉口する。セツナと関わって行くということは、何れその領主の爺さんとも関わりを持つようになるかも知れないのだ。出来ればそれは遠慮願いたい。そんな大物と関われば、否応なしに国の中枢に近付いて行くということなのだから。何とかして煙に巻きたいところだ。
「あーやめやめ、今考えてもドツボに嵌まるだけだ。腹が減って思考能力が落ちてるな。飯でも食うか」
そう思い立つと、起き上がって普段着になりそうな装備に着替える。選んだのは全クラスで装備可能な地味めのチュニックとレギンス、そして軽めのハーフブーツだった。腰のものは、街中での殺生を避ける為の配慮として竹光にした。イベントで手に入れた攻撃力1のお遊び装備だが、虚仮威しくらいにはなるだろう。
部屋を出て一階の食堂に向かうべく階段を降りていると、下から叫び声が聞こえてきた。
「やめて下さいっ!」
どうやらコハルの声のようだ。
何があったのか、急ぎ一階まで降りてみると、男が酔っぱらってコハルに絡んでいるようだった。
「いいじゃねぇかよ酌くらい。おら、こっちに来なっ」
「放してっ!」
男はコハルの腕を掴んで引き寄せようとしている。コハルも抵抗しているが、男の力には逆らえずにいた。
(全く······)
真っ昼間から泥酔した挙げ句、年端もいかない娘に絡むとか、駄目人間決定だな。
「いい加減にして下さいっ」
「なにおうぅ、逆らおうってのかぁっ」
呂律の回ってない男の鼻先に、鞘に入ったままの腰のものをスチャッと突き付ける。
「その辺にしておけ」
「白夜さんっ!?」
コハルは一瞬驚くも、直ぐに自分の後ろに身を隠すようにして下がった。
男は最初目を白黒させていたが、割り込まれたことが分かると、酔って赤い顔を益々赤くして熱りたった。
「なんだてめぇはっ!女のくせにでしゃばんじゃねぇぇっ」
胴間声を張り上げ、男は身構える。
男はレザーアーマーに剣を身に付けた、冒険者か傭兵といった格好をしていた。酔ってはいるものの対人に慣れたような物腰から、おそらく傭兵だろう。頭に血が上っている為、場も弁えずに剣を抜こうとする。
(はい、アウト)
透かさず、男が剣に手を掛けるより早く刀を抜き、剣帯を斬って剣を落とす。ついでにベルトも斬ると、まず剣がガシャンと音を立てて床に落ち、次にズボンがずり落ちてパンツ一丁になる。
「!?」
男は瞬く間の出来事に、何が起こったのかも分からずに立ち尽くす。逆に周りがざわつき始めた。
「おいあれ、竹光じゃないか?」
「嘘だろ、そんなもんで切ったのか」
抜き身となった刀を見て、それが竹光であることに気付いた他の客達が驚きの声を上げる。
例え薄い紙でも、角度とスピード次第で手を切ったりすることがあるのと同様に、竹光でも革を切ることくらい造作もないことだ。尤も、この身体の身体能力があってこそだが。
男も周りの声で事態を認識したのか、赤ら顔を急激に青ざめさせていく。
「酔いは醒めたか?」
竹光の切っ先を突き付けてそう言うと、男は青ざめた顔に冷や汗を流しながらコクコクと頷いた。
「なら出て行け。周りにも宿にも迷惑だ」
男は慌てて落ちていたズボンを上げ、手で押さえたまま出て行こうとする。
「待て」
「ひぃっ!?」
呼び止めると、男は引き吊った声を上げて止まった。恐る恐る此方を振り返る。
「金は払って行け。それと忘れ物だ」
落ちていた剣を投げ付けると男は慌てふためいて受け止め、銀貨を置いてそそくさと出て行った。
そして次の瞬間、歓声が沸き上がる。
「あっはははっ、見たかよあの格好」
「姉ちゃん、やるなぁ」
「おう、スッとしたぜ」
「一杯やろうぜっ」
「馬鹿野郎、お前は飲み過ぎだ。叩き出される前に止めておけっ」
笑い声と共にそんな声が聞こえて来る。どうやら、皆も腹に据えかねていたらしい。相手が傭兵ということで、何も言えなかったのだろう。
「すっごーい!白夜さんて強いんですねっ。お父さんみたい」
コハルが瞳をキラキラさせて言って来る。
「お父さん?」
「うん、何時もはお父さんが出て来て叩き出しちゃうんですよ。お父さん達、昔は傭兵だったそうです。私が生まれる前の話ですけどね」
「ほう」
達ってことはあの女将もか。人は見掛けに依らないな。
「それじゃあ、余計なことをしたかな」
「とんでもありません、助かりました」
何時の間にか出て来ていた女将が頭を下げる。
「穏便に済めばそれに越したことはありませんから」
あれで穏便か?一応、刀を抜いたんだが。何時もはどんなだか聞くのが怖いな。
そんなことを考えていると、厨房の中からやたらとガタイの良い強面の男性が出て来た。
「あっ、お父さん」
コハルが声を上げる。これが父親か。確かに傭兵の一人や二人どうにでも出来そうな、只者ではない雰囲気を纏っていた。
その男は厳つい顔で此方を一瞥すると、料理を乗せたお盆を目の前のテーブルに置く。
「こいつは奢りだ。食ってくれ」
低い声でそれだけ言うと、直ぐに厨房に戻って行ってしまった。
(えーと、これはあれか、そういうことか?)
突然の成り行きに、どう反応していいか戸惑っていると。
「すいませんね、愛想がなくて。今のがうちの料理人、私の亭主のゼフです。どうやら気に入られたようですね。あんなに機嫌が良いのは久しぶりに見ました」
女将のその言葉に目を丸くする。
あれで機嫌が良いのか。顔力で人が殺せるんじゃないかってくらい厳めしい顔をしていたが。
「さあ、折角ですから冷めないうちに召し上がって下さい」
「うんうん、お父さんの料理、すっごく美味しいんですよっ。さあ、早く早く」
実を言うと、先刻から空腹を刺激する良い匂いに、腹の虫が鳴りっぱなしだったのだ。
二人の勧めに従って料理の置かれたテーブル席に着き、
「それじゃ、遠慮なく」
と料理に手を付け始める。
メニューは、鯖に似た赤身魚の切り身に味噌を付けて焼いたものと、(おそらく)鳥肉と根野菜を醤油味で煮込んだ筑前煮のようなもの、そして白い御飯と豆腐の味噌汁に御新香まで付いていた。焼き物と煮物の違いはあるものの、正に鯖味噌定食という感じだった。
コハルが自慢するだけあって味はどれも絶品で、醤油や味噌が有ったことにも感動しつつ、待望の白い御飯ということもあって食が進み、瞬く間に料理を平らげる。
女将がその食べっぷりに感心し、嬉しそうに見ていたコハルが最後に持って来てくれた水を飲んで一息吐く。
「ふー、美味かった。ご馳走様」
それを見た二人は満足げに頷き、女将は食器を下げに厨房へ、コハルは他の客の対応へとそれぞれの仕事に戻って行った。
腹も膨れ、さてこの後どうしようかと考えた時、これから必要になる日用品を買い揃えようと思い付いた。
鍵を預けるついでにコハルからお勧めの雑貨屋の場所を聞き、宿を出る。然程遠くない場所だったので、フェリオスは置いて徒歩で行くことにした。
コハルから聞いた店の在る商店街らしき通りに着くと、そこは様々な店や露店が建ち並び、多くの人で賑わっていた。
目当ての店で歯ブラシやタオル、石鹸(シャンプーやリンスは流石に無かった)等の日用品、コップや皿、箸にスプーン等の食器類、それと水筒といった物を買い揃えていく。
それから、別の金物屋らしい店で鍋やフライパン、御飯釜や包丁等の調理器具も買っておく。今度野営でもする時の為だ。テントとかも必要かなと思ったが、そこまで必要に迫られている訳でもないので今回は止めておいた。
「後は調味料が欲しいな。折角、醤油や味噌があると分かったんだ」
調味料を扱う店は直ぐに見つかった。
醤油と味噌の他に唐辛子やスパイス系も幾つか買い、砂糖は白砂糖ではなく黒砂糖だったがこれも買っておく。
「大体これで必要な物は買ったかな」
指折り数えて確認していると、大事なものだが鬼門とも言えるものが残っていたことに気づく。それは無意識的に後回しにしていたものだった。
「下着が残っていたか······」
基本、装備格納に有るもので着るものには困らないが、下着は別である。現状では、ゲーム時のデフォルトである下着が一揃えあるだけなのだ。流石に着た切り雀という訳にはいかない。
(ステテコパンツじゃ駄目かな)
そんなことを考えながら、重い足取りで衣料品を扱う店を探し始めた。
今のところ、飯テロをする予定はないですw